被爆者の新たな取り組みを学ぼう=下原知広(長崎支局)

 

■自ら行動して平和探求を 悲惨さ伝える義務がある

 「核兵器と人類は共存できない。体や骨を刻むほどの苦しみは私たちで終わりにしてほしい」。約1万回もの語り部活動で被爆体験と核廃絶を訴え続ける長崎原爆遺族会顧問、下平作江(しもひらさくえ)さん(74)が、体調を崩し7月中旬から活動を中断している。幸い手術は成功し、復帰に意欲満々だ。被爆者の高齢化は進む。原爆取材をしながら「こうした思いをどう次代につなげばいいのか」と自問自答してきた。9日に64回目の「原爆の日」を迎える長崎市では、被爆体験継承に危機感を持つ被爆者が新たな取り組みを始めている。若い世代は、これらをヒントに継承に取り組むべきだと思う。

 私は08年末から連載企画「ヒバクシャ」(大阪、西部本社発行の朝刊に掲載)で、下平さんの取材を続けている。

 下平さんは10歳の時、爆心地から約800メートルの防空壕(ごう)で2歳下の妹らと被爆した。翌日、壕を出ると外は地獄のような光景だった。自宅にいた家族は被爆死し、助かった妹もその後に病苦で自殺。30代で子宮、卵巣を切除するなど過酷な体験をしてきた。40歳ごろから語り部活動を始め、原爆症認定長崎訴訟の原告として被爆者全体の支援活動にも取り組む。その体験はもちろん、核兵器廃絶の取り組みを生活の中心に据える生きざまに、強い衝撃を受けた。

 7月末、長崎市内の病院の無菌室。下平さんは痛めた股(こ)関節の骨の手術を終え、ベッドで静かに眠っていた。回復すれば、修学旅行生たちに再び被爆体験を語るという。全国の被爆者は3月末で約23万5500人、平均年齢75・92歳(厚生労働省調べ)と高齢化が進む。下平さんのような語り部は少なくなり、被爆体験を持たない人が核兵器廃絶に取り組まなければならない時期が目前に迫る。下平さんの姿に、被爆体験継承への思いをますます強くした。

 新たな手法で継承に取り組む一人が、長崎平和推進協会員で元会社員、出口(いでぐち)輝夫さん(73)だ。爆心地から1・4キロの自宅で被爆。背中や頭に大けがをしたために気絶し、当時の光景をあまり記憶していない。「下平さんのような体験はなく、話せるのは周囲の状況だけ」と言う。そこで、医学や物理学などを約8年間独学、原爆について学んだことを本にまとめた。講話を頼まれると、こうして得た知識を体験談に交えている。

 08年5月からは「平和塾」を月1回開催。被爆遺構などをガイドする被爆者、市民と、原子力や核兵器について議論する。広島原爆(リトルボーイ)と長崎原爆(ファットマン)の名前の由来などを問うなどし、理解を深めてもらう。こうした取り組みから「原爆を体験していない若い人は『核廃絶なんかできない』と考えがちだが、できることがあるはずだ」と語る。

 同協会平和案内人、田中安次郎さん(67)は、3歳の時に爆心地から3・4キロで被爆した。「カメラのストロボを何万個も集めたような青白い光」以外の記憶はほとんどない。そこで「広島で被爆し、原爆症(白血病)のため12歳で亡くなった佐々木禎子(さだこ)さんのように、子供にも身近に感じられる話をして平和への思いを伝えることができないか」と考えた。

 着目したのは長崎市立城山(しろやま)小の「嘉代子桜(かよこざくら)」だった。学校で被爆死した林嘉代子さん(当時15歳)の母親が、娘らの死を悼んで同小に植樹した桜への思いを全国に広めることを計画。募金などで集めたお金で桜の苗木を買い、長崎市や広島市などへの植樹を2月から続けている。「原爆や戦争の悲惨さを訴えるための手段。体験がない分は写真集などで勉強し、語り部の話を聞いて追体験し、その人になりきって話す。我々は被爆の悲惨さを記憶していないが、被爆を伝える責任がある」

 被爆や戦争の歴史を再点検して紡ぎ出そうとする2人の取り組みは、自ら考え、行動し、平和を探求しようとする新たな被爆体験の継承手法を私たちに投げかけている。

 その思いは少しずつ各地で種を芽生えさせている。長崎で01年から始まった「高校生1万人署名活動」もその一つだ。高校生たちが核兵器廃絶の署名を集め、それを国連欧州本部(スイス)などに毎年届けている。参加した高校生たちは約300人に及ぶ。田中さんの活動に共感し、山口県柳井市の中学校が寄付金を送ってもきた。被爆者たちの64年間の平和への思いを途切れさせるわけにはいかない。

 米国では「核兵器のない世界」を目指すオバマ大統領が登場し、ロシアと核削減に関する条約に合意するなど核兵器を巡る状況は動きつつある。「私たちが被爆体験を語るのは、二度と核兵器を使ってほしくないからです」。唯一の被爆国に住む我々は、出口さんが繰り返し語り続けてきた言葉を、改めてかみしめなければならないと思う。

 

毎日新聞 2009年8月4日 東京朝刊






墓銘に残す核廃絶のメッセージ=滝野隆浩(東京社会部)



■保有論、もう退場願いたい 被爆者の強さを知る

 浜松市に、核廃絶を願うメッセージを刻んだ墓がある。好きな言葉を墓銘にする人は増えてきたが、「核」の文字を残すには覚悟が必要だっただろう。被爆者の杉山秀夫さん(86)にとって、核廃絶運動への参加は夫婦の歴史そのもの。だから、昨年末に亡くなった愛妻春子さん(享年83)の墓に、思いを刻んだ。墓前で手を合わせながら私は、一部で出ている核保有論について考えた。保有論はもう、退場願いたい。

 きっかけは春子さんが亡くなる前に書いた「遺言」だったという。デイケア施設で、不自由な手で絵馬にこうつづった。「けんこう 第一です せんそうしないでください」。春子さんは被爆者ではなかったが、結婚以来57年間、2人で署名を集める活動をし、平和行進をしてきた。

 杉山さんは陸軍技術部見習士官として広島市に入ったとき、爆心地から1・2キロの軍会議室で原子爆弾にやられた。そこにいた8人が死んだ。戦後、故郷の静岡県で高校教師をしながら核廃絶運動にのめり込む。県原水爆被害者の会を設立、被爆者の描いた絵を抱えて米ニューヨークで行進もした。絵を見て泣いてくれた米国人がいた。市民同士なら分かり合えると信じている。墓銘は<核兵器の廃絶 憲法九条を守る>にした。「仲間を助けられず私だけが生き残った。運動をしないわけにはいかないんです」

 この夏、私は平和取材班の一人として、被爆者に話を聞き続けた。体験を記録した本も多く読んだ。核廃絶の思いは同じでも、差別を恐れ沈黙してきた人も多い。だが、杉山さんは怒り、悲しみ、勇気を奮い起こしながら核廃絶に取り組んできた。壮絶な決意が墓銘になったのだ。

 北朝鮮が今年4月に弾道ミサイル実験をし、さらに2度目の核実験を強行したことで、国内で核保有論が持ち上がっている。戦後何度目かのことで、その度に「核アレルギーを乗り越え、真の独立国家になろう」と国民意識はくすぐられる。「強さ」へのあこがれなのかもしれない。

 「核アレルギー」。嫌な言葉だ。あんな悲惨な目には二度と遭いたくない、そう思う気持ちは過敏反応なのか。むしろ正当な反応ではないのか。被爆国の安全保障政策は、被爆体験から出発すべきだとさえ思う。数十年にわたって核を研究してきた自衛隊OBはこう断言する。「軍事的にいえば核に行き着く。しかし、国民感情や国際情勢を総合的に考えれば、日本に核保有はありえない」

 毎年数千億円をかけて試作し、秘密裏に地下実験をし、その何倍、何十倍の予算をつぎ込んで大量生産のプラントをつくり、運搬手段を整備し、配備し、防護も考え、必ず出る核廃棄物の処分も検討する--これが核保有の実現化プロセスである。加えて、日米同盟は破棄され、NPT(核拡散防止条約)からも脱退して国際的に孤立することになる。さらに気になっているのは、社会のありようを変える危険性だ。核という「国家最高の機密」の保有を決意した瞬間から、一気に軍事機密の情報管理が始まる。つまり、軍事優先の社会に変わらざるを得ないのだ。

 私は核を即時廃止せよという訴えには賛同しない。すぐ近くに核を振りかざそうとする国がある以上、何らかの対処が必要だと思う。米国とは「核の傘」について、軍事技術の専門家を交えて話さなくてはならないし、抑止力として敵地攻撃能力についても検討を始めていい。

 潜水艦発射型の巡航ミサイルの研究をしていることは、複数の自衛隊高級幹部が私に認めている。一人が明かす。「先制はしない。何発か核を撃たれたとき初めて、国の意思として潜水艦から反撃できる態勢を整えれば抑止になる。米軍は容認するという感触も得ている」

 自分の国が核テロの脅威にさらされて初めて、米国は核廃絶を言い出した。オバマ大統領のプラハ演説の本質はそこだろう。決して、原爆投下の反省からではない。だが、世界が少しでも核廃絶に向かうならそれでいいではないか。

 がんが見つかり、杉山さんは抗がん剤治療中だ。代わりに娘の磯部典子さん(58)が浜名湖近くの市営墓地に案内してくれた。花こう岩に端正な文字。家紋のある部分には「折り鶴」の絵まであった。

 典子さんが問わず語りに話す。「せっかく被爆2世に生まれたのだから、父の話に耳を傾け、平和の心を受け継いでいきたい。みんな、心は被爆者になればいいのよ」

 何と力強い言葉なのだろう。杉山さんが「がんとの闘いは、核兵器との戦いです」と言うのを思い出した。来年5月のNPT再検討会議までは絶対生き抜く、と。

 

毎日新聞 2009年8月5日 東京朝刊






被爆64年の広島、私は黙り込んだ=井上梢(広島支局)


■医師「悲しみ、伝わらない」--少しでも近づきたい

 「私の気持ちは誰にも伝わらなくていい。伝わらないのだから」。被爆2世の男性医師(49)の言葉に、黙り込むしかなかった。被爆64年の広島の今夏は、核廃絶を目指すとオバマ米大統領が宣言したことで、例年になく「希望」がともにある。広島県被団協や秋葉忠利・広島市長らは、その姿勢を絶賛。さらに被爆地の思いを直接伝えて核廃絶への機運を高めようと、被爆者7団体などは手紙を送り、広島訪問を待ち望む。ところが今年6月、被爆医療の取材で訪ねた医師は、伝えることに意味を見いださず、医学生の息子に対してさえも「原爆への思いは話そうと思わない。この話は私の代で終わればいい」と言うのだ。

 医師の母は背中に大やけどを負い、薄くなった皮膚の向こうには肩甲骨が透けて見えたという。父は、倦怠(けんたい)感に悩まされる被爆者特有の「原爆ぶらぶら病」に苦しんだ。まだ原爆の影響と認められなかった当時、多くの被爆者が怠け者とみなされた。父は会社勤めをやめ、居酒屋を開いた。体調が悪いことも多く、医師は小さい時から店を手伝い、酒をつぎこぼしては客に容赦なく殴られた。

 父は被爆時の広島の写真を見ただけで嘔吐(おうと)もした。医師は言う。「日常の幸福といったささやかな喜びを求めながら得られない悲しみ。それは伝えられない」。医師になった後も、がんなどで亡くなる被爆者をみとる中で、その思いを強くしたという。

 初任地の広島に来て、4年目だ。幾たびも被爆者から「あなたには分からないでしょう」と言われてきた。それでもすぐに思い直し、丁寧に話をしてくれたものだ。しかし、この医師は突き放すだけだった。もう手が届かないような距離を感じさせられた。

 どうしたらいいかわからなくなったまま、オバマ大統領の母校で日本語を教え、平和教育にも取り組む被爆2世のピーターソン(旧姓・中井)ひろみさん(60)に会うためにハワイへ向かった。

 ひろみさんの祖父は広島の原爆で亡くなり、父も大やけどを負った。ひろみさんが米国人との結婚を決め、ハワイへ渡る時、祖母は涙を流して反対した。そして、亡くなるまで夫と会わなかったという。ひろみさんの姉も62歳の若さで白血病で亡くなった。

 ひろみさんは日本語を教えるにあたり、「日米の接点を知った上で生徒は学ぶべきだ。私が示せるものは原爆」と考えた。家族の被爆体験を取り上げたテキストを作り、授業で使った。そうすると、最初は「原爆は正しかった」と答える学生が多くても、最終的にはクラスの半分が「落とすべきでなかった」に転じるという。現在、テキストは全米に広がっている。

 米国にとって特別な意味を持つパールハーバー(真珠湾)の地で、原爆の恐怖を伝えるひろみさんの姿勢に、強さを感じた。「『あんなことは無かった』と言わせない」と語ったその言葉は、くじけかけていた私に、再び伝えることが大切と信じる気持ちを呼び起こしてくれた。

 命をかけて被爆証言を続ける被爆者を、1年半にわたって取材してきた。被爆したアオギリが枯れずによみがえった様子から、自らも生きることを教わったという沼田鈴子(すずこ)さん(86)。病に倒れて主にベッドで過ごす今も、月2回ほど、入所する老人ホームに集まった学生などを対象に証言活動を続ける。

 5月の北朝鮮の核実験後に訪ねると、うつろな目で「絶対、核は使っちゃいけんと言っているのにね」と訴えた。ベッド暮らしで弱くなった背骨を痛めることもいとわず、首を上下させて語る。そういえば、「北朝鮮の被爆者が語って、核実験を止めてほしい」と話していた。そんなことが可能かとは思うが、伝える力を信じればこそだった。

 それでも、被爆者の言葉を世界に紹介する役目が私に果たせるのかどうかを悩む。いつも学生時代の友人に伝えることを念頭に置いて書いてきた。原爆に関心の無かった同世代に、問題を考えてもらう橋渡しをしたいと。

 8月初め、医師を再訪し、そもそも伝わらないと考えているのに、なぜ私の取材に応じたかを尋ねた。「私も伝えたい気持ちが完全にないのではない。あなたが私の気持ちを書き伝えることができるかどうか。実験であり、挑戦状です」と言った。

 怒りや悲しみをエネルギーに核廃絶へつなげようとする広島の裏側に、今も気持ちをのみ込む人たちがいる。胸の内をそのままに理解し、伝えることが困難なのは言うまでもない。しかし、私は愚直に聞き取り、わずかなりとも伝わると信じていく。そして、医師に対する本当の回答を、自分なりに見つけたい。

 

毎日新聞 2009年8月6日 東京朝刊