福島第1原発事故の後、止まったままのものが原発以外にもある。電力会社による社債の発行がそうだ。関西電力と九州電力は先月予定していた起債を見送った。4月以降に発行できたのは沖縄電力だけ。唯一、原発を持たないからである。



 かつて電力会社の債券には、国並みの信用力があった。そのため極めて低い金利で多額の長期資金を借りられた。だが福島の事故で一変。原発を抱えている以上、どの電力も本質的に東電と同じリスクを抱えている、と投資家から見られているのである。事故の際、賠償責任が最大どれくらいになるのか見えないリスク。そして、事故が他電力のものでも賠償の奉加帳が回って来かねないリスクだ。



 被害者への賠償金は、1200億円までを国が負担し、それ以上は基本的に東電の責任と政府は決めた。上限は設けていない。政府は東電を生かし続ける構えのようだが、今後、法的整理が絶対ないとの保証はない。



 電力会社に貸したお金が満額返ってこないなど事故前は全く想定外だったが、今は投資家も極端な事態を覚悟せざるを得なくなったということだ。相当な金利で補ってもらわない限り、割に合わない投資、となる。



 わからないリスクの要因は法律の不完全さにある。



 「原子力損害の賠償に関する法律」(原賠法)によれば、賠償は電力会社の責任だ。だが「損害が異常に巨大な天災地変または社会的動乱によって生じたものであるときは、この限りでない」とのただし書きもある。



 では今回の地震と津波は、「異常に巨大な天災地変」か。



 法律には「異常に巨大な」の具体的定義はない。地震学者でもほとんど想定できず、原発を規制監督する政府も、それを想定した備えを電力会社に命じてこなかったわけだから、「異常に巨大な」とみなすこともできそうだが、政府の見解は違う。



 3月24日の本紙朝刊によると、ただし書きが想定したのは、「隕石(いんせき)の落下や戦争など」(文部科学省幹部)だそうだ。しかし原賠法を作るにあたり、1961年に国会でなされた審議の中で、当時の科学技術庁長官はこう答弁している。



 法律の目的は「被害者の保護をはかり、原子力事業の健全な発達に資する」ことで、そのために国は賠償時の援助を行う、との発言だ。「一人の被害者も泣き寝入りさせることなく、また、原子力事業者の経営を脅かさないというのが、この立法の趣旨」とも言明している。これは、電力会社の経営体力を超えた賠償はさせないという「国の保証」と理解され、「そういう理解があったから、銀行も投資家もあれだけの資金を低利で電力会社に貸せた」(金融機関幹部)のだという。



 今回、政府がまとめた賠償の仕組みはこうだ。国が出す1200億円を超えた分は、原則として東電が払う。ただ、東電は手元に十分なお金がないから、国に立て替えてもらう。他の電力会社もお金を出す。将来、再び事故が起きた時の賠償用に備えて基金を作りみんなで積み立てておく形をとるが、それを早速、今回の事故用に流用する。



 電力会社の収入の元は電気料金だ。原発を持っている全電力から集めたお金を賠償に充てさせるのは隠れ税金みたいなもの。結局、電気料金は上がるだろうが、利用者の不満は電力会社に向かい、国は批判されにくい。原子力政策が「国策」で、今回の事故の被害者を「国策による被害者」(海江田万里経済産業相)と認めながら、実際の賠償となると電力会社の無限責任ということでいいのか。



 原発でひとたび事故が起きれば、被害は甚大で長期にわたり、一株式会社の手には負えない。海外のほとんどの国がそうした考えから、事故の際、電力会社が負う賠償責任に上限を設けている。英国が約180億円、仏が約110億円、韓国約390億円、何かと「自己責任」の米国も約1兆500億円だ。



 福島事故賠償のための法案の審議がやっと国会で始まる。法案にある仕組みだけでなく、原賠法についても正面から議論すべきだ。法律ができた経緯から点検し、不備をどう修正するのか、原発にかかるコストを国と民間企業がどのように分担していくのか、原発を動かし続けるのなら今考える必要がある。



 東電の負担を軽くしてあげようというのではない。その時々で法律の解釈が変わり、リスクの規模が予見できない不安定さを放置することは健全でなく、法治国家として信用されないと言いたいのだ。

 

 




毎日新聞 2011年7月3日 東京朝刊