以下は、現役モルモン(末日聖徒)信者の歴史家トッド・コンプトン氏の「聖なる寂しさの中で」という本から取ったものです。教会も引用している信頼出来る本です。信者の方も是非、参考にしてください。

 エミリーはジョセフの家に住んでいる間に密かにジョセフの妻となった。エマがジョセフの多妻婚を受け入れると同意し、エミリーと姉のエライザと他の少女たちをジョセフの妻として選んだ時、今度はエマの前で2回目の結婚式をした。しかし、エマは、我慢が出来なくなってエミリーと姉のエライザを家から追い出した。ジョセフはこれに賛成した。
 こうしてエミリーは、今の時代のハガルとなったのである。
ジョセフの死後、ブリガム・ヤングと結婚した。エミリーは多くの日記を残しており、この中で、夫ブリガムへの痛烈な批判を書いている。ブリガムに生活を維持するためのほんの少しのお金を求めたり、家のきりもりを手伝ってほしいと頼むのにひどく苦労した。夫ブリガムは、ユタでも指折りの金持ちで、エミリーに7人もの子供を産ませたのに、である。
 それにも関わらず、エミリーは信仰を持ち続け、公の場では多妻婚を擁護した。
 

生い立ち
●父親 エドワード・パートリッジ(帽子製造職人) 母親 リディア
●エミリーは1824年2月28日生まれ 
父親がモルモンに改宗
●1830年12月11日、父エドワードはジョセフ・スミスからバプテスマを受けた、凍るようなセネカ川で。このバプテスマで全てが変わってしまった。バプテスマを受けなければ、家族はここで、心地よい場所で満足に、平和に一生暮らし続けたことだろう。
●1831年2月4日 父エドワードは最初のモルモンの監督に召された。
 これは現在の教会幹部、つまり七十人以上の位を示すものだった。
●監督として、エドワードは貧しいモルモンたちに施しをした。ある時、ある移民のモルモン一行が はしか を持ち込み、エミリーたちにも移り、それがもとでエミリーは片方の耳が聞こえなくなった。
●姉のエライザの病状はひどく、死ぬかもしれない程だった。
 こんな状態の時、ジョセフ・スミスは神から啓示を受けたと言ってカンファレンスをミズーリで行うこととし、エドワードも一緒に来るようにと言った。
●娘のエライザが死にそうなのに、また、仕事も忙しい時期に、エドワードはジョセフに従った。
●エライザはこう書いている、「父は家族が何とか持ちこたえるようにして出かけて行きました。私はあまりにもひどい病気で父は2度と私に会えないかもしれないとわかっていましたが、主が父を呼んだので従うしかなかったのです」
●1831年8月1日 父エドワードは啓示により、インディペンデンスを建てるようにとの指示を与えられた、が、同時にこう咎められている、
「もし彼(エドワード)が不信仰と心のめくらという罪を悔い改めないならば 誘惑に負けないように用心するように」とある。
●エドワードは家族を残していくことに対して初めは異議を申し立てたのだろうか?
●母リディアは住み慣れた心地よい家を売り、友達や親族に頭がおかしくなったと思われながらも、独りで5人の娘たちを連れ、旅立った。W・W・フェルプスたち率いる他のモルモンたちと共に、ミズーリを目指したのである。
●母リディアは自分の所持金をあるモルモンの男性に預けるようにとアドバイスされたのだが、エミリーによると、このモルモン兄弟は母の金を騙し取ったらしい。
●船に乗って川を渡っていた時、パートリッジ家の持ち物が入った箱が盗まれ、略奪され、川に投げ捨てられた。
●川に浮かぶ氷の塊に阻まれて、川を進めなくなったので、恐ろしく寒い中、何週間も陸に上がって狭い小屋で過ごした。こうして600マイル(1000キロ)の長旅を乗り越えてインディペンデンスへとたどり着いたのであった。
●父エドワードは後に丸太小屋を建てた。

バプテスマと暴徒からの暴力におびえる日々
●1832年2月28日にエミリーは8歳で、凍りそうな冷たい川でバプテスマを受けた。
●1832年から暴言を吐くミズーリの暴徒たちが夜家の農場のわらに火をつけたりした。
●1833年、9歳のエミリーは妹のハリエットとミズーリの家にいた。暴徒が来て、父親のエドワードを家から引きずり出した。父はミズーリで教会の最も高い地位にいる監督だったtめ、よく目をつけられたのだ。父はタールを塗られて羽をつけられた。
 
インディペンデンスを離れ、放浪の旅へ
●モルモンでない住民からの圧力に耐えかねて、モルモンたちはインディペンデンスを出ていくことに同意した。
●11月12日、モルモンの一行はクレイ群へと移住した。
●寒い寒い冬、どしゃぶりの雨の中、旅してたどり着いた。
●狭い狭い家に2年間住んだ。
●こんな劣悪な生活の中、父エドワードは伝道へ行った。1835年1月27日のことである。
●1836年春、カートランド神殿が完成し、奉献式が行われた。
●またもやクレイ群の住民とモルモンの中はうまくいかず、コールドウェル群へと移住する。
●エライザは家族と離れて3か月、遠くの学校で教師をして家計を支えた。
●1838年、モルモン戦争 が始まった。
●1839年1月、恐ろしい程の寒さの中、モルモンたちは船で、又は氷の上を歩いて、ミシシッピー川を渡り、イリノイへ移住した。
●パートリッジ家はピッツフィールドへ引っ越した。
●夏に家族はノーヴーへ引っ越した。ところがマラリアがはやり、エミリーは病気になる。ここへエミリーの後の夫となるブリガム・ヤングが立ち寄り、エミリーとハリエットに祝福を施した。しかし、治らなかった。
●ハリエットは死んでしまう。父エドワードも過労と蔓延する病気に待てず、死亡する。
●エライザ、エミリー、母リディアはウィリアム・ローの家で静養し、元気になった。
●エライザとエミリーは予言者ジョセフ・スミスの家で住み込みのメイドとして働いた。
 エライザは20歳、エミリー16歳のことだった。
●母リディア・パートリッジは男やもめのウィリアム・ハンテイングトンと再婚した。
 彼はジーナとプレセンディアの父親である。
●1841年、エミリーはこう書いている。「予言者ジョセフとエマが私たちを彼らの家で迎え入れようと言ってくれた。二人ともとても良くしてくれた。」
●「パーティーや歌や馬乗りでとても楽しかった。ある日、エマが『いつもおよばればかりしているから、今度はこちらでパーティーを開いて若い人たちを招待しましょう』と言ってくれた。パーティーではゲームをして最高の時間を過ごした。
●1842年春、エミリーはこう書いている。
 18歳の時、ある日ジョセフが言ったんです、『エミリー、もし君が私を裏切らないというなら、君にとって為になることを教えよう』。もちろん私は彼の秘密を守ります、、、、」ジョセフは手紙をくれると言った、読んだら燃やすようにと言って。一人で祈った後、エミリーは手紙がラヴレターだと感づいたので、もらうのを断った。自分の雇い主であり、父親のような、霊的なリーダーからもらってはいけないと思ったのである。
 「彼は私に、この話は終わりにしてほしいかと尋ねました。私はそうしてほしいと言いました。」
●エミリーはこのことで大いに悩んだ。母にも、姉にも話してはいけないと言われたことが更に辛かった。
●エリザベス・ダーフィー(ジョセフの12番目の妻で結構年上の妻)がエミリーとエライザを家に招待してくれた。エミリーはこう書いている。
「ダーフィー姉妹は、当時霊的な妻(spiritual wives)と呼ばれていたことについて私たちに聞いてきた。彼女は、これは本当のことなのkしら、と聞いてきた。私は彼女に教えてあげれば教えることは出来たけれど、何も言わなかった。」
●しかし、エミリーは姉のエライザにジョセフから一夫多妻について教えられたこと、彼の妻の一人になってほしいと言われたことを話してしまう。エライザはこの知らせにひどく落ち込んだ。
●1843年2月28日、19歳の誕生日にエミリーは書いている。
「ジョセフは私に多妻婚について教えました。ジョセフは、これは神からの啓示です、でもほとんどの人は知りません、と言いました。主が私を彼に与えたのだ、とジョセフは言いました。そして同意してくれるか知りたいと言いました。そこで私は同意しました。」
 「ダーフィー姉妹がやって来て、ジョセフが私を妻にしたいと言っているといいました。キンボール家で私はジョセフと会うことになっている、と言われました。、、、私はキンボール兄弟から逃げて走りましたが、彼が追いかけてきました。それで仕方なく戻りました。」
●1843年3月4日、37歳のジョセフと19歳のエミリーはヒーバー・C・キンボールによって結婚式を挙げた。その日または次の日の夜、エミリーはジョセフと床を共にした、と証言している。その後も何度もジョセフと性交渉をした、と話している。
●4日後の1843年3月8日、姉のエライザもジョセフと結婚した。
●一夫多妻は余りにも秘密に行われたので、なんとエミリーもエライザもお互いがジョセフの妻になったことは知らなかった。
●エライザとエミリーがジョセフと結婚した2か月後、ジョセフは自分が多妻婚をすることをエマに承知させた。エマはこの時、夫ジョセフがエミリーとエライザと既に結婚していたことを知らなかった。エマは彼女が選んだ女性を妻にするなら、という条件で承諾した。そして、驚いたことに、エライザとエミリーを選んだ。これはエマがどれだけこの二人に親しみを感じていたかを物語っている。
●ところが、ジョセフと二人の姉妹は既に夫婦になっていたのだから、何ともきこちない空気がよぎっていた。
エミリーによると、「家族内の問題を避けるために、ジョセフ兄弟はもう一度結婚式を挙げることがベストだ、と言った。」
●「1843年5月11日、今度はエマの目の前で私たちはジョセフ・スミスと2度目に結び固められた。エマはこれに完全に同意していた。」
ジョセフのフリーメーソンの友達、ジェームス・アダムス判事が結婚式を執り行った。

エマからの執拗ないやがらせの日々
●この後、エマと姉妹たちとの仲は一夜にして変わる。エミリーはこう書いている。
 「結婚式の瞬間から、、、エマは苦々しい敵となりました。この後何か月か私たちはスミス家に住んでいましたが、ことはどんどん悪化していったのです。」
●1843年5月23日、ウィリアム・クレイトンは日記にこう書いている。
「予言者は私に、エマ姉妹と小さないざこざが起こった、と言った。」彼の記録によると、エマはジョセフが二人の姉妹たちとドアの閉まった部屋で時間を過ごすことにいら立ちを覚えたらしい。
●エミリーは書いている。「...エマは私たちとジョセフが直ちに離婚するように要求しました。自分が何か言ったらその通りになる、とエマは思っていたのです。でも私たちはそうは思わなかった。神聖な契約を交わした、と見ていたからです。
その後、エマはサラとマリア・ローレンス姉妹たちをジョセフに捧げ、彼女たちはスミス家にジョセフの妻として住んでいました。私はこのことを知っています。しかし、私の姉と私はは追い出されました。」
「ある日、私たちはエマの部屋に呼ばれました。そこにはジョセフもいてまるで殉教者の様に見えました。エマはひどい事をたくさん言いました、ジョセフは私たちをあきらめるべきだ、さもなくば血が流れる、と。エマはこの様な形で自分の血が汚される位なら、清らかな血を流す方がましたとと思っていたのです。
 この様な対談はしょっちゅうありました。」
「最後に彼女の部屋に呼ばれた時は、私は憤慨していてもうこんな事は最後にしてやる、と決意していました。何度も同じことの繰り返しで、私はエマの尻に敷かれているジョセフに対して怒りの気持ちを持ったことを恥ずかしく感じていました。
 でも、今は彼はどうすることも出来なかったのだ、とわかります。
部屋に入ると、ジョセフもいてその顔に完全な絶望が現れていました。あの時の全てを思い出すことは出来ません、でも、エマは私たちが神の前で交わした結婚の契約を破棄すると約束するべきだ、と言い張りました。
 ジョセフは、もし約束したら、いざこざを起こすのをやめ、私たちが他の男性たちと結婚するべきだと言い張るのをやめるか、と尋ねました。エマはそうすることを約束しました。ジョセフは私たちと握手して、これで私たちとの間は終わった、とお互いに理解したのです。
 この後、私は自分の部屋に戻り、ジョセフがやってきて言いました。
「どんな気持ちだい、エミリー?」私の心はまだかたくなだったので、私は短く、こういう状況で誰もが感じる気持ちになります、と言いました。
 ジョセフは、『君にもわかる通り、私はどうすることも出来ないんだよ』と言いました。
 そして地面に沈み混んでしまうかの様に見えました。ジョセフが真意をもっていっていることはわかり、私の心は溶け、彼へのかたくなな気持ちは一瞬にして消え去りました。
 でも彼はすぐに出て行ってしまったので私は話をする暇もありませんでした。
エマはジョセフの後を付いて来ていて、彼が出て行った後、すぐに入って来ました。
「エミリー、ジョセフは何て言ったの?」「私がどんな気持ちかと」「彼が何と言ったかちゃんと言いなさい、こんなことはやめさせると決心してるのよ、ジョセフが何と言ったか教えなさい」「言いません、ジョセフは私を喜ばせることは何でも言うことが出来るし、あなたにいちいち報告することはしません、何度も被害が出ていて、あなたも私もこんなことはうんざりでしょう?私は自分が本気であることを彼女に知らしめるような声のトーンで言いました。」
●エマはエミリーとエライザを家からではなく、町からも追い出そうとしたが、二人は拒んだ。ジョセフは二人の新しい行き場を探すのを手伝った。
 エライザはジョセフ・クーリッジの家に、エミリーはジョセフ・スミスの別の妻、シルビア・ライオンの家に住むことになった。
●1843年8月16日、ジョセフはウィリアム・クレイトンに、「私はエマに、こういわなければならなかった私の妻たちを全て彼女の為にあきらめる、と。」
ジョセフはエミリーとエライザと握手をして、これで二人のジョセフとの結婚は終わった。二人がジョセフの家を去ってから、彼は二人にコンタクトをとらなかった。
●エマはエライザとエミリーのジョセフとの結婚に同意したのだし、ジョセフはエマを説き伏せることは出来なかったのだろうか?エマがジョセフに有無を言わせない力を持っていたことは確かである。(恐らく離婚と一夫多妻の暴露)
●1843年10月19日より前に二人は追い出されたのは確実だろう。
エミリーはシルビアには良くしてもらったが、病気の赤ん坊を徹夜で看病させられて我慢出来なくなり、シルビアの家を出ることになる。エミリーは書いている、
「ジョセフのマンションハウスを出た後、一度だけジョセフと話をしました。」

ブリガムとの結婚と物乞いをしながらの旅
●1844年9月又は11月 20歳のエミリーは43歳のブリガム・ヤングと結婚。ブリガム・ヤングの8番目の妻となった。
●1年後、息子 エドワードが誕生
●1846年2月、ノーヴーを出発、息子エドワードと共に辛く長い旅を始めた。
野営のジャンプファイアーをしている人たちから人たちへと加わり、見知らぬ他人から食べ物や泊まる所を恵んでもらいながら旅した。
 もしエミリーが一夫一妻の結婚をしていたのなら、彼女と息子は独りぼっちでもなかっただろうし、ほっぽっておかれることもなかっただろう。
●1846年2月までに、ブリガムは40人もの妻がいた。
 彼はモルモンの家族の王国の基礎を築き挙げたのだが、その妻たちは自分自身や親せきに頼るしかなかったのである。
●ブリガムはエミリーを置いて先に行ってしまい、病気のエドワードを抱えて彼女は窓もドアもない丸太小屋に住むしかなかった。ピスガー山には狼も出た。ドアがなくて毛布を垂らしてある入口や家の隙間から狼が迫ってくることもあった、とジーナ・ハンティントンはき残している。
●1890年6月30日エミリーはブリガムに手紙を書き、「あなたのことをジョセフを愛すると同じくらい愛している」と言っている。
●母親と住んだり、姉と住んだり。 
ブリガムに、離婚してくれ、と手紙を書く
●1853年2月24日、ブリガムに手紙を書いた。ソルトレークに住んでいたが、直接会いに行かずに手紙を書いた。
 「あなたに言いたいことを直接言えたらこの手紙を書くこともなかったでしょうに」
「わが子の死を経験した後、私の気持ちに変化が生じました。もっと寂しくなり、慰めを感じなくなりました。あなたの慰めや利益に私が不可欠な存在ではないことはわかっています、だから私をあなた程忙しくない男性に与えて下さい。」
●1855年5月6日、こんな中で、ブリガムの子,ジョセフ・ドン・カルロスを産む。
●1856年、ライオンハウスが完成した。エミリーはここに住み始める。
●1857年10月13日、ジョセフィン産まれる。
●1860年4月2日、最後の子供が産まれたが、7か月後に死亡。
●1863年又は1864年、エミリーは子供たちを連れてライオンハウスを出る。

フォーリスト・ファーム・ハウスでの地獄の日々
●ブリガムによってフォーリスト・ファーム・ハウスへと住む場所を移される。ここでブリガムはライオン・ハウスに住んでる妻たちのミルクやバターを作るための家畜を飼っていた。ブリガムの妻たちはこの農場へ送られる仕事を「追放」とみなしていた。
●1874年、エミリーはここで日記に自分の気持ちを表している。
「...あそこに行ってから具合が良くない。誰もあそこにいた時の私の気持ちをわからない。あそこでの思い出は一つも快いものはない。」
アン・エライザ・ヤングはこう書いている。「ブリガムの妻たちでこの農場に移り住むように強いられた者たちは皆、ここを去る時には病人となってしまい、過労によって壊れてしまう。」冬は刺すように寒く、夏は窒息死する程暑かった。
 アン・イライザはエミリーの仕事を書き表している。
「40頭の牛からバターとチーズを作り、他の全ての酪農に関わる仕事をこなし、25~30人の男と農場労働者、養蚕所の労働者たちの為の食事も作らなければならなかった。

夫への不満でいっぱいの日記を書き残す
●1872年ソルト・レークのブリガムが用意した家に住むこととなる。
●1874年2月、エミリーは日記を書いている。その中で、自分がよくほぼうつ病状態だったと語っている。自分の有名な夫に対して明らかに憤りを感じていた。アン・イライザ・ヤングはこれを支持する記録を残している。
 ブリガムはエミリーとその子供たちを経済的に支えることを拒んだ。フォーリスト・ファームの農場で働かされてから体調を壊し、激しい労働は出来なくなってしまった、とエミリーは言っている。
 ブリガムに援助を頼んだ時は、「予言者の男たち」にまず、頼まなければならなかった。エミリによると、このブリガムの取り巻きたちは、彼女と子供たちに侮辱した態度で接したという。もしブリガムと話したいなら、アポイントメントを取る必要があったのである。この扱いに対して、エミリーは深い、痛みを伴う困惑した気持ちを表している。
 彼女は知っていた、夫は裕福だということを。彼女は知っていた、ブリガムの他の妻たちはもっと援助を受けていたことを。ブリガムは彼女の子供たちの父親なのに。
 エミリーは、ブリガムとその取り巻きの兄弟たちが水道代にかかる税金75セントを払う為の援助をしなかった、と嘆いている。
 多くの記録が、ブリガムは自分の金を出し惜しみしていた、自らの妻たちへさえも、と語っている。
● 反モルモンであるアン・エライザ・ウェブ・ヤングの記録はこの説を支えている。
●熱心なモルモン信者であるベンジャミン・ジョンソンは感じていた、イスラエルの真の羊飼いだったにも関わらず、ブリガムの大きな弱点は富への執着(ラヴ・オブ・ウェルス)だった、と。
●それでも、エミリーはブリガムの中に良さと優しさを見て、宗教的には心から崇めた。ブリガムの死後、彼を、良い父親で偉大な霊的なリーダーだったと言っている。
●1890年9月25日、大管長ウィルフォード・ウッドラフが多妻婚を禁止する声明を出した。
●1899年に死去。


私の感想
エミリーは悲劇の人です。ジョセフは悪いことをしても許してしまうような魅力があったと思われます。それが通じない人もいましたが、エミリーはまんまとジョセフの魅力にひっかかったようです。
 彼女は、モルモンとしての信仰を貫き通しましたが、彼女の日記には夫ブリガムや他のリーダーたちに対する批判、不満、怒りがてんこ盛りで、寂しさと悲しみに満ちています。ですから、彼女がどんなに教会を支持する、と言葉で言っても、ブリガムを時々ほめても、それは本心ではない、と“やらせ”だと思います。真の信仰ではなく、マインドコントロールと自分のプライドだったと思います。
 まさに、リーダーたちにほんそうされ、不幸な障害を送った、哀れな女性だと思います。
 彼女が、一度、ブリガムに、”私と離婚してください。もっと面倒見てくれる人と私を結婚させて下さい”と言ったのは、ショッキングな事実です。