<世界の人権問題に取り組む土井さんが、外国と出会ったのは、中高一貫の桜蔭学園時代のホームステイ経験だった>

 小学校時代は漢字を覚えられず、苦労しました。88年に中学校に入ってからは英語が苦手でした。どう勉強したらいいのか分からないのです。中学1年の試験の時、学校に向かう電車の中で、はたと、単語を覚えないといけないのかと気付き、「やべー」と焦ったことを覚えています。

 それが、中学3年と高校1年の夏に英国のエディンバラにホームステイしたのをきっかけに、英語が好きになりました。最初の年は、スペイン、ベルギー、ドイツの子と一緒。英語でその子たちの話が理解できるのが新鮮でした。日本のことを説明し、「あ、通じた」とうれしく、言いたいことをブツブツと独り言で練習するようになりました。

 高1の時(91年)は当時のユーゴスラビア、現クロアチア出身で同い年の女の子と同室でした。帰国したタイミングでユーゴ紛争が始まり、彼女は米国へ1人で疎開。手紙に「寂しい」と何度も書いてきました。ユーゴ問題について、新聞記事を読むようにはなりましたが、どういうことであるかは、分からないまま。自分が「世界」とつながっている実感はわきました。

 

 <大学、そして司法試験へと進むが、それは自ら選んだ道ではなかった>

 親が厳しかった。怒ると、何に対して怒っているのかも分かりません。妹が怒られている時は自分でないのでホッとする、そういう自分に自己嫌悪しました。「勉強しろ」とは言わないけれど、勉強できなければ世間から見捨てられる、と思わせようとしているようでした。きつい部活動もダメ。「いい子」でいるために勉強するしかない。学校でも「明るくて楽しい土井さん」の仮面をかぶっていましたから成績は良くなった。論理的(説明)ではないですが、東大に入ったのも「仕返し」だと思っていました。

 「女はよほど勉強できないと、使ってもらえない。だから資格を」という親の意向で司法試験の勉強を始めました。大学で馬術部に入りましたが、勉強のじゃまになるからと、やめさせられた。親が亡くなる夢、自分がマンションから飛び降りる夢を見ました。大学2年の終わり、帰宅すると、自室は木村拓哉さんのポスターがはがされ、ぐちゃぐちゃにされていました。高2の妹と走って逃げました。家出です。

 

 <貧乏生活が待っていた>

 アルバイトざんまいの日々が始まりました。登戸(川崎市)に下宿を見つけ、南麻布(東京都港区)の家庭教師先まで交通費が惜しく、(片道約20キロを)自転車で通いました。妹が、安売りでしょうゆやみりんを買い過ぎて電車賃が無くなり、重い袋を提げて4駅分を歩いて帰ったときは「かわいいやつよ」と思い、友達に言い触らしました。

 家出したころ、「ピースボート」のボランティアを始めました。世界中の人と交流する船旅を運営するNGO(非政府組織)です。前から興味がありましたが、家出で自由になり、日常生活のサバイバルで少しずつ自信もわき、やっと行動に移すことができたのです。ボランティア1時間当たり乗船料が1000円安くなりました。あの時の苦労は楽しかった。家出前のことは、忘れようとしているのか、あまりよく覚えていないところもあります。

 

 <96年、東大3年生の時、その年の最年少で司法試験に受かった>

 司法試験の勉強が心底嫌で、落ちてもう1年勉強することは耐えられそうにありませんでした。とにかく合格して受験勉強をやめたかった。家出した年の夏に論文試験がありましたが、有料の論文指導講座に通えないので、資料を仲間にコピーしてもらって勉強しました。おかげ様でその年の11月に合格できました。

 こんな経験をしたからこそ、弁護士になって、「強い者と闘うぞ」というよりは「弱者に共感する」気持ちが強いと思います。弁護士になるきっかけを作ってくれた親に、今となっては感謝もしています。

 


 聞き手・花岡洋二

 

 ■人物略歴
 ◇どい・かなえ
 国際人権団体「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」日本(電話03・5282・5160)代表。神奈川県生まれ。97~98年エリトリア法務省調査員。00年弁護士登録。アフガニスタン難民弁護団などで活躍。34歳。

 

毎日新聞 2010年3月2日 東京朝刊