どうも。

久々のブログ更新です。

 

人と人の出会いというものは、本当に不思議なものだ。

 

このブログの第一話で出てきた「尾久」という街。

俺が上京して一人暮らしを始めることになる街だ。

なぜその街に住むことになったかというと、やっぱり、人と人の出会いがあったからである。

 

浪人時代にお世話になった高校の先輩が、就職で東京の田端に住んでいた。

その先輩のワンルームマンションにゴールデンウィークを使って転がり込んで、不動産屋を回って、田端近辺でアパートを探した。

そして、親に言わずに勝手に部屋を契約して福岡へ帰ってきたのだ。

 

「東京に遊びに行ったと思ったら、部屋を契約して帰ってきた。」

 

当時、親は、俺が上京するとは言っていたけど、

まさかこんな急に、そして本当に部屋を決めて帰ってくるとは思っていなかったようだ。

 

入居日を決めてから、その日まで怒濤のアルバイト。

引っ越し代と、当面の生活費を貯めるために、

ほぼ毎日、深夜のコンビニと焼き鳥屋と塾でのアルバイト。

3つのバイトを掛け持ちして、15万ほど貯めて上京したっけなぁ。

 

宇都宮高崎線の上野から一駅の「尾久駅」。

田端までチャリで10分ほど。

 

いつもその先輩にいろいろお世話になっていた。

 

週末はいつも飯に誘ってくれて、遠いところのファミレスまでドライブしたり。

田端にある、いわゆる回らない寿司屋(高い店)で、ご馳走してくれたり。

呑みに連れて行ってくれたり。

部屋に泊めてくれたり。

 

本当に大好きな先輩だ。

そんな大好きな先輩がいる街「田端」になるべく近いところで仕事も探そう。

 

そんなわけで、上京して初めてアルバイトの面接に行ったのが、

「日暮里」だった。

 

「田端」も近いし、住んでいる「尾久」も近い。

 

その「日暮里」にある下町の大衆レストランでバイトの面接を受けて、その場で合格。

次の日から来てと言われてから約12年間。

 

今の職場に就職するまで、ずっとそのレストランでバイトさせてもらっていた。

 

現在の職場は、妻のお姉さんの旦那、つまり義理の兄から紹介してもらって就職することができた。

なんとなんと「学習塾」だ。(大学を卒業していて本当に良かった。)

その義理の兄も元バンドマン。

妻のバンドのリーダーでベースを担当していた男だ。

とても気さくなナイスガイ。

当時はアフロヘアで、レコードを沢山持っていて、オールナイトDJイベントなどもやっていたほど。

 

そもそも、妻と出会ったのも、俺がバイトをしていた「日暮里」のレストランに妻がウエイトレスで入店して来たのがきっかけだ。

まぁ、このブログでも書きましたね。さらっと。

 

で、バンキンガールの初代ドラムの「のりちゃん」と出会うことができたのも、

「日暮里」のレストランでバイトしていた後輩からの紹介。

「ロックしか叩きたくない」という男。

それが「のりちゃん」

 

本当に今まで、沢山の人に出会い、

沢山の「選択」をして生きてきた。

 

ここで、俺が、

 

一人暮らしの街を「尾久」にしていなかったら。。。

 

いや、

 

俺の先輩が「田端」に住んでいなかったら。。。。

 

全てが変わっていく。

 

俺はバイト先を「日暮里」にしていないだろうし、

妻にも出会ってない。

当然、ドラムの「のりちゃん」にも出会わないし、

きっと違うバンドで活動している。

 

そうなると、no_NAMEは結成されず、当然、バンキンガールも結成されない。

渋谷のルビールームにも行かないし、

その前に、怒濤のCD押し売り営業もやっていない。(あの過酷なラジカセ営業…)

 

運命というものがあるのなら、

こうなるように決まっていたのだろうか。

人生は自分で切り拓くもの。

それはたしかにそうだと思う。

自分の選択が運命を決定づけるものなのか、

どんな選択をしても、行き着くところは一緒なのか。

 

なんだか、考えてもよくわからんが。

 

ただ、確かに思うこと。

それは、

たとえ、自分がどんな「選択」をしたとしても、

その「選択」によりどんな未来が待ち受けていたとしても、

人生の最後を迎える時に、

「素晴らしい人生だった。」

そう言えるようになりたいと思う。

 

そう。

やっぱり、自分の中にはそういった、

バンキンガールの楽曲「スバラシカヒビ」の美学、哲学が刻み込まれているのだなと、

実感するのであった。

 

「そうなる運命だった。」

 

「運命」とは、

結果論だ。

何か目に見えない大きな力で

その人の人生を動かしていくような

スピリチュアルなものなのかも知れないが、

 

その結果を自分に納得させるために使う言葉に過ぎない。

「運命というものがあるのなら」

俺は、そう思うのだ。