5日は広島市を中心に、原爆の犠牲になった人を悼む式典やイベントなどが開かれた。高齢を迎えた被爆者から、被爆体験を受け継ごうとする若者や子どもまで、多くの人が犠牲者の無念を思いながら、この世から核兵器をなくすことを固く誓った。6日は「広島原爆の日」。
■争い続けた国へ批判の声 原爆症訴訟原告ら中区で集会
原爆症認定集団訴訟の原告や支援者らが全国から集まり、5日に中区で開かれた集会。麻生太郎首相が6日に「全面解決」の方針を示すとされているものの、各地の訴訟で敗訴が続いたにもかかわらず、争いを続けてきた国について批判の声が改めて上がった。
集会には、広島、熊本両訴訟の原告20人を含む約150人が参加。広島訴訟の重住澄夫原告団長は「(勝訴原告の)まだ半分が認定書をもらっていない」と現状を指摘した。
また、広島訴訟の原告、大江賀美子さん(80)=佐伯区=は、声を震わせながら、原爆投下13日後に広島市に入って被爆者の救護にあたったことや、一緒に救護した同級生の大半が白血病やがんで既に亡くなったことを話した。06年8月の広島地裁判決で勝訴しながら、認定書がまだ届かない大江さんは「余りにも時間がかかり、勝訴しても認定はしてもらえないと半分あきらめていた。(本当に全面解決するのなら)国には『何年も待たせてしまった』と謝罪してほしい」と訴えた。【加藤小夜、井上梢】
■「日米不再戦誓の碑」建立 元軍人ら記念し除幕式--本川小
中区本川町1の市立本川小に日米の元軍人たちが「日米不再戦誓の碑」を建立し、5日、除幕式があった。同小では4月、日米の元軍人たちがソフトボールの親善試合を開催。碑はそれを記念して建てられた。元軍人たちは、子どもたちとともに世界平和と核兵器廃絶を誓った。
碑はベンチの形をしていて、裏側には出場した元軍人たちの名前とともに、「核廃絶平和宣言」が刻まれている。
親善試合に参加し、この日の除幕式にも顔を出した尾道市の橋本実さん(85)は原爆投下の5日前まで爆心地近くにいたが、部隊が高知県に移動したため助かったという。橋本さんは「兄はシンガポールで戦死し、弟は呉の空襲で亡くなったが、アメリカの元軍人と試合をした時、少しも憎いとは思わなかった。これからも平和を守り続けていきたい」と話した。【樋口岳大】
■めい福祈る 韓国人犠牲者慰霊祭に300人
中区の平和記念公園にある韓国人原爆犠牲者慰霊碑の前で5日、慰霊祭があった。在日本大韓民国民団関係者ら約300人が犠牲者のめい福を祈った。
原爆で、広島にいた韓国人2万数千人が犠牲になったと推測されている。慰霊碑は70年に中区堺町1の本川橋西詰に建立され、99年に同公園に移設された。慰霊碑の死没者名簿には、今年加えられた14人を含む2647人が記載されている。
被爆者でもある民団県地方本部の権五源(クォンオウォン)団長(68)は「1発の原爆は民族と性別の区別なく被害をもたらした。人間を爆殺する核兵器を1日も早く廃絶しなければならない」と話した。【樋口岳大】
■平和の折り鶴、アニメで上映--きょう中区でフェスティバル
平和のメッセージを伝えようと、広島国際アニメーションフェスティバル実行委員会事務局が折り鶴を使ったアニメを製作している。6日午後1時半から中区の国際会議場ダリアの間で一般の人に鶴を折ってもらい、それを集めて撮影し、同会場で上映する。
ストーリーは、平和への願いを込めて飛んできた折り鶴が集まり、しだいに地球を形作っていくというもの。縦約40センチ、幅約90センチの大きな折り鶴を細い糸につるし、上から下に降りていく様子などをデジタルカメラで1コマ1コマ撮影した。編集して2分ほどの短いアニメに仕上げる。
市立戸坂中学校(東区戸坂新町3)の美術部員ら約30人も撮影を手伝い、約4分の3が出来上がった。6日に完成させる予定で、同フェスティバルのホームページにもアップする。問い合わせは同事務局(082・245・0245)。【村瀬優子】
■きょうの式典、ネットで生中継--広島市
広島市は6日の平和記念式典をインターネットで生中継する。初めての取り組み。午前7時50分から1時間にわたり、同市のホームページで中継し、参列者の黙とうや秋葉忠利広島市長の平和宣言を見ることができる。
閲覧するには、ホームページ(http://www.city.hiroshima.jp/)の中段、市政ニュース内の「ライブ中継」に入る。秋葉市長の平和宣言のみ英語版があり、同日午後10時15分(米国中西部の6日午前8時15分)から約5分間放映される。【矢追健介】
毎日新聞 2009年8月6日 地方版
広島原爆の日:太陽見ると悪夢よみがえる
「ギラギラした日差しが怖いんです」。広島市中区広瀬北町の主婦、渡部芳枝さん(81)は6日、平和記念式典を放映する自宅のテレビの前で手を合わせた。64年前、原爆がさく裂したのは太陽が照りつける空だった。あれ以来、直射日光を浴びると悪夢がよみがえり、式典への出席もずっと控えてきた。「あらゆる戦争をなくしてほしい」。祈るようにつぶやいた。
広島赤十字病院の看護学校寮(同区千田町1)で被爆した。爆心地から約1.5キロ。建物ごと吹き飛ばされ、がれきの中からはい出した。幸い切り傷程度ですんだという。
病院に顔を出して驚いた。皮膚が垂れ下がっている人、目玉が飛び出た人……。瀕死(ひんし)の患者であふれていた。手当てに走り回り、夜は遺体を焼く手伝いもした。自身も髪が抜け微熱が続いたが、約3週間、過労で倒れるまで働き続けた。
太陽を見ると、そんな光景がフラッシュバックするという。「目標を持って生きれば嫌な記憶を忘れられる」と、結婚後は2児の子育てに専念。その後は大手保険会社営業職として「突っ走った」。帽子とサングラスを身につけて働き、新しい契約を次々と取った。その最中、病魔が襲いかかった。くも膜下出血で失神、脳動脈瘤(りゅう)で一時右目が見えなくなるなど入退院を繰り返したが、定年まで勤めた。
今も、日中の外出は帽子と日傘が欠かせない。「いつ戦争が起こるか分からない」と不安で、戸棚には缶詰50個、米50キロ、砂糖、塩など常に1年分の食料を備蓄している。「あの苦しみを二度と味わいたくない」からだ。
長女(60)と長男(55)もがんを患い「私のせいかな」と気落ちしたことも。いくら封印しようとしても、癒えない心の傷。「今は平和が続き、安らかに人生を終えられることを願います」。式典を見ながらそう話した。【黒岩揺光】
■献花した花田さん「孫の世代に核残さぬ」
被爆者代表として、平和記念式典で原爆慰霊碑に献花した花田貞子さん(71)=広島市安芸区=は、原爆で父小森表三さん(当時48歳)と長姉信子さん(同19歳)を亡くした。
疎開先から1週間後に広島市内の自宅に帰ると、父は全身にやけどを負って傷口にはウジがわき、9月19日に息を引き取った。被爆3日後に死亡した信子さんとは、会えぬままだった。母ヤゑノさんは、日雇い労働などをし、生き残った5人の子を育てた。「思い出したら涙が出るほどの苦労をしていました」
08年5月、初孫のさくらちゃんが生まれた。あどけない顔の写真を見ながら「絶対に、私たちのような悲惨な目に遭わせてはいけない。さくらの世代に核兵器は決して残してはならない」。固く誓った。【樋口岳大】
毎日新聞 2009年8月6日 12時35分(最終更新 8月6日 16時58分)
広島原爆の日:マハティール氏「非核の訴え日本の義務」
マレーシアのマハティール元首相が6日、広島の平和記念式典に初めて出席した。マハティール氏は毎日新聞の単独会見に応じ、「日本は核兵器を保有する米国などに対し積極的に非核を訴えるべきだ。それが世界で唯一の被爆国である日本の義務だ」と提言した。
日本の若い世代に対しては、「憲法9条を守り、米国には友人として『悪いところは悪い』ということが大切だ」と述べた。
マハティール氏は今回、講演などのため来日。5日に広島入りしした。式典後の記者会見で「広島で多くの方が核廃絶に向けて努力していることを知り、その思いを新たにした」と感想を述べた。
オバマ米大統領のプラハ演説については、「核兵器廃絶に向けた小さな一歩。大切なのは核兵器の削減をどれだけ具体的に進められるかだ」との認識を示した。【重石岳史】
毎日新聞 2009年8月6日 12時14分(最終更新 8月6日 13時41分)
広島原爆の日:元米兵「ヒバクシャの心学ぶ」
オバマ米大統領が核廃絶を目指すと宣言したことで、これまでになく希望の光が差す中で迎えた64回目の広島原爆の日。広島市中区の平和記念公園には各国から平和を目指す人たちが集まり「ノーモア・ヒバクシャ」の誓いを新たにした。一方、未曽有の惨禍が被爆者の心身に残した傷跡は今も深く、自宅で静かに鎮魂の祈りをささげる姿もみられた。
平和記念式典に折り鶴を持参して参列していたのは、原爆投下をざんげする旅で訪れた米ワシントン州タコマ市などの牧師らの一行17人。発起人の一人、トム・カーリンさん(73)は、元在日米海軍の下士官。長崎原爆資料館で初めて見た被爆者の恐怖におののく表情にショックを受け、20代初めに除隊した。
トムさんは、秋葉忠利・広島市長が02年の平和宣言で述べた「憎しみと暴力、報復の連鎖を断ち切る和解の道を訴えるヒバクシャの心」に共鳴。今回の宣言にも大きくうなずき、「Yes,we can」のセリフにほほえんだ。
来日前は、「日本国民に謝罪する」との内容で署名を集めて秋葉市長に渡す予定だったが、米紙上で紹介されて予想以上の米世論の反発を受け断念した。それでも「オバマ大統領を支援して核兵器を廃絶する。多くの人が式典に来ていることに希望を感じた。ヒバクシャの心を学び、世代や人種、歴史を乗り越えて、世界平和を目指したい」と語った。
式典で神妙な面持ちでスピーチを聞いていた米国・カリフォルニア大大学院生、クリスティーナ・スパイカーさん(23)は「原爆投下は必要なかったと思う」と話した。
東部の保守的な家庭に育ち、学校などでも「原爆は戦争を終わらせた」と教わってきたが、01年の米同時多発テロをきっかけに国の見方に疑問を持った。今夏、広島市立大の平和講座に参加したり被爆者の話を聞いたりして、その思いを強めたという。
原爆はきのこ雲の写真のイメージが強かったが、実際に被爆者の体験談を聞くと「そこで苦しんでいる人々がいること」と感じた。
広島で目を引いたのは、オバマ大統領への期待の大きさだ。顔写真を刷ったTシャツを着た人が歩いている。「大きな責任を感じる。帰国後は、学んだことを多くの人に伝えたい」
仏領ポリネシアなどで核実験の被害を調べ、昨年11月の同国の被害者補償法作成に貢献したNGO「フランス核兵器監視協会」のブリュノ・バリオ代表(69)も広島を訪れ、「核実験全面禁止条約(CTBT)の批准や、核の先制攻撃をしないと宣言するなど、行動で示して」とオバマ政権に注文をつけた。【矢追健介、星大樹、村瀬優子、黒岩揺光】
毎日新聞 2009年8月6日 12時08分(最終更新 8月6日 14時00分)