■「ノーモア核」全世界が唱えてほしい

原爆ドーム前にたたずむ新関顕さん=広島市中区で、西村剛撮影
原爆ドーム前にたたずむ新関顕さん=広島市中区で、西村剛撮影




 オバマ米大統領は4月のプラハ演説で表明した。「核兵器を使った唯一の核保有国として米国には行動する道義的責任がある」。核廃絶に向けた兆しが見え始めた。64年前の夏、原爆を投下された日本。悲しみを背負い生きた被爆者、あるいはその2、3世たちの思いをオバマ大統領に届けたい。被爆の国から、核なき世界への願いを込めて。




■広島の「ケン」--親族の「ケン」は米閣僚

 広島に来て、市民との対話を持つよう熱望します。核軍縮の道は平たんではないが、少しずつでも前進してください。 新関顕

 星条旗が並ぶ米シカゴの会見場に、大統領就任直前のオバマ氏が小柄な日系人男性を伴って現れた。日本軍がハワイの真珠湾を攻撃してからちょうど67年となる昨年12月7日(現地時間)。オバマ氏は隣に立つ日系3世のエリック・ケン・シンセキ氏(66)を退役軍人省の長官に指名し、「迫られた改革を成し遂げてくれるだろう」と最大級の賛辞を贈った。

 エリック氏は99年、アジア系として初めて米陸軍トップの参謀総長に上り詰めた。今は閣僚の一人としてオバマ政権を支える。ハワイ出身だが、父方、母方ともルーツは広島にあり、その地に被爆者の親族がいることを知る人は少ない。

 エリック氏と高祖父(祖父の祖父)を同じくする「もう一人のケン」、新関顕(しんぜきけん)さん(76)の一家は1945年8月6日、核の惨禍に見舞われた。

 この7月下旬、広島平和記念公園。開業医の顕さんは原爆死没者慰霊碑に手を合わせた。5年ほど前、脳梗塞(こうそく)で倒れ、右半身と会話が不自由になったが、散歩がてら時々訪れる。「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」。慰霊碑に刻まれた文を黙って指し示した顕さんには「これは全世界の人々が唱えるべき言葉」との思いがある。

 「唯一の核使用国」である米国の大統領は、過去一度も被爆地広島・長崎に足を踏み入れたことはない。今、オバマ大統領の訪問実現への期待が高まる。

 エリック氏もルーツの地広島を訪れたことがない。顕さんは声を絞り出し、米国のケンへの心情を語った。「米国の、退役軍人には、『原爆は必要だった』と、思う人が多いから、長官としては、広島に、来にくいんじゃないかと、思います。でも、来て、知ってほしい」【真野森作】




■ヒロシマ、祈りと沈黙 惨禍、直視してほしい

 

 オバマ政権の退役軍人長官、エリック・ケン・シンセキ氏(66)と、被爆地で外科医院を営む新関顕(しんぜきけん)さん(76)。2人の一族は110年前、日米に分かれた。太平洋戦争は敵同士となった国に住む「2人のケン」の人生にも大きな影を落とした。

 東京・麻布台の外務省外交史料館にハワイ移民の名簿が大量に保管されている。1899(明治32)年にカウアイ島へ渡ったエリック氏の祖父、光蔵氏の記録もある。「広島市江波(えば)一二八番地」と記された当時の住所の近くに、今も顕さんは暮らす。

 64年前の光景は、記憶に強烈に焼き付いている。見知った人が原爆症で次々と倒れていく。闇の中、軍の射撃場跡地で一晩中燃えさかる火葬の炎と、まきを投げ入れる人たちの鬼のようなシルエット。「戦争だけは子供たちには経験させてはいけない」。8月6日が来るたび、思いを深める。

 当時は小学6年生。5月27日の海軍記念日に生まれ、江田島の海軍兵学校に進むのが夢だった。集団疎開先の山寺でドーンという地響きを感じた翌日の夕方、焼け焦げた衣服で訪ねてきた母に惨状を聞いた。



 8月17日、焼け野原に立った。「がれきの山にぼうぜんとした」。家は爆風で一部壊れたが、死者はなかった。だが、爆心地近くの伯母の家は跡形もなくなっていた。伯母はザクロのように赤く焼けただれた腕で1歳4カ月の三女を抱いて逃げたが12日後、力尽きた。ただ一人生き残ったその子を顕さんの両親が引き取り、家族に加えた。




 ■  ■

 広島からハワイへ渡ったシンセキ家の人々は1941年12月7日(現地時間)、真珠湾(パールハーバー)へ向かう日本の戦闘機と立ち上る黒煙を目撃した。二つの祖国の戦争が始まり、暮らしは厳しさを増した。日系人には「敵性国人」のレッテルが張られ、日本語学校長など指導的な立場にあった数百人が「反逆の可能性がある」として戦時収容所に送られた。張り詰めた環境の中で翌年、エリック氏は生まれた。

 米国への忠誠を証明するため軍に志願した日系人の若者の列には、母方の叔父2人も連なった。エリック氏は今年6月の講演で「子供のときのヒーローは軍に加わっていた若い日系2世たちだった」と語っている。高校卒業後、陸軍士官学校に進学。ベトナム戦争での負傷を乗り越え、人種の壁を破る栄達を果たしてきた。4年前に来日した際の講演では「たくさん努力もしたし、たくさんの運もあった」と振り返った。

 退役軍人の医療や年金をつかさどる長官として請われて講演する機会も少なくない。パールハーバーがもたらした苦難については毎回のように語るが、ヒロシマを口にしたことはない。記者の取材依頼にも応じなかった。




 ■  ■

 米国各地に散ったシンセキ家は数年に1度、「リユニオン(再会の集い)」を開く。家紋が入ったそろいのシャツを身につけ、親族同士のきずなを確かめ合う場だ。顕さんは昨年、オレゴン州から広島を訪れた一族の一人に「ハワイで開く次回の集まりに出てほしい」と招かれた。「もう一人のケン」と初めて会う機会が訪れる。

 その時が来たら、こう伝えたい。

 「爆心地に立ち、その周りにも街があり多くの人が暮らす家庭があったことを、それが一瞬にして滅亡したことを、まぶたに思い浮かべてみてほしい」【真野森作】


 

毎日新聞 2009年8月2日 東京朝刊







被爆の国から:オバマ大統領へのメッセージ/2 ハワイの日本語教師

 

◆ハワイで育ったあなたは違う文化を受け入れられる。
 他国と共存できる核なき世界を目指してほしい。
                                   ピーターソン・ひろみ




■「核いらない」世代育成 古里ヒロシマ教科書に

 太平洋の青と砂浜の黄色。オバマ米大統領が学んだ古びた校舎の屋根のドームは、2色のシンボルカラーで彩られている。ハワイ・ホノルルのプナホウ学園。ここで学ぶ中高生の日本語教科書には、ヒロシマが取り上げられている。

 ケン「その時、何が起きたの?」

 祖母「急にピカッと光って、ドンとものすごい音がしたんだよ。子供たちの顔が真っ黒になっていた。庭の水で洗ってやったけど、孝子(娘)の体にガラスがたくさん刺さって……」

 被爆2世の日本語教師、ピーターソン(旧姓・中井)ひろみさん(60)が、母や祖母に聞いた被爆体験を自作の教科書につづった。「日本語を学ぶには、日米の歴史の接点を知らなければ」。そんな思いから、原爆や日系移民などを題材にした教科書を作り始めて23年がたつ。

 父は広島の爆心地から約1・4キロで被爆し、右半身に大やけどを負った。山陰(やまかげ)の自宅にいた母や兄姉は大きなけがを免れたが、仕事で外にいた祖父は約1週間後に亡くなった。その3年後の1948年、ひろみさんが生まれた。

 戦争のしこりを意識したのは、大学時代に出会った米国人男性と結婚するためハワイに渡るときだった。「行かないで」と泣きながら祖母は引き留めた。原爆で夫を失い、息子も戦地から帰らなかった。「アメリカに人生をめちゃくちゃにされたという気持ちだったんでしょう」。わだかまりは解けなかった。里帰りしても祖母は決してひろみさんの夫に会おうとしなかった。夫は祖母の葬儀にも出られず、娘を抱いたまま外で待った。

 祖母の体験から「被害者」として見てきた日米の過去。だが数年前、中国系生徒の発表を聞いて、はっとした。生徒の家族は日本軍に殺されたという。中国戦線に出征した父の顔が浮かんだ。傷を負って広島に帰還し、被爆した父を「被害者」と思っていた。「でも、もしかしたら……」

 孫と祖母の語らいはこう結ばれる。

 ケン「戦争で殺されるのは、ほとんど無実の普通の人たちなんだよね」

 祖母「原爆で広島の人口のうち20万人以上も亡くなったんだよ」

 太平洋戦争が始まった地。「原爆は正しかった?」と尋ねると、ほとんどの生徒が「Yes」と答える。だが、ヒロシマを学んだ後は、ほぼ半分の生徒が「落とすべきではなかった」と答える。「核はいらない」と考える世代が米国にも育ってきていると、ひろみさんは感じる。

 プナホウ学園は、白人やポリネシア系のほか、アジア系など多民族が学ぶ。「多様な価値観を持つ生徒たちと同じ教室で学んだオバマさんは特別な大統領。新しい時代が来たと感じます」とひろみさんは期待する。

 オバマ大統領の担任だったエリック・クスノキさん(60)も「気さくな人柄の彼はいろいろな意見を聞き、一緒に解決に導いていく生徒だった。ぜひ平和のために働いてほしい」と話した。

 ひろみさんはこの夏、教科書の収益を基に設けた平和奨学金を使い、ハワイから2人の生徒と広島にやってきた。祖母に伝えたい。悲しみは繰り返さない、と。【井上梢】=つづく


 

毎日新聞 2009年8月3日 東京朝刊







被爆の国から:オバマ大統領へのメッセージ/3 見つけた「友の写真」

 

◆母を返せといってもかなうことではない。
  ただ、子どもたちに私のような思いはさせたくないのです。
                                      松尾譲二



■罪なき子、苦しめた

 2年前の冬。長崎原爆資料館を訪れた北九州市の松尾譲二さん(73)は、展示されていた写真を見て思わず声を上げた。

 「よっちゃん!」

 口を真一文字に結び、死んだ弟を直立不動で背負う少年--。米軍カメラマンだった故ジョー・オダネル氏が撮影した「焼き場に立つ少年」は、原爆の悲惨さを伝える写真として広く知られる。89年に公開されたが、少年が誰かは今も分からない。松尾さんには、幼友達の「よっちゃん」とうり二つに見えた。

 同い年の「よっちゃん」とは、爆心地近くの浦上天主堂あたりでよく遊んだ。近くに住んでいたが、学校が別だったこともあり、名前は思い出せない。

 「みんな『よっちゃん』と呼んでいた。うちの裏に土手があって雨が降ると水が流れてよく滑って遊んだ。楽しかったなあ」

 1945年8月9日午前11時2分。2人の運命は暗転する。

 松尾さんは、浦上天主堂近くの山に祖父が仕掛けたウサギのわなを見に行っていた。米軍機から爆弾が落ちてくるのが見え、次の瞬間、吹き飛ばされた。

 気が付くと、景色は一変していた。自宅は焼け落ち、誰もいない。母は弟を連れて買い物に出かけていたのか……。野宿をしながら捜し続けた。

 「死体をのけながら捜した。死体の腕を引っ張ったら腕が抜ける、足を引っ張ったら足が抜ける」。終戦後も死者はどんどん増える。死体を焼き場に積んで火にかけると頭がころころと落ちる。「一滴の涙も出なかった。涙が出たのは数年後やった」

 あちこちが焼き場になっていた。3カ月ほど、最後の死体が片づくまで捜したが、家族はおろか友人にも誰一人出会わなかった。「よっちゃん」にも。

 9歳で孤児になった松尾さんは長崎を離れ、北九州に向かった。八百屋になり、結婚もした。だが差別を恐れ、被爆者であることはずっと黙っていた。17年前、28歳の一人娘を肝硬変で亡くしたときも、一人で自分を責めた。「被爆と関係あるのかと思ったけど、女房にも話せなかった」。隠していた被爆証明書が妻に見つかり、被爆者だと打ち明けたのは10年前のことだ。

 被爆後に患った心臓病のために寝込むことも多いが、体調の良いときは絵筆をとる。「あの惨状を残そう」と描いてきた原爆の絵は、「あまりにむごたらしい」と思い直してほとんど処分した。今は、日本各地の風景や草花を描いている。「もう300枚くらいは人にやったかな」。絵に向かう目は穏やかだ。

 「時代が変わって、今は被爆したことを隠す必要もなくなった」。しかし、時代が変わっても、戦争が罪のない子どもたちを苦しめることに変わりはない。自分と同じように、原爆に人生を翻弄(ほんろう)された「よっちゃん」が気にかかる。

 長崎の被爆者たちは手を尽くして写真の少年を捜すが、見つからない。撮影場所も定かでないという指摘もある。それでも、松尾さんは信じている。「こんなにむくんで……。原爆のせいだよ。あのころは食べ物がなくてみんなガリガリだった」。やっと見つけた「友の写真」をいとおしそうに見つめた。【徳野仁子】=つづく


 

毎日新聞 2009年8月5日 東京朝刊