■帰還後、米軍がソ連の動向聴取

 1945(昭和20)年8月の終戦から64年。大崎市田尻の梁川(やながわ)繁夫さん(84)は旧ソ連軍の捕虜として4年余にわたるシベリア抑留の模様を地域の文集に執筆した。日本帰還後、米進駐軍から、一時期を過ごしたウラジオストクでのソ連海軍の動きについて聞き取り調査を受けたことを明らかにした。東西冷戦を背景に米軍が極東ソ連軍に関する帰還者情報を重視したことを示す戦後史の一端がかいま見える。

 執筆したのは「戦争と捕虜の思い出」と題する出征・抑留記で、地元の高齢者交流団体「大貫万寿会」発行の「思い出第3巻」に寄稿した。

 抑留記によると、梁川さんは44年に19歳で入隊し「朝鮮軍」に編入。45年8月9日のソ連軍の旧満州(中国東北部)侵入と敗戦で、平壌付近で捕虜となり沿海州に移送・抑留された。

 48年9月、帰還予定の一員としてウラジオストクの収容所に移され、歩いて1時間の小さな港町、モールトランスポルトに、作業するために派遣された。1年2カ月後の49年11月末、ようやく舞鶴港(京都府)に帰還。身上書に「両地の収容所にいた」と記し、厚生省(現厚生労働省)の引き揚げ事務局に提出した。

 それから2カ月後、米進駐軍の諜報(ちょうほう)部隊とみられる部署から田尻の自宅に抑留当時の模様を聞かせてほしいとの文書が届いた。50年2月、東京・世田谷の部隊に出向き4日間にわたり昼食をはさんで1日数時間ずつ日系の担当軍人と日本語でやり取りした。

 聴取内容はウラジオストクの軍港にどんな型の艦船がいつごろ、何隻出入りしたかが中心で、収容所生活に関する質問は、話のきっかけづくり程度に過ぎなかったという。聴取場所は大部屋で、同時に10人ほどの帰還者が離れ離れに聴かれていた。旅費と日当は支給された。梁川さんはあまり知らないと判断されたのか4日間で聴取終了となったが、さらに足止めされた人もいたようだと回想する。

 当時の世界情勢は、日独統治をめぐる対立、ソ連の核開発の進展、革命中国の成立の足音など、東西冷戦激化の様相が深まっていた。元軍曹の梁川さんは「冷戦を背景に、米軍はソ連極東海軍が本拠地とする不凍港ウラジオストクの軍事情報の入手を不可欠とし帰還者に狙いをつけたのだろう。身上書に収容所名を記させるのはそのための米側の作戦と後で知った」と述懐する。

 戦後、地元役場に勤め家族とともに平和な半生を過ごした梁川さん。「人間を利用し尽くそうとする戦争体制はまっぴら」と結んだ。【小原博人】

 

毎日新聞 2009年8月4日 地方版






うちわ話:戦後、旧ソ連に抑留され現地で亡くなった丸亀市出身の森満麿さん… /香川

戦後、旧ソ連に抑留され現地で亡くなった丸亀市出身の森満麿さんの遺骨伝達を取材した。44年の出征から65年後の“里帰り”。弟の祥三さん(79)は白い布にくるまれた木箱を大事に受け取った。

「義兄の死んだ場所が見たい」と祥三さんの妻敏子さん(76)は10年以上も前、その地を目指したが、遠すぎてたどり着けなかったことがある。「いつか夫婦で行けたら」と話していた折に舞い込んできたDNA鑑定。判明の一報に「信じられない」と飛び上がったという。

「長い時間と距離をかけて帰ってきました」と県の担当者。木箱は母の位はいのそばに置かれた。半世紀以上の時を経て並んだ母子は今、何を思っているのだろうか。【三上健太郎】

 

毎日新聞 2009年7月25日 地方版