「しあわせ」とは、欠けているもの(=自分の欠点)を認めて生きることから生まれる。
(たとえば、)自分は自分の女兄弟ほど目立たず美人じゃない、ということを認め、受け入れるるからこそ、よく目立つ美人以上にしあわせになれる。
そう認めたことで、その人にやさしさが生まれるから。


「欠けている」からこそ「生きるエネルギー」が生まれる。


人は弱くても好かれる。弱いのに強く見せようとするから嫌われる。
人は何かができなくても好かれる。できないのにできるふりをしようとするから幻滅され、嫌われる。


誰でも閉塞感を打開することができる。誰でも道を拓くことができる。


いま、イライラしている人、悩んでいる人、孤立している人などがするべきことは?
ほんとうのことを認め、それをカミングアウトすること。


ほんとうのこととは、実は(周囲の人々にとっては)なんでもないこと、
 だけども(気にしている本人にとって)大きなこと、とても恥ずかしいこと、とても耐えられないこと。
 そういう小さなことが素直に言えるときに、閉塞感、いき詰まり感、孤立・孤独ほかの問題は解決されてゆく。


素直になってほんとうのことが言えることで、人と触れあえる。
実情を言える人、「あいつらにいじめられちゃった」と言えたとき、問題は解決に向かう。
それを意地をはって、「あいつらはバカで、劣っている」などというとき、問題はさらに深刻になってゆく。


それではなぜ、この、「ほんとうのことを言う」ができないのだろうか。


それは自分に劣等感があるからであろう。


劣等感は、単なる弱点・欠点を、自分の恥部と思わせる。人はその恥部を見せないために、「勝ち気の姿勢」をとったり、あるいは逆に人を避ける。
つまり態度をこわばらせる。

真に強い姿勢とは隠しごとのないこと、人と協調できること。ほんとうの強さとはすなおに「ごめんなさい」、「ありがとう」が言えること。


人はだれでも弱さ・欠点を持つものなのに、劣等感のために自分自身の弱さ・欠点を恥だとあえて解釈し、そのために悩み、強気・勝ち気・攻撃の姿勢で周囲の人々と対決の姿勢を取るために、心身ともに衰弱してゆく。そのようにして相手に自分の弱さ・欠点を見せるより、破滅 (ほんとうに打ち負かされてしまい、「面目」という、劣等感に病んでいる人が何より大事にしているものが喪失されること、周囲からまったく孤立してしまうこと、変人扱いになりまともに相手されなくなること、など)、 自滅 (自殺など) を選ぶ人たち。


たったひとこと、「ごめんなさい」のお詫びのことばがあれば、流れは変わっていたのに。
「ボクにはできないんだ、君はすごいね」というひとことが言えれば、消耗して自分を追い込むことはなかったのに。








「地震と劣等感の心理学」/ 加藤諦三・著