「エリートパニック」が話題になっている。社会の指導的な地位にある人々、つまり政治家などのエリートが、危機に際して市民がパニックに陥るのではないか、と恐れるあまり自らがパニックに陥ってしまうことだ。



 今度の福島第1原発の事故はエリートパニックの展覧会みたいだ。東電司令部は住民がパニックになることを恐れ、情報提供が優柔不断になり「情報隠し」を疑われている。つまりエリートパニックに陥った疑いが濃い。



 菅直人首相は東電のパニックを見抜いたのはいいが、イラ立ちのあまり自分もパニックを起こし、東電本店に乗り込んで指図を始めた。しかし、かえって現場の混乱を増幅したという見方が強い。



 大衆は危機に際しパニックを起こす。エリートはそう思い込んでいるが、必ずしもそうではない。今度の大震災でも大災害に見舞われた人々が近隣縁者はもとより、見ず知らずのもの同士が助け合い、整然とした行動をとった。海外メディアは、日本人はなぜパニックを起こさないのだと驚嘆した。



 米国の作家レベッカ・ソルニットの「災害ユートピア-なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか」(亜紀書房)によれば、大災害のとき「地獄で天国が立ち上がる」現象が世界中で観察されている。何も日本人だけがそうなのではない。



 第二次大戦の大空襲に際してのロンドン市民、近年ではハリケーン「カトリーナ」に襲われた米ニューオーリンズ市民等々、崇高な助け合いがあった。とんでもない厄災を共有する中で平時にはめったに生まれない連帯感・帰属感が生まれるからだ。



 ということは、政治家などエリートは大衆を迷える羊とみてはならず、強過ぎるパターナリズム(保護者意識)は為政者自身のパニックを引き起こし、むしろ有害ということだ。教訓は「民を信じよ」ということであり、情報を隠すなということであろう。



 一般論としては、それでいいのであるが、現実への適用となると、なかなか一筋縄でいかないところがある。



 90年代の金融危機のころ、銀行の一部で取り付け騒ぎが起き、銀行の周りを預金者が取り巻いた。報じ方が悩ましかった。各紙とも、パニックを引き起こしかねないというので、あまり報道しなかったと記憶する。あれが正しい態度だったのかどうか。



 今度の震災もしかり。「あおり」は論外だが、抑制的過ぎても後悔しそうだ。新聞もエリートパニックに陥っていないか、日々、点検する必要がある。

 

 

 



毎日新聞 2011年7月6日 東京朝刊