悲憤の島から:第3部・兵士たちの悔恨/上 集団自決、重い呪縛
  


 

 ■自分は捕虜で生き残った、でも住民たちは…

 65年前の8月15日。米軍の捕虜になった元日本兵、野村盛明さん(91)は、沖縄本島の収容所で敗戦を知った。日系2世の米兵から玉音放送の内容を聞き、「これで帰れる」と体から力が抜けた。収容所から真っ赤な夕日を眺めると「あの戦場を生き延びた」と実感した。だが、兵士の自分が生き残ったのとは裏腹に、多くの住民が集団自決で死に追いやられたことを思うと心がうずいた。

 野村さんは、沖縄本島の西約40キロにある座間味(ざまみ)島に駐屯していた。1945(昭和20)年3月下旬、米軍が上陸し、猛攻撃が始まると、東京に残した新妻の顔が浮かんだ。「ひきょうでもいい。必ず生きて帰る」。負傷兵の治療が任務の衛生兵だった。部隊内で玉砕を巡って激しい議論もあった。「冗談じゃない」。命を簡単に捨てる気は起きなかった。部隊は散り散りになり、2カ月近く山中をさまよい、米軍に投降した。

    ◇

  激しい艦砲射撃にさらされ、防空壕(ごう)に避難していた島民は3月25日の夜、村の忠魂碑に集められた。碑には、天皇への忠誠を誓う軍歌「海ゆかば」が刻まれている。10歳だった宮里哲夫さん(75)は自決命令が下ったと直感した。「捕虜になってはいけない」「お国のために死ぬのは当たり前」と教えられていた。米軍に捕まれば、男は戦車の下敷きになり、女は辱めを受けて殺されると信じていた。

 夜が明け、近くの壕に移った。皆で「天皇陛下万歳」と三唱すると、壕の奥で手投げ弾が爆発。入り口近くの宮里さんは無事だったが、一緒の母は「死んだお父さんに会いに行こうね」とささやき、近くにいた国民学校の校長に「私たちを先にやって(殺して)ください」と懇願した。だが、校長は自分の首筋をカミソリで切り息絶えた。宮里さんは震えながら母に寄り添い、命を取り留めた。

    ◇

 77年3月中旬。帰還して東京の会社に勤めていた野村さんに意外な招待状が届いた。「これで最後かもしれないので、仲間の兵隊さんを連れて来て下さい」。差出人は座間味村長。村が主催する三十三回忌の慰霊祭が迫っていた。「いつかは慰霊に行かねば」とずっと気にかけていたが、「島の人に恨まれているかも」と思うと足を運べないでいた。

 
 不安な気持ちを抱えながら、戦友約20人と32年ぶりに訪れた座間味。透明な海に小さな島々が浮かぶ美しさは変わらない。大勢の人が港に迎えに来ているのを見て安堵(あんど)した。見覚えのある顔を見つけ、「生きていてくれて良かった」と手を取り合った。

 慰霊祭で野村さんは島の人たちに「申し訳なかった」とわびた。出席者の中には宮里さんの姿もあった。「玉砕は国の教え。兵隊さんが悪いわけじゃない」。宮里さんは野村さんたちを責めることはしなかった。

 「せめてもの償いに」と野村さんは82年、戦友と協力して島に地蔵尊を建てた。毎年のように訪れ、島民の家にも泊まり、結婚式に呼ばれたこともある。

 沖縄県の記録では、座間味島の171人が集団自決した。貴重な手投げ弾が使用されたことなどから、軍の関与も指摘されるが、野村さんは「軍の命令があったかは分からない」と言う。それでも、自分たちが平和な島の住民を巻き込んだ後ろめたさは消えない。

 高齢になり、以前のように座間味に行けなくなったが、島で撮りためた写真はアルバム10冊近くになった。埼玉県蕨(わらび)市の自宅で野村さんは、アルバムをめくりながらつぶやいた。「あの島に軍隊さえ行かなければ……」。失われた多くの命を思い遠くを見つめた。【椋田佳代】

    ◇

 太平洋戦争で本土防衛の捨て石にされた沖縄では、9万~16万人ともいわれる非戦闘員が亡くなった。第3部は、住民の命を守れなかった兵士たちの思いを伝える。

 

毎日新聞 2010年8月16日 東京朝刊

 

 

 

 

悲憤の島から:第3部・兵士たちの悔恨/中 負傷し、見捨てられ
  

 

 ■「郷土守れ」斬り込み攻撃で酷使の末

 沖縄戦最後の激戦地、摩文仁(まぶに)の丘(沖縄県糸満市)にほど近い山すそに、元日本兵の伊禮進順(いれいしんじゅん)さん(84)が潜んだ防空壕(ごう)がある。65年前、郷土の島で米軍と戦った。「地獄のようだったよ」。沖縄慰霊の日の6月23日、丘の上の慰霊塔に息子夫婦や孫たちと車で向かう途中、伊禮さんは壕の方向を指さしてぽつりと言った。

 県内の建設会社に勤めていた1944年秋、19歳で召集された。配属された歩兵部隊166人のうち沖縄出身者は34人。45年4月に米軍が沖縄本島に上陸すると数百メートル先に敵が控える前線に投入された。毎日のように戦友が死んでいく。「明日は自分の番」と思っていた。

 夜間、手投げ弾を持って敵陣に乗り込む「斬(き)り込み」にも加わった。死ぬ覚悟が求められる「陸の特攻」だ。本土出身の上官は「君には郷土を守る義務がある。地理にも明るいのだから」と、たびたび伊禮さんに斬り込みを命じた。

 国のため命を捨てるつもりだった。だが明らかに他の隊員より回数が多い。納得いかなかった。6回目の斬り込みを命じられた時、思わず「またですか」と不満を口にした。

 6月中旬、右足を負傷した。上官は「負傷兵は邪魔になる」と冷たく言い放ち、壕から追い出した。負傷者が集められていた別の壕まで約300メートル。迫撃砲の雨の中、一晩かけて、はうようにしてたどり着いた。自分を見捨てた上官を恨んだ。

 壕には飲み水すらなかった。毛布をかぶせた遺体の山のそばにあった唯一の水たまりには、戦友の体からわいたウジが無数に浮いていた。生き抜くには飲まねばならない。「人間のすることじゃない。まるで野獣だ」。目をつぶり、ウジが入らないよう口をすぼめてすすった。

 8月の終戦間際に米軍の攻撃を受け、その壕からも逃げ出すと、住民4人がついてきた。「米兵が通っても草陰に隠れて決して動くな」ときつく言い渡したのに、米軍のジープ型の車が近くを過ぎた時、住民はうろたえ、動き出してしまった。

 このまま一緒にいるといつか殺されると不安がよぎった。「ついてきたらぶった切る」。伊禮さんら兵隊5人は、足手まといの住民を突き放した。その後、4人の行方は知らない。今度は自分が沖縄の民を見捨てていた。

 「生きるために他に方法がなかった」。自分を納得させてきたが、「戦場で人間らしい感覚が失われていた」とも思う。

 終戦後の11月になって、ようやく家族を探しあてたが、祖母と弟が亡くなっていた。妻からこんな話を聞いた。

 <空から降り注ぐ砲弾を避け、海岸の岩陰に隠れていると、「軍が使うから出ろ」と日本兵に命じられた>

 自分が前線で命懸けで戦っている間に、家族は仲間の手で危険にさらされていたのか--。怒りが込み上げた。

 壕に乳飲み子を抱き避難した近所の女性は、日本兵から「泣き声で米兵に気付かれる。ここを出るか、子供を殺せ」と迫られ、我が子の顔を池に沈めて殺してしまった、と周囲に聞いた。戦後ずっと、その女性に声を掛けられなかった。

 「戦争は人間を人間でなくしてしまう。もう二度とふるさとを戦場にしてはいけない」

 毎年、孫たちを連れて訪れる摩文仁の丘で、そう誓う。【椋田佳代】

 

毎日新聞 2010年8月17日 東京朝刊

 

 

 

 

悲憤の島から:第3部・兵士たちの悔恨/下 住民を裏切った軍隊
 

 

 ■司令官の孫「伝えることが私の使命」

 「軍隊は住民を守るのか考えてください」。東京都福生(ふっさ)市で8日に開かれた市民講座で大田区立小学校教諭、牛島貞満さん(56)=世田谷区=は約20人の受講者に、沖縄の基地問題を語っていた。

 祖父は、旧日本軍の沖縄守備隊約10万人を率いた牛島満・陸軍中将。牛島中将が自決した1945年6月23日は、沖縄での日本軍の組織的戦闘が終わった日とされ、県は戦後、その日を「慰霊の日」と定めた。毎年、島は祈りに包まれる。

 祖父の命日。牛島家では一族総出で靖国神社を参拝するのが習わしだった。牛島さんも学校を休んで親に付いて行った。家には軍服姿の写真や勲章が飾られ、「おじいさんは偉かったんだよ」と教えられた。

 教員になり、平和教育に力を入れたが、広島・長崎への原爆投下は教えても、「沖縄」にはずっと触れないでいた。20万人もの犠牲を出した沖縄戦を指揮した祖父とどう向き合えばよいか、気持ちが整理できなかった。

 94年夏、教員の平和学習ツアーで沖縄を訪れた。激戦地の嘉数(かかず)高台(宜野湾市)に立ち、米軍が上陸した読谷(よみたん)海岸を遠くに望んでいると、参加者名簿を手にした平和ガイドから「牛島司令官と1字違いの人がいますね」と冗談交じりに言われた。

 
 「やはり見つかってしまったか」。その夜、孫だとガイドに打ち明けると、「自分でおじいさんのことを調べるのが大切です。お手伝いします」と勧められた。祖父の足跡をたどり始めた。

 毎年のように沖縄に足を運び、祖父を知る人を訪ねた。牛島中将に壕(ごう)で声を掛けられた元ひめゆり学徒隊の女性は「米国の小説『風と共に去りぬ』を読んでいたのに怒られず、驚いた」と語った。宿舎にしていた民家の子供だった男性は「お菓子をくれたり、馬に乗せてくれた」と話した。「子煩悩で怒ったことがない」と聞いていた祖父像と重なった。

 一方で、「軍に壕を追い出されて怖かった」と話す人にも出会った。ある小学生は「艦砲射撃の中を逃げていたら背中におぶった弟の上半身がなくなっていた」という祖母の体験を語った。

 首里(現那覇市)の司令部を捨て、住民が避難する南部へ撤退する命令を祖父が出したため、多くの人々を戦闘に巻き込んだ。自分は自決しながら「最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」と命じ、兵士には玉砕するまでゲリラ戦を強いた。

 「優しい祖父がなぜ非情な命令を出したのか」。その足跡を追い、たどり着いた結論は「軍隊は住民を守らない」。

 祖父の辞世の歌が伝えられる。

 <秋待たで 枯れ行く島の青草は 皇国の春に甦(よみがえ)らなむ>

 沖縄が焦土と化しても、天皇の国を守ろうとした祖父。沖縄の人々は「天皇の軍隊は負けない」「自分たちを守ってくれる」と信じたのに、本土防衛に備えた持久戦と位置付けた軍は沖縄を捨て石にした。

 8年ほど前から、東京の子供たちに沖縄戦も教えるようになった。今では毎年、沖縄の小学校にも出向いて話をする。

 「祖父を通じて知った沖縄戦を次の世代に伝えるのが私の仕事」。それが「満」の1字を受け継ぐ自分の使命だと思っている。今秋、自決した祖父と同じ57歳になる。【椋田佳代】

 連載「悲憤の島から」は今回で終わります。

 


毎日新聞 2010年8月18日 東京朝刊