ルーシー・ウォーカー(スミス・キンボール)

 

16歳の時、ジョセフ・スミスの家に住んでいいた時に彼に求婚される。はじめは断ったが、結婚しないと天国へは行けないし、結婚すれば家族は昇栄できる、と言われて祈り、証を得たのでジョセフと結婚した。彼の死後、ヒーバー・C・キンボールの妻となり、9人の子供を産んだ。84歳で死亡。


生い立ち
●1826年4月30日生まれ。父ジョン・ウォーカー 母リディア・ホームズ
10人兄弟の4番目。父親は大工、機械工、農夫。ルーシーが6歳の時、父がモルモンに改宗。母リディアは初めは反対したが、自分も改宗する。

●ルーシーも8歳でバプテスマを受けた。
「バプテスマを受けたばかりの子供たちが、異言を語り、予言し、病気を治すほどの信仰を持っていました」とルーシーは書いている。

●1838年、家族はニューヨークからミズーリへ引っ越した。幌馬車で他のモルモンたちと一緒に。
 10月30日にコールドウェル群に着いた時、ルーシーの記述によると、顔を黒く塗った40人の暴徒たちに囲まれた。子供たちは銃を突き付けられ、のろいの言葉を浴びせられた。女性たちは幌馬車から放り出された。男たちが幌馬車の中をあさって武器を全て没収した。女たちは「こいつらを撃ち殺して!生きているべきではないわ!」と叫んだ。
 「でも、私は恐れませんでした。あの暴徒たちはあまりにもつまらない者に見えました。神を信頼しようと思いました。」
 ショウル・クリークで多くのモルモンが撃たれて殺された。

母の死とバラバラにされた家族
●1839年4月、イリノイ州クインシーへと旅した。
父ジョンはここで伝道へ行った。
 1842年1月18日に母リディアが病気で死亡する。末っ子は2歳にもなっていなかった。

●この状況で、ジョセフ・スミスが何をしたか?
父親を2年間の伝道へ送り、小さい子供たちを誰かに面倒見てもらって、上から4人をジョセフの家に引き取るように提案した。ルーシーは家族がバラバラになり、小さい弟や妹たちと離れ離れになることをとても辛く思った、でも、お父さんが伝道から帰ってきたらみんなで又、住めるよ、と言ってくれたと書いている。

●ジョセフはジーナ・ハンティントンの兄ディミックとアルメラの兄ベンジャミンと親しかったように、ルーシーの兄ローリンとも親しかった。
ルーシーたちはスミス家で、我が子のようにかわいがってもらった。

予言者からのプロポーズ
●1842年、予言者ジョセフ・スミスがこう言いました。
「私は神から命令されて、別の妻をめとるようにと言われました。あなたが新しい妻です。」
 「私はこれ以上もないくらい驚きました。いなずまに撃たれたような感じでした。彼は、私が彼を予言者として信じるかと聞きました。”もちろんです”と私は答えました。するとジョセフは、日の栄の結婚がどのように家族を一つにするか説明しました、、、そしてこれが私の父とその家族に永遠の祝福をもたらすと言いました、、。」

こうしてジョセフは、ヘレン・マー・キンボールとサラ・アン・ホイットニーの時と同じように、家族の救いを10代の少女の肩に追わせたのである。

 「もし君が心から祈れば、この原則が正しいということへの証を得るでしょう。」
と言った。
 ルーシーは「死んだお母さんと一緒に墓に入れたらいいのに!」と書いている。死にたいと思ったくらい悩んだ。一心不乱に祈った。
 「なぜ?なぜ私なの?お母さんは死んでしまって、お父さんは遠い所にいる、この苦いさかづきを私から取り去らせて下さい。苦しくて、苦しくて、祈ったのです。」

次の年になって、ジョセフは又、ルーシーと話をした。そして、結婚は秘密にしなければならないが、ルーシーを妻だと、ロッキー山脈を越えるくらい、認めようと言った。
 「これは神からのあなたへの戒めです。明日まで時間をあげましょう。もし、あなたが拒否するなら、門は永遠にあなたへ閉ざされるでしょう。」

「私はまるで自分が生きた捧げものにされているように感じました。、、、とても耐えられないと思いました。」

「彼は美しい顔で私を見つめ、きっと私が証を得る、と言いました。平安と喜びがを感じるでしょう、と。」

その夜、ルーシーは一心不乱に祈った。
「私は力強い証を得ました、日の栄の多妻婚は本当だと。」

1843年5月1日、二人は結婚した。17歳になったばかりで。
ウィリアム・クレイトンが式を行い、エライザ・パートリッジが証人だった。
ルーシーは、この結婚は儀式上のもので、ロマンチックなものではなかったと言っている。
「ただ、神が世界の為に御業を行うことに自分を犠牲としてささげただけです。」

●1843年8月31日、マンション・ハウスが完成した。これはホテルとしても運営された。11月にルーシーはここに住み始めた。その後はジョセフの他の妻であるアグネス・クールバースと住んでいたこともある。

●ジョセフの死後、ルーシーは非モルモンの家族の家にいそうろうし、コックをしながら教育を受けることとなった。自立したいと思っていたから。この家族は彼女の学校の費用を出してあげようと約束した。

ヒーバーとの結婚
●1845年2月8日、43歳で16人もの妻を持つヒーバー・C・キンボールと18歳でこの世の結婚をした。ヒーバーは親切だったが、権威主義者でもあった。
更に、全ての妻たちを同じように愛そうと努力はしたが、結局は最初の妻バイレットを他とは比べられないほど強く愛していた。
 1893年にルーシーはこう証言している。
「私とキンボールの間には、愛は全く存在しませんでした。もし夫婦の求愛行動があったとしたら、それは私がそうするかどうかにかかっていました。偉大で栄光のある原則である宗教上の多妻婚を設立することだったのです。
ヒーバーはこの世に生を受けた男性の中で最も高貴な人です。神が全ての創造物を愛しておられるように、ヒーバーは一人以上の女性を愛することが出来るのです。
 結婚の契約によると、ヒーバーは私と子供たちをこの世で面倒を見て、あの世ではジョセフに引き渡すというものでした。」

現実と理想のギャップを知る
●すぐに娘が生まれ、この子を連れてウィンタークォーターへ。この旅で、彼女はあまり良く面倒を見てもらえなかったと文句を言っていたらしい。ピガー山で、これまたジョセフの妻パティ・セッションズが5月29日の日記にそう書いている。ここで娘は死亡する。女性たちはよく集まって祝福を与え合う会を催し、励まし合った。異言を語ったり。22歳でユタに着いた。

●どんどん子供を産んだが、多くの多妻婚の妻たちと一緒に狭い家で暮らしたこともある。ヒーバーはほとんど家にいなかったが、来る時は妻たちの悪いところをズバズバと言ったらしい。彼は家をきりもりすることはなく、崇められる、訪問者であった。
 「ヒーバーが家にいる時は、私たちは彼が気持ちよく時間を過ごせるように全てを彼の為に完璧にこなしました。」
 又、ヒーバーは妻たちをしょっちゅう引っ越しさせて、違う妻たちと住まわせた。最後には一人一人の家を建てたが。ルーシーは、他の妻たちと仲が良く、子供たちも仲が良かったと書いている。

●1868年にソルトレークシティーから70キロほど離れたプロボに移り住んだ。このプロボに今はBYUと宣教師訓練センターがある。

●ここにヒーバーが訪れた際、馬がつまづいてヒーバーは地面に放り出され、寝たきりになってしまい、この世を去ることになる。


夫からの死の床からのお願い
ヒーバー・C・キンボールはもうすぐ死ぬとわかった時、45人の妻と子供たちを順番に呼んだ。ルーシー・ウォーカーも呼んでこう言った。
 「あなたには、いつも妻として母として、良い模範を示してくれたことを感謝している。あなたがジョセフに会う時になったら、何と言いますか?私があなたに優しく接したと、彼に言ってくれませんか?きっとあなたはそうしてくれると信じています。ジョセフと私の間の仲介者として、、、、。」
 おわかりの様に、ヒーバーは自分の娘をもジョセフに捧げ、女性を通してジョセフとのつながりを持つことを望んだ。
 ルーシーはプロボに住んでいて、ソルトレークシティーには住んでいなかった。夫ヒーバーとはあまり会っていなかったと思われる。
 それにも関わらず、ルーシーはこう書いている。
「ヒーバーの言葉は金よりも貴重でした、、、、」

●ルーシーは晩年は看護師としても活躍した。ローガンに移り、ソルトレークシティーに最後は住んだ。

●84歳で死亡。

私の感想
ルーシーはあまり幸せな結婚生活でなかったのかな?9人も子供産んで、それでも夫との間に愛はなかった、と言っているもの。ちょっとおおげさに言ったのかもしれないけど、幸せだったらこんなこと言わないと思います。自分を犠牲にしたんですね。それにしても、ジョセフは妻をなくした夫を伝道に出すとは、ひどいです。
ルーシーは祈って証を得たから結婚したというけれど、そりゃ、そうしないと天国へ行けないと言われたら、結婚しなくちゃいけない、と思うでしょうね。その必死の思いが、平安をもたらし、これを神からのお告げだと勘違いしたのではないでしょうか?これを神からの戒めだと信じる人は、正直言って、洗脳さているだけでしょう。

●マンション・ハウス
ジョセフ・スミスが建てた。彼はこれを自分の家として、ホテルとして、又神殿の儀式を行う場所として使った。
1843年8月31日にここに住み始めた。2階建てで、白松の木で作られている。
ギリシア復興形式の建物。
 バー・カウンターもつくったが、エマに反対されてやめた。後にホテルの運営を他の者に託した。
 1844年6月に死んだ後、ジョセフとハイラムの死体はここに置かれた。
エマとその子供たちはここに住み続けた。1847年、エマがルーイス(Lewis C. Bidamon)と再婚し、1869年までここに一緒に住んでいた。その後はノーブーハウスに住んだ。
現在はRLDSの建物となっている。RLDSは、今はコミュニティ・オフ・クライストと名前を変えた。そしてこの建物は博物館としてツアーなど出来るようになっている。