我々はどういう時代にあり、どう生きればいいのか。いまこの問いが日本人の胸の内に去来していることは、書店をのぞけば分かる。あふれる震災関連本や、新しい生き方の勧め、宗教の入門書……。原発事故を含めた震災は日本人を内省へと向かわせている。
現在、私が読んでいるのはE・F・シューマッハー(1911~77年)の「スモール・イズ・ビューティフル-人間中心の経済学」。73年の出版だ。大分前に読んだが、改めて本棚の奥から取り出した。いまの時代の意味を探るには、恐らくこのあたりが基点になると思ったからだ。
この同じ年、第4次中東戦争が勃発し、石油ショックが起きた。前年には民間のシンクタンク、ローマ・クラブが報告書「成長の限界」で、このまま人口増加や環境破壊が続けば、100年以内に人類の成長は限界に達すると警告を発した。つまり70年代前半は戦後25年、ひた走ってきた多消費拡大路線への疑問が初めて表面化した時期だった。
「スモール・イズ・ビューティフル」は人類の直面する課題をえぐっている。その鋭さはいささかも色あせていない。体制間競争が緊張の頂点にあった時、すでに著者は「人類共同体」「地球市民」の視点から世界を見ていた。それは次の一文でも明らかだ。
「化石燃料の代わりに原子力を使えという提案は、燃料問題を解決しようとして、恐るべき規模の環境問題、生態系の問題を作り出す。……それは一つの問題を別の平面に移して解決を図ろうとし、実際にははるかに大きな問題を抱え込むことを意味する」
70年代前半、世界経済は急減速した。これを日本は省エネ技術で突破し、米英は市場経済主義(競争原理)の徹底で乗り切る。かまに薪をくべるがごとく金融自由化、規制撤廃が続く。この自由放任と効率一本やりが頓挫したのは08~09年の金融危機だった。
反省や自戒がなかったわけではない。日本ではバブル直後、「清貧の思想」がブームになったように、現代文明のあり方に対する疑問が人々の心に兆していた。
私は金融危機と震災は同位相の一体のものとして捉えるべきだと考えている。金融危機は金融工学、原発事故は核制御技術と、技術への過信があった。専門家が高度な知識で排他的に効率を追求した点も類似する。その意味で震災は日本人だけのものでなく、世界の人々が共有すべき問題意識をはらんでいる。
「スモール・イズ・ビューティフル」から約40年。著者の懸念が現実となる中で、我々は再び現代文明と向き合っている。
毎日新聞 2011年7月1日 東京朝刊