■去年と違う今年の私=小林洋子
年末は出張の嵐だった。若いころ嬉(うれ)しかった出張は、今は体にこたえる。ホテルの乾燥した部屋で、お肌カサカサ。出張旅費を抑えた無理なスケジュールで、目の下にはクマ。
その日も、くたくたになってホテルの部屋に入ったら、すさまじいタバコの臭い。そして、部屋にあるはずのものが何もない。フロントに電話する。何十回目かのコールで出た男にまくしたてた。「ティッシュもスリッパもズボンプレッサーも、何もない! 見もしないばかでかいテレビしかない!」。ズボンプレッサーを持ってきてもらうことにした。
なかなか来ないので、部屋の外に出てみると、長い廊下の向こうの端からノロノロとズボンプレッサーを運んでくる男が見えた。遅い! 速足で歩み寄り部屋番号を告げ、ズボンプレッサーをひったくった……。
お、重い……。今さら、ごめん、運んでねとは言えないので、よろよろと自分で運ぶ。ホテルマンは手ぶらですぐ後ろを付いてくる。スタッフルームは私の部屋の隣だからか。ようやく部屋の前まで来て、思わず「重っ」ともらしたその時、ホテルマンの小さな声がした、「ふふっ」。まるでコントのような展開に、こちらまで笑ってしまった。
コミュニケーションが卓球のようなものだとしたら、最初にキツいサーブを打ちこんだのは私だった。キツい球を優しく打ち返すことができる人は、少ない。
新年を迎え、ちょっとだけ成長してみようと思う。怒りのスパイラルに入りそうになったら、ブチ切れて重いズボンプレッサーをうんうん運んでいた自分の姿を思い出し、ふふっと笑ってみる。明日は仕事始め。新しい自分に変身するチャンスである。(コラムニスト兼某社勤務)
毎日新聞 2011年1月3日 東京朝刊
■明るさも暗さも伝播する=小林洋子
この頃は毎日のニュースを見るのが楽しみだ。「伊達直人」の贈り物。タイガーマスク現象やブームなどと、「その人」を消してしまうような無粋な受け止め方はすまい。「長続きしない」とか、「子供たちに本当に必要なのはそんなものではない!」など否定的な意見もあるが、いいではないか。たとえ一過性だったとしても、喜んでいる子供がいるのだし、児童養護施設について多くの人たちが考えるきっかけにもなった。
誰かに喜んでもらうというのは、とてもうれしいことである。日本全国に「善の連鎖」が広がり、ひそかに善行を成し遂げた人たちも、そのニュースを聞いた人たちも、温かい明るい気持ちになれば、経済も上向き、暮らしも良くなる。明るさは周囲に伝播(でんぱ)する、活力の源だ。
職場でも、明るさは大切だ。たくさんの部下を持つようになると、悩みも比例して大きくなる。事故や病気やパワハラや、毎週全国のどこかで部下は事件を起こす。それだけでなく、この事業で3年後にも大勢の部下を養えるのかと、考え始めると夜も眠れない。でも、決して暗い顔をしてはいけない。上司が暗いと部下は不安になり、職場はよどむ。
先週も明るく仕事をこなし、週末、病院に検査結果を聞きに行った。毎年受けている念のための癌(がん)検査だ。診断室に入ると、いつもの先生とは違う医者が真っ青な顔をしてカルテに見入っていた。しばしの沈黙。え…まさか、癌?ため息をひとつして、先生は話した。「異常ありません」。その息の酒臭いこと!なに、ただの二日酔いなの?
上司だけでなく、特に医者は、体調最悪のときにも、決して暗い顔をしてはいけないのであーる。(コラムニスト兼某社勤務)
毎日新聞 2011年1月17日 東京朝刊
■思い込んではいけない=小林洋子
勉強会などで知り合った他社の女性社員から人生相談をうけることが多々ある。その日の相談は「セクハラ」。前の職場をセクハラで異動させられたといううわさのある部長とのこと。具体的に何をされたのかを聞くと、「電車の中でいやらしい鼻息をかけてきたり、一緒に出張に行くと、必ずホテルの私の部屋番号聞くんですよ。信じられない!」。
それはいやらしい鼻息ではなくて、単に鼻がつまっていてフンフンしているだけなのではないか。ビジネスホテルの部屋番号を聞くのも、携帯がつながらないときの非常連絡用と思う。初めからセクハラ部長だと決めてかからずに接してみたらどうか、とアドバイスする。人によって感じ方はまちまちだから、むずかしいところだが、「うわさ」をうのみにして、色眼鏡で人を見るのは、いずれにしても良くない。
自分自身も年とともに頑固になりがちなので、思い込みを捨て、多様な価値観や感性を受け入れようと努力している。部下の休日ファッションにも寛容になった。ジーンズをずり下げてはいている若者にも、「にいちゃん、パンツ見えてるで」、と注意することもなくなった。
先週、元部下たちとスポーツ観戦に行ったときのこと。ずり下げファッションを見て、「あ、それ見せパンっていうんでしょ」「イケてないすか?」。会話がはずむ。しげしげと眺めて、「へー、最近はチャックも開けとくもんなんだねー」。本当にそう思ったのだが。「こっ……」。若者はあわててファスナーを上げ、下を向いて真っ赤になってしまった。まずい……。何もかもファッションと思うのも思い込みってワケね。ごめん。(コラムニスト兼某社勤務)
毎日新聞 2011年1月31日 東京朝刊
■聞き間違いの深層心理=小林洋子
「この電車はワンマン運転をしております」というアナウンスを耳にするたびに、勝手に頭に浮かんでくるイメージは、「ワンマンな電車」。誰の意見も聞かず、乗客の都合も無視して、自分勝手に停車したり暴走したりする電車。ワンマンで困るのよね……。もちろん正しいワンマン運転の意味はわかっているのだが、イメージが先行する。同じように、「お食事券」は何度聞いても「汚職事件」に聞こえ、「おしょくじけんプレゼント!」とCMで言うと、いらんわ!と反射的に思う。
「言い間違い」の中に深層心理が表れる。無意識の願望を露呈する失言を「フロイト的失言」というのだそうだが、聞き間違いの中にも無意識の何かが露呈されているのか。
今日、支店長の面談を行った。「支店長には部下を層別指導してもらいたいと……」「え! 送別って、私とうとう転勤ですか?」。支店長は目を輝かせる。悪いね、「そうべつ」違いだよ。でも、そうなのね。転勤したかったのね。私が上司じゃイヤってコト?……いかんいかん、そんなこと勝手に考えては。
しかしまてよ、私はワンマンと言われたくないので「ワンマン運転」にも過剰反応し、汚職事件を毛嫌いしているから「お食事券」がそう聞こえるのだ。としたら、支店長は転勤をいやがっている、つまりずっと私の部下として働きたい、ってことかも。……何事にも楽観的なのが私の特長である。
明るく気を取り直してパソコンに向かうと、別の支店長からメールが来ていた。文中に「業績の仮死化」これは「可視化」の変換ミスだろうが、確かにその支店の業績はひどい。変換ミス、わざとか?(コラムニスト兼某社勤務)
毎日新聞 2011年2月21日 東京朝刊
■「奥様」って、だれ?=小林洋子
イベント会場にて男性部下と一緒に主催者にあいさつに行くと、担当氏は決まって部下にだけ名刺を差し出し、チラと私に目をやって、こう聞くのだ。「奥様ですか」。まじめで口下手な部下は目を点にしてぶんぶん頭を振る。「失礼。秘書の方でしたか。え、違う? 部下の方で……」。「いえ、こ、こ……」。部下は口をぱくぱくさせてうろたえる。「あー、どうも……これは失礼」。何を勘違いしたか小声でそう言うと、ニヤリと意味深な笑みを投げかけて、担当氏は立ち去った。(こんなおばはん、「奥様」でもカノジョでもないわいっ!)。部下の心の叫びが聞こえるようであった。
しかし、仕事相手のそばにいるビジネススーツの女を見て、「奥様」「秘書」「部下」以外に、「上司」という発想がわいてこないものかと思うが、これが日本企業の多数派なのだ。「少数派」のわが社では、部下たちは女が上司であることにすっかり慣れていて、新しい取引先にも「ところでウチの上司は女です」とは、わざわざ告げない。よって、ときおり社名と私の役職の隣に「御奥様」と併記された「奥様ご同伴」のレセプション招待状などが届く。
当日、夫と2人で受付に行き、招待状と名刺を出すと、それでも受付担当者は私の名刺を入れた名札を夫に、「奥様」用の花飾りを私に付けようとする。主役は男に決まっていて、妻はあくまで「刺し身のツマ」。こういう暗黙の「ルール」を押し付けられるとムッとするのだ。
日本では、女性管理者は珍しくなくなったが、経営層の女性は驚くほど少ない。このことが日本企業の国際競争力をそぐ一因となっていることは、間違いないと思う。(コラムニスト兼某社勤務)
毎日新聞 2011年3月7日 東京朝刊