ジョセフ・スミスの8番目の妻


●23歳で予言者ジョセフと結婚するが、既にモルモンの夫がいた。この1か月後に母親のパティもジョセフの妻となる。
●夫がノーブーのステイク会長に3000ドル貸したが、返してもらえず、やむを得ず市民裁判で訴えたところ、ステイク会長から怒りを買って破門となる。
●4番目の子、ジョセフィンは大人に成長した。シルビアは、死ぬ直前に、ジョセフィンを床に呼び寄せて「あなたは予言者ジョセフ・スミスの子なのよ」と告白した。
●ジョセフ・スミスの死後、ヒーバー・C・キンボールとこの世の結婚をした。
●1番目の夫、ウィンソーとの間に6人子供を産んだが、5人死亡した。生き残ったジョセフィンを、シルビアはジョセフ・スミスの子だと思っていたが。
●ウィンソーの死後、アイオワでクラークという非モルモンと結婚、ユタへは行かずにアイオワ州にとどまる。が、宗教のことで意見が食い違い、離婚。シルビアは子供たちを連れてユタへ。クラークから多額の援助を受け、土地と家を買って経済的に安定した暮らしをした。

生い立ち
●1818年7月31日に生まれる。父はデビッド・セッションズ 母はパティ
●両親がモルモン教会に入信し、自分もバプテスマを受けた。両親と共にメイン州を出て、シオン(ミズーリ)へ引っ越す。
●1838年4月21日、19歳で29歳のウィンソー・ライオンと結婚。ウィンソーの親もモルモン信者。
ミズーリでの生活
●ミズーリでは非モルモンとモルモンが対立し、他のモルモンたちと共にイリノイへと逃げた。ミシシッピー川を渡ろうとしたが、氷が流れていて向こう側へ行けなかった。兄のぺリグリンが日記に書いている。
「ここでは乾燥したとうもろこし以外、食べる物がほとんどなかった。それでたくさんの人が病気になった。11日間ここに滞在した。雪が降り積もっていたけど川を渡った。」
●夫ウィンソーはノーブーに住み始めてから、薬屋と食料雑貨店を建てた。
●ここで娘のマリアンとフィロフリーンが生まれたと思われる。
予言者ジョセフとの結婚
●1842年2月8日、23歳でジョセフ・スミスと結婚。しかし、夫ウィンソーは忠実なモルモンであった。この1か月後に母パティもジョセフの妻になる。
●1842年3月19日、長女マリアン死亡。
夫ウィンソーが破門される
●夫ウィンソーはウィリアム・マークス(ノーブーのステイク会長)に3000ドルを貸していた。しかし、全く返してもらえなかった。
ーー1842年11月4日、経済的に苦しくなったウィンソーは市民裁判でマークスを訴えた。ところが、これはモルモンのタブーであった。
モルモンリーダーたち、特に高い地位にあるリーダーたちは、もめごとは内輪で解決したがった、公の場ではなくて。
当時のステイク会長と言えば、今の12使徒にあたるほどの地位の持ち主だ。
ーー1842年11月7日、ステイク会長マークスはウィンソーのケースを教会の法廷へ持ち出した。そこでは高等評議員たちが裁判を行うが、裁判長はマークス自身である。この裁判で、ウィンソーは破門された。
ノーブー高騰評議員の議事録にはこう書かれている。
 「ウィリアム・マークス 対 ウィンソー・ライオン。
 末日聖徒イエス・キリストの高等評議員会へ、ウィンソー・ライオンが11月4日に私に対して市民裁判を起こしたことと、クリスチャンの人格をひどく落としめたことに対して不服とするものです。」
ウィンソーはこれに反発したが、裁判長がマークスだったので、判定を覆すことは難しかった。
 議事録は次のようにつづいた。
 「訴えは完全に認められた。ステイク会長は、ライオンがへり下って悔い改めない限り、破門される、と決定した。これは高等評議員会満場一致で可決された。」
これらの記録は現在でも残っている。ウィンソーは1846年に再度バプテスマを受けている。
このことに関して、ジョセフ・スミスが日記にこう書いてある。
 「ウィンソーライオンズと数名を呼んだ。詐欺と不正について供述所を書くようにした。」
ウィンソーはこの後も、モルモンの中で商売をし続けた。
●1842年12月、シルビアは3番目の子供を産んだが、すぐに死亡。
●1843年2月12日、ウィンソーはパティの家で、ジョセフ・スミスに500ドル貸した。ウィンソーはジョセフの真の友だったと記録されている。
●シルビアの家にジョセフの妻たちがよく集まった。母のパティ、エライザ・スノーマリンダ・ハイド、ルイーザ・ビーマン、マリー・ノーベルなど。
●シルビアは貧しい人たちに施しをし、扶助協会にも多くのお金を寄付した。
●ジョセフは妻たちに、困っている妻たちを泊めてあげるようにと頼んだ。
1843年の秋か冬、パートリッジ姉妹たちがジョセフ・スミスの家から追い出された時は、エミリー・パートリッジはシルビアの家に何か月か泊めてもらった。
シルビアの3歳の娘、フィロフリーンが病気になった時、エミリーは夜中にこの子の面倒を見た、と書いている。
●1843年9月18日、ウィリアム・クレイトンがこう書いている。
 「ジョセフと私はお金を借りに出かけた。ライオンズ姉妹の家でワインを飲み、午後に私はライオンズ姉妹から50ドル借りることが出来た。それを昨日、D・Dに支払った。」
●1844年1月27日、娘フィロフリーンは病気で死んだ。
●1844年2月8日、4番目の子供、ジョセフィンが生まれる。
予言者ジョセフとの間に娘を産んだと信じていた
●以下はジョセフィンの供述書である。
「1882年、死ぬ直前に、母は、私をベッドに呼び寄せた。自分の死が近づいた、死ぬ前に今まで隠してきた秘密を是非、私に伝えたい、というのだ。
母は、私は予言者ジョセフ・スミスの娘だと言った。夫のライオン氏が教会から破門されていた間、母はジョセフと結ばれていたというのだ。」
このシナリオは、実際の歴史とは違っている。なぜなら、記録によると、シルビアはウィンソーが破門される前にジョセフ・スミスと結婚したのだから。
それでは、なぜこのような矛盾が生じたのだろう?
考えられる理由は2つ。
①シルビアは、娘のジョセフィンに、既にウィンソーと結婚していたのにジョセフとも結婚したことを正当化して説明する為に、事実を曲げて話した。
②シルビアはこう言いたかった、ウィンソーが破門された後で、ジョセフと性交渉を持ったのだ、と。これは歴史を見るとあり得る。
●この話によって、シルビアはジョセフィンがジョセフの娘だと信じていたことがわかる。
●これによって、ジョセフが多妻婚の妻たちと性交渉を行ったこと、その中には夫を持つ女性たちも含まれる、ということが証明されるのである。
 シルビアがなぜ、ジョセフィンはウィンソーの子ではなくて、ジョセフの子だと思ったのかは明らかではない。
 が、恐らく、シルビアは少しの間、ウィンソーとの性交渉を拒否したのだろう、又は、ウィンソーが仕事で出張にでも行っていたのかもしれない。
 いずれにせよ、ウィンソーは破門されていた間も、モルモンたちと親交があった。信頼もされていた。
1844年5月11日、ヒーバー・C ・キンボールの息子がライオン家で結婚式を挙げている。カーセージの危機の時、ウィンソーは証人として呼ばれている。
ヒーバー・C・キンボールとの結婚
●1844年9月19日、ヒーバーとこの世の結婚をした。しかし、ウィンソーと住み続けた。
●シルビアの家は大きかったのだろう、よく集会の場として使われた。
12使徒のウィラード・リチャーズがこう書いている。
「1844年12月20日、ライオン氏の家に行き、一杯のワインをいただいた。ライオン夫人からもてなしを受けた。次の木曜日も立ち寄ることに同意した。」
●1845年の秋、非モルモンからの反発を受け、イリノイを去ることにした。旅路の準備をすると同時に神殿を完成させ、儀式を執り行うのに力を尽くした。
●この期間に多くの多妻婚の儀式がここで執り行われた。父親デビッドも2番目の妻をめとった。
いとことの再会
●1845年12月24日、エノク・トリップという、シルビアのいとこが訪ねてきた。彼はモルモンではなかった。彼は生活に困っていて、仕方なくノーブーのモルモンのしんせきに助けを求めにきた。が、モルモンは非モルモンを殺すといううわさを聞いていたので、非常に恐れていた。
ところが、モルモンは親切で、友好的で、信仰深く、食事の時に祈りをささげると知って驚いた。
●1846年1月、夫ウィンソーはもう一度バプテスマを受ける。いとこのエノクも一緒に受けた。ヒーバー・C・キンボールが授けた。
●1月26日、シルビアは神殿でジョセフ・スミスと永遠の結婚をした。
そしてキンボールとこの世の結婚をした。ウィンソーはこれを知っていたらしい。
●ウィンソーはhigh priestに任命された。かなりの高い地位である。
夫ウィンソーも多妻婚を始める
●1846年1月か2月、ウィンソーはスザン・ジーと永遠の結婚をした。こうしてウィンソーも多妻婚を始めた。2人の間にはチャールズという子供が生まれた。
 それでも、シルビアとウィンソーは一緒に住み続けた。
●1846年5月、ウィンソーはノーブーの土地を売り、弟のエシエルと共にアイオワ・シティ・マニュファクチャー・カンパニーを買った。これはアイオワ川にダムを建てるプロジェクトだった。
●1847年9月4日、5人目の子供、バイロンが生まれた。しかし、3歳で死ぬ。
●1848年8月8日、6人目の子供、デビッド生まれた。しかし、1歳半で死亡。
●1849年1月、夫ウィンソーアイオワシティで病死。
●ウィンソーの2番目の妻、スザンは子供を連れてユタへ行き、再婚したという。
新しい夫
●エゼキエル・クラークと結婚した。4度目の夫である。彼は非モルモンで、製粉所を所有していた。銀行家であり、政治家であり、死んだ前妻との間に3人の子供がいた。
●1850年4月21日、6番目の子供デビッドが1歳半で死亡。
●1851年2月4日、クラークとの間の子、パティが生まれた。
●1851年12月13日、5番目の子供バイロンが3歳で死亡。
離婚し、ユタへ
●子供も数人生まれて幸せだったが、宗教のことで意見が食い違い始めた。
 1854年、クラークと話し合って、離婚する。シルビアと子供たちはユタへ行った。
●エゼキエルがくれた多くのお金で農場と家を買った。ヒーバーCキンボールとは決して一緒に住まなかった。
●1855年、クラークがユタに来て、帰って来てくれ、と頼んだが、シルビアは断った。
●クラークとの間にできた子供のうち、ペリーが8歳の時、この子はクラークの所へ戻って住み、素晴らしい教育を受けた。父親クラークの銀行でも働いた。
●クラークは再婚し、5人の子供が出来たが、ユタにいる二人の娘たちにも気にかけ二人の結婚時には贈り物を贈った。
●ホテルを経営した。
●シルビアの娘ジョセフィンは結婚したが、その夫は他にも妻をめとった。
●1882年4月13日、63歳で死亡。死ぬ間際にジョセフィンに、
 「あなたは予言者ジョセフ・スミスの娘よ」と告白した。 


私の感想
●シルビアは夫ウィンソーがいるのにジョセフと結婚、子供をつくる行為をし、その後まだウィンソーが生きてるのに今度はヒーバーと結婚、これは形だけのもので、今度はウィンソーまで他の女性と結婚、子供をつくる、なんかごっちゃごちゃで訳がわからないです。
 そんでもって、ヒーバーがいるのに今度はシルビアは非モルモンのクラークと結婚子供をつくる、めっちゃくちゃですね!
これを ファミリー・ツリーを使って小学校のクラスで説明せよ、と言われたらどうなるのか?
「あんたの家族、おかしいよ!」と言われるでしょう。
シルビアはたくさんの子供をなくして辛かっただろうと思います。昔はこうだったんですね。
昔は伴侶も死ぬことが多かったから、再婚もよくあったんだと思います。でも、まだ夫が生きてんのに他の人と結婚するというのは、全くもって異常です。
DNA鑑定の結果、シルビアの娘ジョセフィンはジョセフ・スミスの娘ではなかったと聞いていますが、シルビアはそう思ったたのだから、きっとジョセフはシルビアと性交渉をしたのでしょう。これをエマ・スミスは知らなかったのではないか、と思います。本当にひどい話です。エマがかわいそうです。
●他人の妻を含む、何人もの女性と寝る時間がよくありますね?予言者ジョセフ・スミスさん!
神殿を建てる?そんなことにものすごいお金をつぎ込んで、食べるものもない状態になって、それで栄養失調で子供たちが死んだら、一体何の意味があるんですか?
お祈りは、こんなゴージャスな所でしなくてもいいでしょう?
●夫ウィンソーがステイク会長を怒らせて破門になったというのもひどい話です。
ブリガム・ヤングもこの世の富に弱かったと彼の側近で友達だった人たちが書いてます。
ジョセフ・スミスも自分の銀行が倒産した時、もし訴えたら、破門するぞ、と投資したモルモンたちを脅しました。
●非常にショックですが、ひどい話です。実は、私の弟の奥さんが問題のある人で、あることで私もそれに巻き込まれ、ひどい目にあいました。
そこで、この奥さんの親に、何とか娘さんを正してほしいと、電話しようとしたんだけど、その時、私の妹の一人がこう言いました。
「あの子のお父さんは教会内で力のある人なのよ。それに、仕事でも成功して力のある人なの。だから、もし、お姉ちゃんが何か言って怒らせたら、こっちが何されるかわからないよ、やめた方がいいよ」
は?教会員でしょう?そんな悪いことするもんか!と思いました。
それに、あまりにもひどい影響が私にもあったので、なたんだ結果、私は弟の奥さんの父親ではなく母親に電話してとても熱心に、でも、優しく、お願いしました。
今は妹の言ったことが正しかったんだな、とわかります。とても悲しいです。
こういうことが、教会の初期の時代から行われてきたのだと知り、本当に残念です。