崩壊したニューヨークの世界貿易センタービルで消息を絶った銀行員、中村匠也(たくや)さん(当時30歳)の葬儀は、事件から7年たった今も行われていない。その心境を、山口県下関市に住む父親の佑(たすく)さん(67)はこう語る。

 「頭では理解してます。だから戒名も付けてもらいました。でも、看病して看取(みと)ったとかが何もないでしょ。遺体も確認されないままだし。事件の1年以上も前に『行って来るよ』と出ていったきりだから、しっくり腑(ふ)に落ちていないんです」

 事件後、佑さん夫婦は日々の生活を送りながら新しい情報が入るのを待ち続けてきた。初めのころは、遺体から身元が確認された人のことが新聞に載ったりしていたが、やがて新しい発見者もなくなり、新聞にもほとんど記事が出なくなった。

 「1年を過ぎると、もう何も新しい情報は入ってこなくなりました。すると我々とすれば、もう忘れられてしまったんじゃないかって、そんな気がしてきましてね。ただ当てもなく待っているのが、落ち着かない感じですごく不安なんですよ。すっかり忘れ去られてしまったんじゃないかと」

 事件から3年後、夫婦はジリジリとした不安に背中を押されるようにニューヨークを訪ねた。結果的に、それがとても良かったと言う。

 「ビルの跡から収集された遺骨のDNA鑑定をしている場所に案内されましてね。100人くらいかかわって作業が毎日行われているということでした。一人でも多く身元を確認しようと向こうの人たちが懸命に捜してくれている。それを目の当たりにできてね。もう忘れられてしまったかなという不安がね。一気にこう……、うん。一気に解消されて……。ああ、来て良かったなあって」

 佑さんの声は、心なしか震えていた。

 昭和19(1944)年に36歳で召集され、玉音放送後の旧満州でのソ連軍との交戦で行方不明になった私の祖父も、一片の遺骨も帰ってきていない。祖母の元に戦死公報が届いたのは、消息を絶って14年も経てからだ。

 その祖母が皇居の草取り奉仕と靖国神社の参拝ツアーに行ってきては「天皇陛下(昭和天皇のこと)が手ば振ってやんなはった」とうれしそうによく話していた。あれもまた、佑さんが感じた忘れられてしまうことのやるせなさや、忘れられていない証しを求める気持ちに発していたのではなかったか。

 そんな話をすると、佑さんが言った。

 「遺族が心のよりどころを求めるのは当然だし、何も問題ありません。問題なのは国がそこにかかわり、人心を宗教の力で束ねて一つの方向に導こうとすることです」

 宗教に心を囚(とら)われた若者に息子を奪われた人間として、これだけは譲れないと言うかのように断固たる口調だった。

 思えば戦前の靖国神社は宗教の力によって国民を勇んで危地に赴かせ、死をも顧みずに天皇のために戦わせる装置だった。それゆえその宗教的カルト性と、戦没者の追悼の場という公共性との兼ね合いをどうするかが占領軍による戦後改革でも問われた。占領軍側は誰もがわだかまりなく追悼できる宗教色を払拭(ふっしょく)した記念碑的な公共施設に改める道も示したが、政府が選んだのは、公的な関与を一切排した民間の宗教施設とする道だった。

 靖国神社の宗教法人化を最終決定した時の内務大臣を祖父に持つ三土修平氏によると、この時、公共性を捨てることによって守られたものがある。それは天皇のための死こそ尊いという戦前的価値観に基づく靖国神社の教義だ。それに基づいて神社は「東京裁判史観には屈しない」と宣言し、旧植民地出身の兵士も祭神として祀(まつ)り続け、政府がA級戦犯の合祀(ごうし)取り下げを提言しても突っぱねてきた。公的存在であれば到底許されないこうした行動も、民間の一宗教法人になったがゆえに、「信教の自由」という錦の御旗(みはた)の下で堂々ととれるのだという。

 つまりこの国は戦没者の公的な追悼よりも、「天皇教」ともいうべき靖国思想の存続を選んだことになる。その結果、私たちは戦後63年を経てもなお、心穏やかに戦死者を悼めない状況が続いている。【福岡賢正】


毎日新聞 2008年11月19日 西部朝刊





平和をたずねて:わが内なる「靖国」超えて/5止 過去は未来のためにある


 昨年11月、東京の画廊で韓国人画家による「靖国の迷妄」と題された展覧会が開かれた。その関連シンポジウムで発言を促された特攻隊の生き残りで美術家の池田龍雄さん(80)は「危うくそこに祀(まつ)られそうになった私には、靖国をテーマに絵なんて描けない」と胸の内を明かした。その時心にあったのは、夜間飛行の訓練中に墜落死した親友のことだったという。

 「彼は天皇のために一身を捧(ささ)げようと予科練に志願し、大義を疑うことなく死んで靖国神社に祀られた。それを名誉と信じたままあそこにいます。嫌々戦争に駆り出された多くの戦死者も、心のどこかで死ねば祀られて国民に称(たた)えられると思っていたはずです。僕たちは戦後、国民を天皇のために死なせる目的であの神社があったことを知りました。あれが侵略戦争だったことも。だけど彼らは名誉を抱いたままあそこにいる。それを否定できない、と」

 シンポの半年後、自宅を整理していた池田さんは物入れの引き出しの奥で黄ばんだ紙に包まれた桐(きり)の板を見つけた。片面には特攻隊員が好んで口にした「散る桜 のこる桜も 散るさくら」という句が、もう片面には「君のため 花と散りしと 東風よ いさをつたへよ 父母のもとに」という自作の歌が墨書されていた。特攻隊員となった直後の昭和20(1945)年4月10日、佐賀県伊万里市の親元に帰り、辞世のつもりで書いたものだった。

 天皇のために花と散ることに美を見いだしていた16歳の幼い自意識と向き合い、池田さんは「だまされていたなあ」との思いを苦くかみしめた。日本と韓国、台湾、沖縄の作家による今夏の「『靖国』の闇に分け入って」展への出品を誘われたのはその直後。「だまされていた」との痛憤が背中を押したのか、思わず「出します」と答えていた。

 出来上がったのは、炎に浮かぶ髑髏(どくろ)を背景に、菊の紋章が入った日の丸と63年前の辞世の句と歌、そして飛行服姿の当時の写真を配し、その前を桜の花びらが散る様を描いた作品だった。タイトルを「散りそこねた桜の碑」とし、横に今の思いを詠んだ歌を添えた。

 あざむかれ 散りそこねたる桜花 くだんの空は なきにしもがな

 「桜が散るような空はもうない方がいい。友はだまされて神様にされているだけです。やっぱり事実と向き合って答えを出さないと。祀られているのは戦争で死んだ人だけど、多くの人は殺してもいる。つまり殺人者です。戦争に駆り出され、殺人者にされた上に殺された。だったらそのからくりを問い、二度と復活させぬことこそ大事じゃないですか」

 敗戦時に内大臣だった木戸幸一は昭和20年2月、昭和天皇が重臣の近衛文麿から戦争終結を図るよう上奏され、「モウ一度戦果ヲ挙ゲテカラデナイト中々話ハ難シイト思フ」と拒んだことを記している(「木戸幸一関係文書」)。もしこの時戦争をやめられていれば、東京大空襲に始まる都市の無差別爆撃も、沖縄戦も原爆投下も、ソ連参戦もその果てのシベリア抑留も朝鮮半島の分断もなかったことになる。せめてポツダム宣言を突きつけられた7月末に降伏すれば、原爆以後の惨禍は防げた。しかし国体の護持にこだわった日本はチャンスを逃した。

 フィリピン戦で米軍の捕虜となった作家の大岡昇平には、その経験をもとにした「八月十日」という短編がある。昭和20年8月10日、日本はポツダム宣言受諾の意向を連合国軍に伝え、米軍内はお祭り騒ぎになった。しかし国体護持の保障を求めた日本は正式な受諾をためらい、それ以後も満州ではソ連軍の砲撃、国内では「日本の決意を促す」ための米軍の空襲が続いた。そのことを14日の米紙で知った主人公の大岡は怒る。

 《俘虜(ふりょ)の生物学的感情から推せば、八月十一日から十四日まで四日間に、無意味に死んだ人達の霊にかけても、天皇の存在は有害である》(「戦後占領期短編小説コレクション」第5巻所収)

 私の祖父も満州でのソ連軍との交戦で消息を絶った。軍歴票の戦死の日付は昭和20年8月20日。大岡の言う無意味な死の最たるものだろう。その祖父も、靖国神社に祀られている。

 過去は現在や未来を縛るためにあるのではない。そこから教訓を学びとり、現在や未来に生かすためにある。あの戦争を歴史として客観視できる世代が多数となった今こそ、それが求められている。【福岡賢正】


毎日新聞 2008年11月26日 西部朝刊