【深い傷、それでも生きる】
ミャンマーで昨年5月、14万人以上の死者・行方不明者を出したサイクロン「ナルギス」の襲来から間もなく1年を迎える。軍事政権は、被災地支援よりも、新憲法案の賛否を問う国民投票を優先し、被災者は置き去りにされた。未曽有の災害から、自力で立ち上がるしかなかった数百万人の被災者はどうしているのか。隣国タイからリポートする。
■9施設に15万人
ミャンマーは学生時代から研究対象にして何度も通った。それだけに現状を知りたくて、3月初旬にビザを申請した。しかし、在日ミャンマー大使館からは、昨年6月にサイクロン禍への軍政の対応を批判する記事を書いたことを理由に却下された。数百人の被災者が逃れた隣国タイで取材を試みた。
「大きな声で歌いましょう!」。タイ北西部メソト近郊のメラ難民キャンプ。地雷のため失明し、腕や足をなくした元兵士が暮らす施設で、エスタさん(31)は笑顔で呼びかけた。
ナルギスで被災し昨年6月、キャンプに逃れた。施設には、ミャンマーの内戦で負傷した元兵士17人が入所し、週2回、歌のレッスンをしている。「目が見えなくなっても元気に歌を歌う彼らに励まされています」と照れくさそうに話す。
タイのミャンマー国境沿いには、内戦から逃れた少数民族、カレンなどが80年代から避難し、今では9カ所の難民キャンプに約15万人が暮らしている。最大規模のメラキャンプには約5万人が暮らす。
■「人として認めて」
ナルギスの被害が集中したエヤワディ管区にもカレン民族が多く、同胞を頼って数百人がキャンプに逃れたとみられる。エスタさんも同管区のカレンの村出身。ナルギスで約300人いた村人は約100人しか生き残らなかった。
田畑は海水につかり、農業はできなくなった。親を亡くした子どもたちは死体が転がる水場で水を飲み、感染症で命を落とした。教会からの救援物資は政府に遮られて届かず、ココナツの汁で飢えをしのいだ。
夫(31)と子ども2人(4歳と2歳)とともに6月下旬、約500キロ離れた国境を目指した。しかし、エスタさんの国民登録証には移動制限があり、ヤンゴンの長距離バス停留所で乗車を拒否された。衣類などをすべて売り、ブローカーに金を払って、国境までの計7カ所の検問を通過した。
タイのキャンプに入ったものの、タイ政府は「紛争から逃れた者」しか難民と認めない。エスタさんら被災者は難民認定されず、配給を受け取れない。教会で歌っていた経験をいかし歌のレッスンをしたり、ブローカーから手に入れる唐辛子などのスパイスを売り歩いてわずかな収入を稼ぐ。
故郷の村では被災後、政府関係者が生存者名簿を作り、タイへ逃れたエスタさん一家は死亡者とされた。「国籍がなく、難民にも登録されない。私たちはいつ人として認めてもらえるのか?」。元兵士たちの肩をたたきながら、悲しい目で私を見つめた。
■母の言葉を胸に
国際NGOの支援を受け、避難民らがキャンプ内で運営する中学校。放課後の教室で、両親と兄弟3人をナルギスで亡くしたシルバーモーさん(13)は一人黙々と英単語をノートに写していた。
サイクロンで村は跡形もなくなり、翌日から泥土にまみれた遺体を火葬した。親類15人と5月21日、国境を越えキャンプへ着いた。
毎晩、母親が生き返る夢を見たという。家の前で弟とかくれんぼをしていたころを思い出しては、家の隅で泣く。「なぜ、私はここにいるの?」と伯父に泣きつくと、「お母さんは天国で家を作って、待っているよ」。この言葉に勇気付けられた。
故郷の村には医師がいなかった。最寄りの診療所までボートで3時間かかり、マラリアや下痢などで子どもたちが亡くなった。母から「将来、医者になって村人を助けてあげてほしい」と言われていたことを思い出し、自習に励んでいる。2月の学期末テストでは、クラスで50人中2番だった。「お母さんが見守ってくれるから」。初めて表情が和んだ。
■隣人の心理解を
米国のジョンズ・ホプキンス大などが、被災者ら90人への聞き取りを基にして2月にまとめた報告書には、ミャンマーでの軍政による救援物資の横流しや横領、援助関係者の逮捕、復旧事業での子どもに対する強制労働など、被災者への人権侵害の様子が記されている。
日本政府は来年度から3年間で、メラキャンプなどの難民約90人を受け入れる。
災害や紛争で家族や故郷を失い、国境をさまよう“将来の隣人”の苦境に思いをはせる。彼らを受け入れる前に、まず、私たちは彼らの心の深い傷を理解しなければならないと思う。
毎日新聞 2009年4月22日 大阪朝刊