1 周産期施設、名ばかり
◇医師確保厳しく、機能不全
人けのない分娩(ぶんべん)室の片隅に、へその緒を留めるクリップや薬剤が封を切られることなく置かれていた。国立病院機構舞鶴医療センター(京都府舞鶴市)は、緊急帝王切開手術など比較的高度な周産期医療(出産前後の母子への医療)に対応する「地域周産期母子医療センター」に認定されているが、昨年4月から産科を休診している。産科の常勤医がいなくなったためだ。
以前は50代の男性医師と、小さな子どものいる30代夫婦の医師の計3人が勤務していた。だが、リスクの高い患者の来院が多いうえ、3日に1回は当直で、勤務は過酷だった。
女性医師は、我が子を集中治療室に寝かせながら夜間の緊急手術にも対応していたが、一昨年夏に辞めた。夫の男性医師も一昨年暮れに退職。残った50代の男性医師も疲れ果て、昨年3月にセンターを去っていった。
同センターは、京都府北部の周産期医療の中核を担うはずの施設。常盤和明副院長は「はっきり言って異常事態。だが、医師は確保できず、再開の見通しは立っていない」と力なく語る。
■ ■
厚生労働省は96年に定めた周産期医療システム整備指針で、リスクの高い母体の搬送など高度な医療に対応する「総合周産期母子医療センター」を、各都道府県で1カ所以上設置するよう求めた。地域周産期母子医療センターも、全国を358地域に分けた「2次医療圏」ごとに1カ所以上設けるよう勧めている。
厚労省によると、総合センターは現在、41都道府県で67施設が指定され、地域センターも33都道府県で210施設(4月現在)が認定されている。しかし、舞鶴医療センターのように、名ばかりの施設も少なくない。
京都府が地域周産期母子医療センターに認定している綾部市立病院もその一つだ。同病院産婦人科の上野有生主任医長は「1年半ほど前に突然、うちの病院が認定されると新聞に出てびっくりした。全く寝耳に水だった」と振り返る。
認定されると、他病院からの母体搬送を受け、緊急手術などに対応しなければならない。当時、産婦人科の常勤医はわずか2人。小児科医も2人で、受け入れられる体制にはなかった。
上野医長は「この人数で母体搬送を受け入れなければならないのかと府に問い合わせたが、『これまで通りのことをしてくれたらいい』との返答だった。母体搬送は今も受け入れていないが……」と困惑気味に話した。
■ ■
舞鶴医療センターは現在、近くの産科から未熟児などの受け入れを要請されると、センターの小児科医が救急車で駆け付け、センターに運んで治療する。周辺地域に高度な新生児医療ができる施設がないためだが、搬送に危険を伴わないことが条件のため、運用は限られているのが実情だ。切迫早産など母体搬送が必要なリスクの高い患者の多くは、遠く京都市や兵庫県に搬送されている。
京都府健康・医療総括室の松村淳子総括室長は「舞鶴医療センターの機能を早く取り戻すことが緊急の課題と認識しているが、産婦人科医は簡単には見つからない。どこにいるのか、知っていたら教えてほしい」と頭を抱える。
× ×
奈良県橿原市の女性が救急搬送中に死産した問題で、改めて周産期医療の不備が浮かんだ。現状と課題を追う。=つづく
2 引き離される母子、深刻
◇広域搬送、前橋から長野も
ようやく見つかった搬送先は、100キロ以上離れた長野市の病院だった。05年11月、切迫早産になった前橋市の会社員の女性(32)。まだ妊娠24週で、超未熟児で生まれてくる赤ちゃんを助けるには、NICU(新生児集中治療室)のある病院へ運ぶ必要があった。
かかりつけの産婦人科や群馬県立小児医療センターが、埼玉や栃木、東京の病院まで探したが、どこも「満床」。長野の病院が見つかるまで3日もかかった。「全国どこでもいいから」と医師に頼むしかなかった女性は、受け入れ先が決まった時、「助かった」と思った。だが、遠くの病院へ運ばれたことが、出産後に大きな負担となった。
女性は病院近くでアパートを借り、生まれた女児が退院するまで長野で暮らすことにした。「遠くに離れたら心配だし、1秒でも一緒にいたい」。母親なら誰でも思うことだが、前橋の自宅と家賃を二重に払う生活で、週末などに長野を訪れる夫の新幹線代などもかかる。150万円ほどあった貯金は、すっかりなくなった。
平日は知らない土地に自分一人で、そばに相談する相手もいない。体重812グラムで生まれた女児は人工呼吸器が必要で、生後2カ月には未熟児網膜症の手術。不安で一人涙した日もあった。
女児は昨年3月に退院し、順調に育つが、女性は「妊婦も家族も不安にならず、過重な負担もなく出産できるようになってほしい」と願う。
■ ■
妊婦をNICUのある病院へ運ぶ必要が生じた時、近くの病院が満床などのため、都府県境を越えて運ぶケースが増えているが、出産後の親子にかかる負担の大きさが問題化しつつある。
群馬県立小児医療センターの丸山憲一・新生児科部長らは、同県内から県外へ運ばれた9家族にアンケートした。搬送先までの距離は100~150キロが4家族で最も多く、150~200キロが2家族、200キロ以上の家族もいた。余分に必要になった経済的負担は、20万~50万円が3家族で、100万円以上かかった家族もいる。「家族の仕事に支障が出た」「母親が体調を崩した」など、6家族に何らかの支障が生じていた。
丸山部長は「金銭的、肉体的、精神的に負担が大きい。交通費の補助など、何らかの対応が必要だ」と指摘する。
遠くの病院への搬送には、母子の面会が困難になるという問題もある。亀田総合病院総合周産期母子医療センター(千葉県鴨川市)が、同病院のNICUに収容された新生児の面会頻度を調べたところ、遠隔地から母親が運ばれた場合、最初の1週間はほぼ毎日面会していたが、その後は週1回程度にとどまった。
新生児期に母親が会う機会が少なくなると、母性の形成を阻害し、児童虐待につながる危険性も指摘される。同センターは「新生児の状態が安定したら、できるだけ自宅近くの病院へ転院させることが必要だ」と指摘するが、同センターの患者で転院できるのは1~2割というのが実情だ。しかも、医師不足解消の見通しはなく、鈴木真・同センター長は、さらなる事態の悪化を懸念する。
「今は何とか受け入れる病院があるが、このままでは広域搬送でも受け入れる病院がなくなるか、受け入れてもきちんとした医療ができなくなる。そうなると、新生児の死亡率が上がる」=つづく
3 手探り続く「防止・補償」
◇「まず真相究明」の声も強く
「医師不足は確かに問題だが、医療事故の被害とは別だ。医療側はまず、事故の真相を究明してほしい」。今年4月、産科の医療事故の被害者らが大阪市内で開いたシンポジウムで、こんな声を上げた。
産科医不足の原因の一つとして訴訟の多さが指摘されているが、被害者側には「裁判を起こすのは、医療側があまりにも不誠実な場合だ」との思いがあるためだ。「病院側が真相を明らかにしていない」と思った時は事実上、訴訟以外に究明の場はなく、患者側には再発防止を求める声も強い。解決策はないのか。
■ ■
訴訟となるケースも少なくない、脳性まひの後遺症を抱えた新生児について、医師らに過失がなくても補償の対象とする「産科医療補償制度」の議論が進んでいる。制度を運用する財団法人日本医療機能評価機構(東京)に運営組織準備委員会を設置し、今年2月から検討が続く。
分娩(ぶんべん)の際に脳性まひになった患者と家族の経済的負担を軽くし、中立的な第三者組織が事故原因を分析して事故の再発も防ぐのが狙い。来年度からの導入を目指し、新生児1人当たり2000万~3000万円の補償が考えられている。
ただ、疑問の声もある。産科の事故で長女を亡くし、準備委の委員を務める京都府の高校教師、勝村久司さん(45)は「現段階では、補償制度がどのように運営されるか不透明な部分が多い。制度が始まれば訴訟が減るとの意見もあるが、訴訟は医療側の不誠実な対応から起きる。患者側は事故の真相を知りたい。カルテが改ざんされるケースすらある現状では、情報公開を徹底しなければ、訴訟は減らないのではないか」と指摘する。
■ ■
事故防止へ向けた取り組みも始まっている。
日本産婦人科医会は、母体や新生児に異常があった例などを集計して解析し、再発防止に役立てようとしている。
05年には病院や診療所から298件の報告があり、うち報告書があった168件を分析した。その結果、分娩に伴う新生児異常が33%で最も多く、分娩に伴う母体異常(18%)、産婦人科手術事故(16%)が続いた。石渡勇・常務理事は「多くは分娩周辺に集中している」と指摘し、会員に注意を促している。
国立循環器病センター(大阪府吹田市)の池田智明・周産期診療科部長が、開業産婦人科医で作る「東京オペグループ」(会員約240人)の協力で進める取り組みも注目されている。日米の専門家が考案した、分娩時の胎児心拍数のパターンから胎児の状態を判断する基準を活用。医師と助産師、看護師が、どのような役割を果たせば安全な出産を実現できるかを検証している。
国内の妊産婦死亡率は出産10万人に対し5・7人(05年)で、池田部長は「世界最高水準といわれる低さの新生児死亡率に比べ、改善の余地がある」と説明する。妊産婦死亡を巡っては、▽届け出・登録が実際より過少である可能性が高い▽死亡症例を評価し、防止策を立案、普及するシステムがない▽死亡症例が発生した場合の取り扱いが明確でない--の三つの問題点があるという。
池田部長は「いいものはいいし、悪いものは悪い。はっきりさせ、問題があれば直していく。その姿勢を示していけば、社会や国民から必ず受け入れられると思う」と話す。=つづく
4 始まった分娩集約化
◇病床数規制など課題山積
「うちの病院は村八分状態だよ」。社会保険相模野病院(神奈川県相模原市)の内野直樹院長は苦笑した。同病院では、分娩(ぶんべん)施設集約化の効果を検証する厚生労働省研究班のモデル事業が進む。産科医が不足し、分娩施設が減少する中、集約化は打開策として注目されているが、簡単には進まないためだ。
集約化は、複数の施設に分散したスタッフを集め、個々の負担を軽減しながら多数の分娩を扱える体制を目指す。同病院は、閉鎖された近隣病院の産科から医師を招き、産婦人科の常勤医を6人から10人へ増やした。年間分娩数も従来の約1000件から2500件にするため、新生児集中治療室(NICU)の増床なども計画した。
ところが、県は増床に否定的だ。病床数は医療法に基づく県の医療計画で、地域ごとに基準病床数が定められている。同市はこれを上回っており、県医療課は「医療法に特例規定はあるが、現実的には難しい」と説明する。
相模原市医師会からも反発を受けた。同会は昨年8月に文書で「現段階では時期尚早」と反対姿勢を示し、「近隣の医療機関との共存共栄に配慮を」などと求めた。中島克会長は「県や地元への事前の説明もなく、突然協力を求められた。絶対ダメというわけではないが、地域の医療関係者で検討したうえで実施してほしい」と話す。
同病院はスタッフ増員によって、06年1~6月には511件だった分娩数が、同7~12月には633件へ増加した。一方、医師の当直回数は月平均4・5回から2・5回に減った。集約化は一定の成果を上げており、内野院長は「分娩を扱う医療機関が減少し、市内で出産できない“分娩難民”が出る恐れがある。行政は、母親や新生児の死亡事故でも起きない限り、対策に腰を上げないのか」と憤る。
■ ■
病床数の規制にかからないよう、別の形で集約化を進める地域もある。
大阪府貝塚市の市立貝塚病院産婦人科は来年4月を目標に、隣接する泉佐野市の市立泉佐野病院産婦人科との間で、分娩は泉佐野、婦人科手術は貝塚に集約するという計画を進めている。貝塚では、妊婦健診や産科外来は受けられるものの、お産ができなくなるが、妊婦から不満や不安の声はないという。
両病院は車で10~15分の距離で、分娩数は双方とも年間750件前後。貝塚病院の井尻俊夫事務局長は「地域では『産科と言えば貝塚病院』と言われてきた。お産をしなくなるのは寂しい」と話すが、両病院に医師を5人ずつ派遣する大阪大病院産婦人科の木村正教授が昨年秋に「1カ所の分娩施設しか支援は難しい」と通告。地域の産科医療が成り立たなくなるという危機感が勝った。
阪大産婦人科は医師数が最盛期の半分に減り、木村教授は「今までのように二十数病院を人事面でサポートするのは無理で、全病院に伝えた。新人医師に産婦人科に来てもらうには、過酷な勤務を改め、医師にとって魅力ある病院にしてもらわないと」と説明する。
集約はするが、両病院で10人という体制は崩さない。各1人体制だった宿日直を、泉佐野病院のみの2人体制にし、より安全な診療体制を確保する。看護師の確保など課題は残るものの、大阪府医療対策課の大松正宏参事は「ハイリスク分娩の集約化は必要で、注目している」と話す。=つづく
5 増員予算、改善に不可欠
◇医師数抑制策、変えぬ国
奈良県五條市の高崎実香さん(当時32歳)が、19病院に受け入れを断られた末に死亡してから1年。先月には同県橿原市の女性(38)が9病院に断られ、搬送中に死産した。搬送先探しに苦労する例は各地で起きているが、何が原因なのか。
厚生労働省の研究班が全国の新生児医療施設を対象に行った調査では、「長期入院児の存在が、新生児集中治療室(NICU)の新規入院受け入れに影響している」と考える施設が70%に上った。症状安定後に受け入れる後方支援施設が不足し、NICUに長期入院せざるを得ない子どもが少なくないためだ。研究班の梶原真人・愛媛県立中央病院総合周産期母子医療センター長は「後方支援施設の充実が急務だ」と指摘する。
代表的な後方支援施設である重症心身障害児施設は04年10月現在、全国に182施設ある。しかし、「旭川荘」(岡山市)の末光茂理事長は「重心施設は重症児患者の診療報酬がNICUの約3分の1。受け入れれば受け入れるほど運営が厳しくなる。せめて2分の1までの引き上げを厚労省に要求しているが、実現しない」と訴える。医療スタッフ集めにも苦労が絶えないという。
■ ■
76年に日本初の五つ子が誕生した鹿児島市立病院。新生児センターは80床あり、うち36床がNICUで国内最多だ。同病院周産期医療センターの茨聡(いばらさとし)部長は「搬送受け入れを断ることはほとんどない」と話す。しかし、紆余(うよ)曲折もあった。
新生児センターは78年に40床でスタートした。81年には60床になったが、高齢出産や不妊治療などの影響で未熟児が増加し、慢性的なベッド不足に。スタッフは満足に休みも取れなくなった。
そんな中、地元の産婦人科開業医らが署名活動を展開。約12万人分の署名を添え、97年に市議会や県議会へ要望した結果、必要な予算が可決された。20床増床され、医師は5~6人から14~15人に、看護師も50~60人から120人に増えた。全国最低レベルだった早期新生児死亡率が、02年には出生1000人に対し0・6人という最高レベルになった。
茨部長は「周産期医療の充実は、新生児の命を救うだけでなく、将来を担う人材を育てることになる。行政は必要な予算を投じることを真剣に考えるべきだ」と話す。
■ ■
橿原市の女性が死産したケースで、救急隊からの2度の受け入れ要請に対応できなかった奈良県立医大病院産婦人科。同病院によると、産婦人科には当時、2人の医師が当直していたが、1回目の依頼は、陣痛で緊急入院した患者の診療中だった。緊急帝王切開手術を終えたばかりの患者の対応にも追われていた。その後、破水のため患者が緊急入院し、分娩(ぶんべん)後に大量出血した患者の搬送依頼も受けている時に、2回目の依頼が来た。2人は一睡もせず対応を続け、そのまま日中の通常業務に入ったという。
毎日新聞の全国調査で、各地の周産期母子医療センターが求める対策で最も多かったのは「医師増員」だった。日本の人口10万人当たりの医師数は経済協力開発機構(OECD)加盟国中最低レベル。しかし、国は医師数抑制策は変えず、現場の悲鳴に応える様子はない。=おわり
× ×
この連載は、鯨岡秀紀、玉木達也、根本毅、河内敏康、五味香織、苅田伸宏、田村彰子が担当しました。
==============
ご意見、ご感想をお寄せください。ファクス(03・3212・0635)、Eメール t.shakaibu@mbx.mainichi.co.jp、〒100-8051 毎日新聞社会部「医療クライシス」係。
毎日新聞 2007年9月11日 東京朝刊
◇医師確保厳しく、機能不全
人けのない分娩(ぶんべん)室の片隅に、へその緒を留めるクリップや薬剤が封を切られることなく置かれていた。国立病院機構舞鶴医療センター(京都府舞鶴市)は、緊急帝王切開手術など比較的高度な周産期医療(出産前後の母子への医療)に対応する「地域周産期母子医療センター」に認定されているが、昨年4月から産科を休診している。産科の常勤医がいなくなったためだ。
以前は50代の男性医師と、小さな子どものいる30代夫婦の医師の計3人が勤務していた。だが、リスクの高い患者の来院が多いうえ、3日に1回は当直で、勤務は過酷だった。
女性医師は、我が子を集中治療室に寝かせながら夜間の緊急手術にも対応していたが、一昨年夏に辞めた。夫の男性医師も一昨年暮れに退職。残った50代の男性医師も疲れ果て、昨年3月にセンターを去っていった。
同センターは、京都府北部の周産期医療の中核を担うはずの施設。常盤和明副院長は「はっきり言って異常事態。だが、医師は確保できず、再開の見通しは立っていない」と力なく語る。
■ ■
厚生労働省は96年に定めた周産期医療システム整備指針で、リスクの高い母体の搬送など高度な医療に対応する「総合周産期母子医療センター」を、各都道府県で1カ所以上設置するよう求めた。地域周産期母子医療センターも、全国を358地域に分けた「2次医療圏」ごとに1カ所以上設けるよう勧めている。
厚労省によると、総合センターは現在、41都道府県で67施設が指定され、地域センターも33都道府県で210施設(4月現在)が認定されている。しかし、舞鶴医療センターのように、名ばかりの施設も少なくない。
京都府が地域周産期母子医療センターに認定している綾部市立病院もその一つだ。同病院産婦人科の上野有生主任医長は「1年半ほど前に突然、うちの病院が認定されると新聞に出てびっくりした。全く寝耳に水だった」と振り返る。
認定されると、他病院からの母体搬送を受け、緊急手術などに対応しなければならない。当時、産婦人科の常勤医はわずか2人。小児科医も2人で、受け入れられる体制にはなかった。
上野医長は「この人数で母体搬送を受け入れなければならないのかと府に問い合わせたが、『これまで通りのことをしてくれたらいい』との返答だった。母体搬送は今も受け入れていないが……」と困惑気味に話した。
■ ■
舞鶴医療センターは現在、近くの産科から未熟児などの受け入れを要請されると、センターの小児科医が救急車で駆け付け、センターに運んで治療する。周辺地域に高度な新生児医療ができる施設がないためだが、搬送に危険を伴わないことが条件のため、運用は限られているのが実情だ。切迫早産など母体搬送が必要なリスクの高い患者の多くは、遠く京都市や兵庫県に搬送されている。
京都府健康・医療総括室の松村淳子総括室長は「舞鶴医療センターの機能を早く取り戻すことが緊急の課題と認識しているが、産婦人科医は簡単には見つからない。どこにいるのか、知っていたら教えてほしい」と頭を抱える。
× ×
奈良県橿原市の女性が救急搬送中に死産した問題で、改めて周産期医療の不備が浮かんだ。現状と課題を追う。=つづく
2 引き離される母子、深刻
◇広域搬送、前橋から長野も
ようやく見つかった搬送先は、100キロ以上離れた長野市の病院だった。05年11月、切迫早産になった前橋市の会社員の女性(32)。まだ妊娠24週で、超未熟児で生まれてくる赤ちゃんを助けるには、NICU(新生児集中治療室)のある病院へ運ぶ必要があった。
かかりつけの産婦人科や群馬県立小児医療センターが、埼玉や栃木、東京の病院まで探したが、どこも「満床」。長野の病院が見つかるまで3日もかかった。「全国どこでもいいから」と医師に頼むしかなかった女性は、受け入れ先が決まった時、「助かった」と思った。だが、遠くの病院へ運ばれたことが、出産後に大きな負担となった。
女性は病院近くでアパートを借り、生まれた女児が退院するまで長野で暮らすことにした。「遠くに離れたら心配だし、1秒でも一緒にいたい」。母親なら誰でも思うことだが、前橋の自宅と家賃を二重に払う生活で、週末などに長野を訪れる夫の新幹線代などもかかる。150万円ほどあった貯金は、すっかりなくなった。
平日は知らない土地に自分一人で、そばに相談する相手もいない。体重812グラムで生まれた女児は人工呼吸器が必要で、生後2カ月には未熟児網膜症の手術。不安で一人涙した日もあった。
女児は昨年3月に退院し、順調に育つが、女性は「妊婦も家族も不安にならず、過重な負担もなく出産できるようになってほしい」と願う。
■ ■
妊婦をNICUのある病院へ運ぶ必要が生じた時、近くの病院が満床などのため、都府県境を越えて運ぶケースが増えているが、出産後の親子にかかる負担の大きさが問題化しつつある。
群馬県立小児医療センターの丸山憲一・新生児科部長らは、同県内から県外へ運ばれた9家族にアンケートした。搬送先までの距離は100~150キロが4家族で最も多く、150~200キロが2家族、200キロ以上の家族もいた。余分に必要になった経済的負担は、20万~50万円が3家族で、100万円以上かかった家族もいる。「家族の仕事に支障が出た」「母親が体調を崩した」など、6家族に何らかの支障が生じていた。
丸山部長は「金銭的、肉体的、精神的に負担が大きい。交通費の補助など、何らかの対応が必要だ」と指摘する。
遠くの病院への搬送には、母子の面会が困難になるという問題もある。亀田総合病院総合周産期母子医療センター(千葉県鴨川市)が、同病院のNICUに収容された新生児の面会頻度を調べたところ、遠隔地から母親が運ばれた場合、最初の1週間はほぼ毎日面会していたが、その後は週1回程度にとどまった。
新生児期に母親が会う機会が少なくなると、母性の形成を阻害し、児童虐待につながる危険性も指摘される。同センターは「新生児の状態が安定したら、できるだけ自宅近くの病院へ転院させることが必要だ」と指摘するが、同センターの患者で転院できるのは1~2割というのが実情だ。しかも、医師不足解消の見通しはなく、鈴木真・同センター長は、さらなる事態の悪化を懸念する。
「今は何とか受け入れる病院があるが、このままでは広域搬送でも受け入れる病院がなくなるか、受け入れてもきちんとした医療ができなくなる。そうなると、新生児の死亡率が上がる」=つづく
3 手探り続く「防止・補償」
◇「まず真相究明」の声も強く
「医師不足は確かに問題だが、医療事故の被害とは別だ。医療側はまず、事故の真相を究明してほしい」。今年4月、産科の医療事故の被害者らが大阪市内で開いたシンポジウムで、こんな声を上げた。
産科医不足の原因の一つとして訴訟の多さが指摘されているが、被害者側には「裁判を起こすのは、医療側があまりにも不誠実な場合だ」との思いがあるためだ。「病院側が真相を明らかにしていない」と思った時は事実上、訴訟以外に究明の場はなく、患者側には再発防止を求める声も強い。解決策はないのか。
■ ■
訴訟となるケースも少なくない、脳性まひの後遺症を抱えた新生児について、医師らに過失がなくても補償の対象とする「産科医療補償制度」の議論が進んでいる。制度を運用する財団法人日本医療機能評価機構(東京)に運営組織準備委員会を設置し、今年2月から検討が続く。
分娩(ぶんべん)の際に脳性まひになった患者と家族の経済的負担を軽くし、中立的な第三者組織が事故原因を分析して事故の再発も防ぐのが狙い。来年度からの導入を目指し、新生児1人当たり2000万~3000万円の補償が考えられている。
ただ、疑問の声もある。産科の事故で長女を亡くし、準備委の委員を務める京都府の高校教師、勝村久司さん(45)は「現段階では、補償制度がどのように運営されるか不透明な部分が多い。制度が始まれば訴訟が減るとの意見もあるが、訴訟は医療側の不誠実な対応から起きる。患者側は事故の真相を知りたい。カルテが改ざんされるケースすらある現状では、情報公開を徹底しなければ、訴訟は減らないのではないか」と指摘する。
■ ■
事故防止へ向けた取り組みも始まっている。
日本産婦人科医会は、母体や新生児に異常があった例などを集計して解析し、再発防止に役立てようとしている。
05年には病院や診療所から298件の報告があり、うち報告書があった168件を分析した。その結果、分娩に伴う新生児異常が33%で最も多く、分娩に伴う母体異常(18%)、産婦人科手術事故(16%)が続いた。石渡勇・常務理事は「多くは分娩周辺に集中している」と指摘し、会員に注意を促している。
国立循環器病センター(大阪府吹田市)の池田智明・周産期診療科部長が、開業産婦人科医で作る「東京オペグループ」(会員約240人)の協力で進める取り組みも注目されている。日米の専門家が考案した、分娩時の胎児心拍数のパターンから胎児の状態を判断する基準を活用。医師と助産師、看護師が、どのような役割を果たせば安全な出産を実現できるかを検証している。
国内の妊産婦死亡率は出産10万人に対し5・7人(05年)で、池田部長は「世界最高水準といわれる低さの新生児死亡率に比べ、改善の余地がある」と説明する。妊産婦死亡を巡っては、▽届け出・登録が実際より過少である可能性が高い▽死亡症例を評価し、防止策を立案、普及するシステムがない▽死亡症例が発生した場合の取り扱いが明確でない--の三つの問題点があるという。
池田部長は「いいものはいいし、悪いものは悪い。はっきりさせ、問題があれば直していく。その姿勢を示していけば、社会や国民から必ず受け入れられると思う」と話す。=つづく
4 始まった分娩集約化
◇病床数規制など課題山積
「うちの病院は村八分状態だよ」。社会保険相模野病院(神奈川県相模原市)の内野直樹院長は苦笑した。同病院では、分娩(ぶんべん)施設集約化の効果を検証する厚生労働省研究班のモデル事業が進む。産科医が不足し、分娩施設が減少する中、集約化は打開策として注目されているが、簡単には進まないためだ。
集約化は、複数の施設に分散したスタッフを集め、個々の負担を軽減しながら多数の分娩を扱える体制を目指す。同病院は、閉鎖された近隣病院の産科から医師を招き、産婦人科の常勤医を6人から10人へ増やした。年間分娩数も従来の約1000件から2500件にするため、新生児集中治療室(NICU)の増床なども計画した。
ところが、県は増床に否定的だ。病床数は医療法に基づく県の医療計画で、地域ごとに基準病床数が定められている。同市はこれを上回っており、県医療課は「医療法に特例規定はあるが、現実的には難しい」と説明する。
相模原市医師会からも反発を受けた。同会は昨年8月に文書で「現段階では時期尚早」と反対姿勢を示し、「近隣の医療機関との共存共栄に配慮を」などと求めた。中島克会長は「県や地元への事前の説明もなく、突然協力を求められた。絶対ダメというわけではないが、地域の医療関係者で検討したうえで実施してほしい」と話す。
同病院はスタッフ増員によって、06年1~6月には511件だった分娩数が、同7~12月には633件へ増加した。一方、医師の当直回数は月平均4・5回から2・5回に減った。集約化は一定の成果を上げており、内野院長は「分娩を扱う医療機関が減少し、市内で出産できない“分娩難民”が出る恐れがある。行政は、母親や新生児の死亡事故でも起きない限り、対策に腰を上げないのか」と憤る。
■ ■
病床数の規制にかからないよう、別の形で集約化を進める地域もある。
大阪府貝塚市の市立貝塚病院産婦人科は来年4月を目標に、隣接する泉佐野市の市立泉佐野病院産婦人科との間で、分娩は泉佐野、婦人科手術は貝塚に集約するという計画を進めている。貝塚では、妊婦健診や産科外来は受けられるものの、お産ができなくなるが、妊婦から不満や不安の声はないという。
両病院は車で10~15分の距離で、分娩数は双方とも年間750件前後。貝塚病院の井尻俊夫事務局長は「地域では『産科と言えば貝塚病院』と言われてきた。お産をしなくなるのは寂しい」と話すが、両病院に医師を5人ずつ派遣する大阪大病院産婦人科の木村正教授が昨年秋に「1カ所の分娩施設しか支援は難しい」と通告。地域の産科医療が成り立たなくなるという危機感が勝った。
阪大産婦人科は医師数が最盛期の半分に減り、木村教授は「今までのように二十数病院を人事面でサポートするのは無理で、全病院に伝えた。新人医師に産婦人科に来てもらうには、過酷な勤務を改め、医師にとって魅力ある病院にしてもらわないと」と説明する。
集約はするが、両病院で10人という体制は崩さない。各1人体制だった宿日直を、泉佐野病院のみの2人体制にし、より安全な診療体制を確保する。看護師の確保など課題は残るものの、大阪府医療対策課の大松正宏参事は「ハイリスク分娩の集約化は必要で、注目している」と話す。=つづく
5 増員予算、改善に不可欠
◇医師数抑制策、変えぬ国
奈良県五條市の高崎実香さん(当時32歳)が、19病院に受け入れを断られた末に死亡してから1年。先月には同県橿原市の女性(38)が9病院に断られ、搬送中に死産した。搬送先探しに苦労する例は各地で起きているが、何が原因なのか。
厚生労働省の研究班が全国の新生児医療施設を対象に行った調査では、「長期入院児の存在が、新生児集中治療室(NICU)の新規入院受け入れに影響している」と考える施設が70%に上った。症状安定後に受け入れる後方支援施設が不足し、NICUに長期入院せざるを得ない子どもが少なくないためだ。研究班の梶原真人・愛媛県立中央病院総合周産期母子医療センター長は「後方支援施設の充実が急務だ」と指摘する。
代表的な後方支援施設である重症心身障害児施設は04年10月現在、全国に182施設ある。しかし、「旭川荘」(岡山市)の末光茂理事長は「重心施設は重症児患者の診療報酬がNICUの約3分の1。受け入れれば受け入れるほど運営が厳しくなる。せめて2分の1までの引き上げを厚労省に要求しているが、実現しない」と訴える。医療スタッフ集めにも苦労が絶えないという。
■ ■
76年に日本初の五つ子が誕生した鹿児島市立病院。新生児センターは80床あり、うち36床がNICUで国内最多だ。同病院周産期医療センターの茨聡(いばらさとし)部長は「搬送受け入れを断ることはほとんどない」と話す。しかし、紆余(うよ)曲折もあった。
新生児センターは78年に40床でスタートした。81年には60床になったが、高齢出産や不妊治療などの影響で未熟児が増加し、慢性的なベッド不足に。スタッフは満足に休みも取れなくなった。
そんな中、地元の産婦人科開業医らが署名活動を展開。約12万人分の署名を添え、97年に市議会や県議会へ要望した結果、必要な予算が可決された。20床増床され、医師は5~6人から14~15人に、看護師も50~60人から120人に増えた。全国最低レベルだった早期新生児死亡率が、02年には出生1000人に対し0・6人という最高レベルになった。
茨部長は「周産期医療の充実は、新生児の命を救うだけでなく、将来を担う人材を育てることになる。行政は必要な予算を投じることを真剣に考えるべきだ」と話す。
■ ■
橿原市の女性が死産したケースで、救急隊からの2度の受け入れ要請に対応できなかった奈良県立医大病院産婦人科。同病院によると、産婦人科には当時、2人の医師が当直していたが、1回目の依頼は、陣痛で緊急入院した患者の診療中だった。緊急帝王切開手術を終えたばかりの患者の対応にも追われていた。その後、破水のため患者が緊急入院し、分娩(ぶんべん)後に大量出血した患者の搬送依頼も受けている時に、2回目の依頼が来た。2人は一睡もせず対応を続け、そのまま日中の通常業務に入ったという。
毎日新聞の全国調査で、各地の周産期母子医療センターが求める対策で最も多かったのは「医師増員」だった。日本の人口10万人当たりの医師数は経済協力開発機構(OECD)加盟国中最低レベル。しかし、国は医師数抑制策は変えず、現場の悲鳴に応える様子はない。=おわり
× ×
この連載は、鯨岡秀紀、玉木達也、根本毅、河内敏康、五味香織、苅田伸宏、田村彰子が担当しました。
==============
ご意見、ご感想をお寄せください。ファクス(03・3212・0635)、Eメール t.shakaibu@mbx.mainichi.co.jp、〒100-8051 毎日新聞社会部「医療クライシス」係。
毎日新聞 2007年9月11日 東京朝刊