母の日に娘からパンジークッキーを頂きました。
2024年3月に末日聖徒イエス・キリスト教会は、コミュニティ オブ クライスト教会から294億円でカートランド神殿やマンションハウス等を買い取りました。
教会は早速一般向けにこれらを公開し、ツアーを行うと発表し信者たちは大喜びしています。
しかし、ツアーをするならここで起こった恥ずかしい過去もきちんと伝えてほしいです。
今回は、オハイオ州カートランドで教会が銀行を建てたが失敗し、多くの信者が財産を失い、その子供たちが飢えで苦しんだ事実をお伝えします。
【カートランド安全協会アンチ銀行会社の始まり】
これは教祖ジョセフ・スミスが1837年に建てた銀行。数か月で倒産した。
ことの始まりは、預言者ジョセフ・スミスがイエスの生の声を聞いた所から始まる。
この銀行の役員を務めたウォレン・パリッシュという人がこう証言している。
「私は、、、ジョセフがこう宣言するのを聞いた、神の声が、銀行ーアンチバンキング金融機関を建てるように指示したと。
この金融機関は、アロンの杖の様に、他の全ての銀行を飲み込み、成長し、栄え、世界の果てまで広がるだろう、
そして他の全ての銀行が倒産しても、生き残るだろう、と。」
忠実なモルモンで後に大管長となるウィルフォード・ウッドラフも
「私も又、大管長ジョセフ・スミス・Jrが、供託所で、F・ウィリアムズとD ホイットマーとS・スミスとウォーレン・パリッシュとその他の人たちの前で、あの日の朝、カートランド安全協会について、主の言葉を聞いたと言ったのを聞いた。ジョセフは一人で部屋にいた時、霊の声だけでなく、実際に声を聴いたのだ。」と1837年に日記に書いている。
ジョセフは信者たちから資金を集め、営業を開始したが、実は州議会の許可を取っていない、違法な銀行だった。
1837年1月2日、ジョセフが現金出納係でシドニー・リグドンが頭取で開業した。
【イエスの名や聖典を使って投資を募った】
ジョセフは「The Messenger and Advocate(メッセンジャーと提唱者)」という当時毎月出版されていたモルモン新聞(当時の末日聖徒公式文書)にこう書いた。
「海外の兄弟たちに勧めたい、私たちの安全協会の株を購入することを。
イザヤの言葉を思い出してもらいたい。
『海沿いの国々は私を待ち望み、タルシシの船はいや先にあなたの子らを遠くから載せて来、また彼らの金銀を共に載せて来て、あなたの神、主の名にささげる』(イザヤ書60章9節から引用)」reprinted in History of the Church, Vol. 2, p. 473)
ウィルフォード・ウッドラフもこう書いている。
「予言者ジョセフはまるで啓示を受けたかのように語った。
『カートランドはものすごく栄える、だからどんどん建物を建てよう!大きな街を築こう!』と。」
そして、聖徒たちに投資するように勧めた。
1837年4月、銀行が既にもがき苦しんでいた時でさえ、預言者ジョセフは
「カートランドをもっともっと大きな街にしなければならない。
そして、これを手助けした者たちは、必ず金持ちになるぞ!」と語っていたのである。
しかし、彼の予言は成就せず、聖徒たちは、大きな負債を抱えることとなった。。(1837年1月19日、ウッドラフのジャーナルから)「ジョセフ・スミス ラフ・ストーン・ローリング」330ぺージ by現役モルモン歴史家リチャード・ブッシュマン
【教祖ジョセフは銀行を不正に運営した】
銀行が倒産した後、数人の銀行役員(全員がモルモン信者だった)が証言している。
「スミスとリグドンは金庫室の中にガラクタを詰めた箱を置いていた。
その一番上に銀貨コインを何枚かの薄い層にしてかぶせ、銀行の資産だと見せかけていた。」
教会を去った数人の信者が言うには、金庫室にはたくさんの箱が並べてあり、ぞれぞれに1000ドルと書かれていた。
これらの箱は実際は砂、鉛、古い鉄、石、可燃物が詰められていた。
しかし、どれも一番上はキラキラ光る50セント銀貨の層がかぶせてあった。
銀行の安全性を疑う者は、誰でもこれらの箱を持ち上げたり、数えたりすることを許された。
C・G・ウェブによると、
「これらの箱の効果は魔法の様だった。
銀行役員たちは銀行は大丈夫だという信頼を築き上げ、あの美しい紙幣札束は飛ぶように売れた。(the paper money went like hot cakes)
一月の間、この辺りでは一番のお金とみなされた。」
(Interview by W. Wyl. See Mormon Portraits, p. 36; also Oliver Olney: Absurdities of Mormonism Portrayed, p. 4; the letter of Cyrus Smalling in E. G. Lee, The Mormons, or Knavery Exposed, p. 14; and Fawn Brodie, No Man Knows My History, pp. 194-8).
初めはお金がどんどん流通した。モルモンよりも金融に詳しい商人とビジネスマンたちが紙幣を換金し始めると、
ジョセフはこれでは銀行が破滅すると気づいた。
【訴えられたジョセフたち】
1837年7月頃、ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは銀行の役員を辞任し、別のモルモン信者たちに役員の座を譲った。しかし、ジョセフのずさんな経営と価値のない紙幣をたくさん印刷したこと等によって銀行は倒産した。
債権者たちは脅しと支払命令書を持ってジョセフの下へ雪崩れ込んだ。
「1837年6月と1839年4月までに13の訴訟が予言者ジョセフにつきつけられた
ジョセフは4か月の間に7回逮捕され、彼を支持する信者たちは彼を釈放させる為に
38428ドルを集めた。
初めから、この銀行は法律の下で建てられてはいなかった為、ジョセフは裁判所から裁判の費用だけでなく、
罰金1000ドルも払うように命じられた。
【銀行破たんが信者を苦しめた】
ジョセフ・スミスの5番目の妻、ジーナ・ハンティントンの父ウィリアムは裕福な農場の持ち主でであったが、
常に貧しい人々に施しをしていた。
彼はカートランドの「アンチ銀行」にほとんどの財産を投資し、1837年の秋、自分の土地を失くしてしまった。
これについてジーナの兄弟オリバーは皮肉を込めてこう書き残している。
「銀行が倒産して僕らは一文無しになった、他のモルモンと同じように。いずれは貧乏になるだろうとは思っていた。
だが、こんなにあっけなくとは!」
父ウィリアムは労働者として働かなければならなくなった。
家族はほとんど食べるものがなくなり、飢えに苦しんだ。
(Todd COmpton トッド・コンプトンという現役モルモン歴史家の著書 In Sacred Loneliness 「聖なる寂しさの中で」
【ジョセフ、反抗した信者たちを破門する】
12使徒の半数とモルモン信者の半数以上がカートランド銀行の失敗によって教会を去った。
パーリー・プラットとオルソン・プラットも数か月の間、信仰を失った。
12使徒のデビッド・パッテンは、ジョセフ・スミスに対して侮辱の質問をいくつも投げかけた為、ジョセフはパッテン氏の顔をひっぱたいて蹴っ飛ばし、庭の外へ追い出した。
ジョセフはフレデリック・G・ウィリアムを副管長から解任した。
預言者ジョセフの御気に入りだった書記のウォーレン・パリッシュはジョセフを大管長の役から退けようとした。
ヒーバー・C・キンボールは、「1837年6月の時点で、ジョセフを預言者だと信じていた人は、20人もいなかっただろう」と証言している。
(ラフ・ストーン・ローリング332ページ ウッドラフのジャーナル 1857年5月25日)
【カナダへ行ってる間に若い女性に預言者の座を横取りされる】
この問題の最中に、スミスは5週間に及ぶ伝道へ出かけた。カナダへである。
戻ってから、モルモン信者の半数が、ある若い女性に従っているのを目の当たりにする。
彼女は、自分が女予言者であり、黒い石を使って将来が見えると主張した。
デビッド・ホイットマー、マーティン・ハリス、オリバー・カウドリは彼女に忠誠を誓い、F.G.ウィリアムス(ジョセフの第一副管長)は彼女の書記になっていた。
(No Man Knows My History, p. 205. デビッド・O・マッケイ大管長の姪フォーン・ブロディの著書。)
●私はモルモン教会で、「正直になりましょう。」と教えられました。
だから教会が、カートランド神殿のツアーをする時に上に挙げた「恥ずかしいけど本当の歴史」をみんなに正直に伝えるように願っています。
銀行破綻の後、ジョセフはイリノイ州ノーブーへ移り住み、今度は多くの女性問題を引き起こします。これは次のブログでお伝えします。