前編

9月27日に最終回を迎えたNHK朝の連続テレビ小説『虎に翼』。SNSには、

 

「トラつばロスがひどくて、オンデマンドで最初からもう一度見始めている」

「桂場さん(松山ケンイチさん)が、最終回後からドラマを見始めて、今更視聴&レビューをSNSにアップしてくれているのが超癒やし。松山さんといっしょにトラつばを振り返って泣いている」

といった“トラつばロス”の声が今も絶えない。

 

それと同様にドラマのテーマとなった法律やモデルとなった三淵嘉子さんに改めて関心を持った人も多かった。

 

「憲法をこんなにも身近に感じたことはなかった。法って難しいのものじゃなくて、私たちの生活を支えてくれるものなんだと実感した」

「勉強不足で三淵嘉子さんの存在を知らなかった。先人の努力を無駄にしないように生きねばと改めて思った」

 

そして、ドラマは、寅子が現役裁判官として活躍する様子が描かれ、その後、いきなり没後の15年イマジナリー寅子の登場で最終回を迎えた。50代半ばになった娘・優未を見守りながら、今までの登場人物を振り返る最後は、ドラマとして最高のラストだったと感じるが、寅子のモデルとなった三淵嘉子さんはどのような晩年を過ごしたのか知りたいと感じる人も少なくないだろう。

 

寅子のモデルとなった三淵嘉子さんの史実を振り返るこの企画。今回は、三淵嘉子さんのドラマのその後の人生を追ってみよう。本記事では『三淵嘉子の生涯 人生を羽ばたいた“トラママ”』(佐賀千恵美著/内外出版社)や過去の書物などを参考に、晩年も奮闘しつづけた姿を追う。

 

 

 

■「再就職」より最後の日まで裁判官の仕事を遂行

 

地方裁判所と家庭裁判所の裁判官の停年(定年)は65歳。昭和54年11月、三淵嘉子は横浜家庭裁判所所長として定年を迎えた。嘉子は退官の日の午前中まで、普段と変わらず裁判官としての仕事を精力的に務めた。最後の日まで「現役裁判官」として、働ききった。

 

この日、調停員や地域の有志など、大勢の人が別れの挨拶に訪れた。午後から行われた送別会にも多くの人が集まった。横浜家庭裁判所の古参の職員は「こんなに大勢の方が所長のお別れを惜しむのは、初めてです。すべてが記録的です」と語ったという。

 

裁判所の仕事を終えると嘉子は青空のもと、裁判所の職員たちと記念撮影を行った。そのときのいでたちは、晩年の嘉子のトレードマークとなったえんじのベレー帽にチェック柄のスーツ姿。このスーツ姿は、ドラマの最終回前日、横浜家裁へ初出勤したときの服として再現された。

 

三淵嘉子さんの退官時の衣装が再現され、それを着用した伊藤沙莉さん(伊藤沙莉さん公式X9月27日より)
© 現代ビジネス

 


最後はたくさんの人が裁判所の玄関で嘉子を見送った。嘉子は目に涙を浮かべて車に乗り込むと、その姿が見えなくなるまで見送りの人たちに手を振り続けた。

 

通常、裁判官を辞めてその後に弁護士になったり関連機関に再就職するような場合、辞める前に所属弁護士事務所や再就職先を決めておくことが多い。しかし嘉子は在職中、こうした準備は一切せず、定年の最後の日まで裁判官の仕事を全力でまっとうした。


「退官後のことについては、在官中はなにひとつ考えなかったし、また考えられなかったというのが本当のことです。在官中は仕事に専念すべきであると信じて、ひたむきに仕事に精進してきました」(嘉子の日記より)

 

唯一、決まっていたのは退官記念に夫の乾太郎とオーストラリアに旅行に行くことだけ。「この旅行をひとつのケジメとして、帰国後の生き方を決めて行こうと思う」と嘉子は日記に綴っている。

 

 

 

■退官後も法曹界で、引っ張りだこ

 

退官後のことは全くの白紙だった嘉子だが、日本初の女性弁護士、初代女性裁判所長など、山ほど伝説を作ってきた三淵嘉子を、周囲は放っておくはずはなかった。様々な機関や団体から声がかかり、嘉子は多くの公職を兼任して、現役時代同様に忙しく活動を再開することになる。

 

野に下ってわずか1ヵ月後の昭和54年12月からは、労働省の男女平等問題専門家会議の座長に就任。この会議で嘉子がまとめた「雇用における男女平等の判断基準の考え方について」の報告書は、その後に制定される「男女雇用機会均等法」に活かされることになる(詳しくは以前の記事『戦後も続く根深い女性差別に恐れず闘い続けた「虎に翼」寅子モデル・三淵嘉子の生き様』、参照)。

 

在職中の54年6月から務めていた「日本婦人法律家協会」の会長は、退官後も務め続けていたし、昭和55年1月には東京家庭裁判所の調停員と参与員、同年5月には「東京少年友の会」の常任理事、さらに昭和56年10月からは「社団法人農山漁家生活改善研究会」の理事、昭和57年8月に東京都の人事委員会委員、昭和58年7月からは労働省の「婦人少年問題審議会」委員などを歴任。そして昭和55年は、第二東京弁護士会に弁護士として再登録し、弁護士としての仕事も行っている。

 

これだけの公職を引き受けていた嘉子は、在官中に毎日裁判所に通うのと変わらないくらい忙しい日々を送っていたことがうかがい知れる。

 

 

 

■ふたりの夫への愛情を振り返り、かみしめる日々

 

退官後も忙しく飛び回っていた嘉子だが、プライベートでも非常に濃密で充実した日々を送っていた。

 

すでに退任していた夫・乾太郎とは、嘉子の退官直後のオーストラリア旅行以外にも、海外や国内を数多く旅行した。国内では金沢、萩、福山、高松、甲府、新潟……。甲府と新潟は乾太郎と嘉子がそれぞれ裁判所所長を務めた思い出の場所だ。海外旅行はデンマーク、フランス、中国、そして嘉子が生まれたシンガポールにも出かけている。それぞれの赴任地で別々に暮らすことも多かった現役時代の時間を埋めるかのようにふたりのセンチメンタルジャーニーは続く。


退官後には忙しく公職をこなしつつも、体調を崩しがちだった乾太郎のケアをしながら、旅行や映画鑑賞、美術館めぐりなどを楽しんでいたが、晩年になっても前夫・芳夫のことを忘れることはなかった。退官後の嘉子の日記には、折に触れて芳夫が登場している。

 

たとえば嘉子の晩年の日記にはこんな記述が残されている。悪性腫瘍から肺がんに転移して亡くなってしまう若い医師の手記を映画化した『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』という作品を見た日、主人公の医師の「まだ見ぬ子がもうひとり欲しい」という台詞にまつわる前夫の想い出だ。

 

「私は前夫の芳夫が出征する前に、同じように『まだ見ぬ子がもうひとり欲しい』と言い、私も切望したことを思い出した。芳武(実の息子)のために兄弟をもうひとり、と願ったことがあった。しかし芳夫はいつも他人の世話をして、親切な人柄からか、もうひとりの子を私には恵んでくれなかったのかなと、映画を見ながら考えていた。(芳夫は)私に苦労を掛けないようにと心遣いをしているような、運命的な生き方をしたように思う。やっと日本に上陸しながら妻子にも会えずに死んでしまったり(芳夫は終戦後、中国から帰還したものの船が着いた長崎の病院で戦病死している)、もうひとり欲しいと願う子も残さなかったり、いつも人のためを思って生きていた人だ」

 

そして最後に、

 

「(映画を見て)近年あんなに泣いたことはなかった、声をかみ殺すこともあったくらい。涙で目が腫れてしまった」と綴った。前夫と死別し、長い年月が経ってもなお、芳夫は嘉子にとってかけがえのない大切な存在であり続けた。ドラマの最終回前日に、戦病死した前夫の優三さんがイマジナリーで久々に寅子の前に登場したが、嘉子の芳夫に対する想いが生かされていたような素敵な描かれ方だったように思う。

 

後編『「虎に翼」ドラマでは描かれなかった寅子モデル・三淵嘉子の多くの人に愛された最期』では、さらにその先の嘉子の最期までの様子を史実を見て行く。

 

 


若尾 淳子(ライター)

転載元

 

 

 

後編

『虎に翼』ドラマでは描かれなかった寅子モデル・三淵嘉子の多くの人に愛された最期

 

 

9月27日に最終回を迎えたNHK朝の連続テレビ小説『虎に翼』。SNSには、一週間以上経った今も“トラつばロス”の想いをつぶやく人が後を絶たない。

 

最終回では、冒頭に寅子が15年前に亡くなったことが告げられ、その後の娘・優未の母とは異なる生き様を含め、『虎に翼』が半年間かけて伝えていた想いが凝縮する回となった。


ドラマでは、横浜家庭裁判所の所長になった寅子の姿までを描いているが、その後、どんな人生を描いたのだろうか。史実では、ドラマで描かれた後にも、いくつものドラマがあった。ドラマとしては最高のラストだったが、寅子のモデルとなった三淵嘉子さんはどのような晩年を過ごしたのか知りたいと感じる人も少なくないだろう。

 

寅子のモデルとなった三淵嘉子さんの史実を振り返るこの企画。前編『「虎に翼」であえて描かれなかった、寅子モデル・三淵嘉子のその後の人生とは?』に引き続き、『三淵嘉子の生涯 人生を羽ばたいた“トラママ”』(佐賀千恵美著/内外出版社)や過去の書物などを参考に、三淵嘉子さんが奮闘しつづけた姿を追う。

 

※以下、文中敬称略

 

 

 

■「凶」のおみくじが予告した、予期せぬ病

 

昭和58年1月7日。嘉子は初詣に出かけた柴又帝釈天で人生初の「凶」のおみくじを引いた。信心深い母・ノブに育てられた嘉子は、若いころからおまじないや占いの類を好んでいたので、「凶」に驚き、不安な気持ちになったのだろう。わざわざ日記に記している。しかしそのとき、自分に病魔が迫っていることに全く気が付いていなかった。このころすでに肺腺がんを原発とした、転移性の骨がんが体を侵食し始めていた。

 

「2月ごろから背中や肩がこって、病院に行ったり磁気を当てたりしたが、どうもよくならない。3月半ばごろから胸骨が痛く、すぐ胸に手を当てかばうようになった。身体を動かしたりすると痛く、体操で両手を上にあげることができなくなった」(嘉子の昭和58年4月30日の日記より)

 

昭和58年4月に検査入院。その後一時帰宅するが、体調不良と痛みが激しくなり再入院。7月にがん細胞が発見され、芳武は嘉子にそのことを報告する。今ではがん告知は本人に伝えられることが多いが、当時は本人にがんであることを伏せているケースも少なくなかった。しかし、芳武は嘉子から「自分の病状について分かったことは、すべて知らせて欲しい」と語っていたため、芳武は母にがんにかかっていると率直に知らせたのだ。

 

そのときのことを嘉子は日記にこう記している。

 

「私のママ(ノブ)も、ママのママ(祖母)も脳溢血で亡くなった。私も高血圧だから、死ぬのは脳溢血だと信じていた。自分は恐ろしいがんとは無縁だと信じていた。はずれた失望から、おかしく、口惜しい。それにしてもおかしかった。自分の独りよがりがこっけいだった。がんを宣言されたときは、全く『へぇー』という思いでした」(昭和58年11月13日 嘉子の日記より)

 

 

 

■継子が語った、闘病中の嘉子の姿

 

この部分はドラマと史実は異なるのだが、再婚直後から子どもたちが成人するまで、嘉子と子ども(実子の芳武や乾太郎の連れ子たち)との関係は、決して円満とはいえなかった。しかし、嘉子は家庭裁判所で少年らと接するうちに丸くなり、子どもたちも成長することで、晩年、嘉子と継子らの関係は良好になっていた。退官直後には、乾太郎の長男・力夫妻とともに石川県を旅したり、病の床についた嘉子の世話を主にしたのは、乾太郎の三女・麻都(まつ)だった。

 

治療の抗がん剤の影響で、食欲がなくなった嘉子は、自分の食べられそうなものを考えては、麻都に「○○が食べたい。この次、持ってきてね」とよく甘えたという。しかし、せっかくリクエストに応えてくれた麻都に、嘉子がわがままを言うこともあった。その当時のことを麻都はこう振り返っている。

 

「なかなか母の思うとおりのものが見つけられず、私はよく叱られた。ラーメンが食べたいというので作ってあげれば『だいたい、病人に食べさせるのになによ、これじゃあ素ラーメン(具が入っていない)じゃないの!』と言われるくらいは、まだ序の口だった。御膳そばが食べたいというので麻布十番まで行って買ってきたことがある。母は、そのそばを見るなり『ああ、これはニセモノの方なのよ。あそこの路地を入って行った奥の方に本物の店があるのに…』と情けなさそうに私の方を見た」(追想の人三淵嘉子より 麻都の回想)

 

せっかくの義娘の好意を無にするような義母のわがまま。そんなエピソードを懐かしく語りながら麻都はこう続ける。

 

「(昭和58年)4月ごろになると、ほとんど何も食べられなくなってしまった。どんな憎まれ口をきこうと、文句を言おうと、少しでも食べてくれた時のことをずいぶん懐かしく思ったものである。母から見れば、私はできの悪い娘で、心配ばかりかけた親不孝者だったけれど、最後にあれだけ好き勝手を言い、甘えてくれたことで私は満足している」(同前)


痛みも激しく、食事さえとれなくなった病の末期ははたしかに辛いものではあっただろうが、実子の息子はもちろん、継子にもわがままが言え、それを許された嘉子の晩年は、愛に満ちた幸せなものだったといえるだろう。

 

 

 

■病の床からも、日本のために公職復帰を願った

 

古くからの親友はもちろん、法曹界関係者も嘉子の見舞いにかけつけた。最初に来た人に嘉子が「がんなんですって」と伝えると、聞いた人がショックを受けてしまった。今では「2人に1人はがんに罹患する」ということが浸透し、がんに対する正しい認知も広がっているが、嘉子が闘病していた当時は、「がん=死」を連想する人が多かった。その後は「悪性なの」とマイルドに伝えるようにしたのだと、嘉子は女性弁護士の友人に冷静に語った。

 

昭和59年の1月。嘉子が座長を務めていた「男女平等専門家会議」で女性の雇用のあり方を話し合った際の報告がてら、嘉子を見舞った労働省職員の女性は、このように回想する。

 

「三淵先生は病床にありながら、私が報告した審議の内容に強い関心を持たれ、なかなか意見の一致をみないことを案じておられた。どこまでも働く婦人の職場での地位が、頭を離れないご様子だった。三淵先生は『私は若いころ(エネルギーの)エネ子さんと呼ばれるほど元気だった。今まで休みなく働いてきたから、今はよい休養だと思っているの。しばらく休んだらまた元気になって、やるわ』とほほえんでおられた」(追想の人三淵嘉子より)

 

病魔に侵されながらも、嘉子の信念は揺るがなかった。日本国憲法第14条「すべて国民は法の下に平等であり、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」の条文にある通り、真の平等の実現のために力を尽くしたいという願いを抱き続け、復帰を望んでいたのだ。

 

しかしその願いもむなしく、昭和59年5月28日、三淵嘉子は人生に幕を下ろす。嘉子の最期に立ち会った乾太郎の次女・奈都とその夫は、人工呼吸器を装着し、苦しそうに体を波打たせる嘉子の姿に「見ていられない」と顔を背けた。しかし、「実の息子の芳武が到着するまでは」と、医師に人工呼吸を続けるよう頼み、芳武の到着を待った。まもなく芳武が到着し、最後のお別れが終わると人工呼吸器は停止された。嘉子は静かに息を引き取った。先ほどの修羅場が嘘のように静かな顔であったという。

 

昭和59年6月23日。三淵嘉子の葬儀と告別式が、東京・青山葬儀場で行われた。2000人近くの人が嘉子との別れを惜しんだ。亡くなった翌年に刊行された三淵嘉子の追悼文集『追想の人 三淵嘉子』は、嘉子の親族、友人、法曹界など、嘉子の生涯に様々なかたちで関わった約130名の文章が納められた。これほど多くの人々が、その死を悼み、追悼文集に寄稿したという事実こそが、嘉子が法曹界のレジェンドであり、いかに周囲から慕われ、愛されていたかを物語っている。「愛の裁判所」を育て、育んだ三淵嘉子は、自身の人生を精いっぱい生き、最後はみなに「愛される人」としてこの世を去ったのだった。

 

 

 

若尾 淳子(ライター)

転載元