平和をたずねて:平和学者・岡本三夫さん/1 73歳、まだ終われぬ=広岩近広
原爆ドームにほど近いビルの3階に「岡本非暴力平和研究所」はある。小空間ながら、平和に非暴力を加えたところが所長で広島修道大学名誉教授の岡本三夫さん(73)らしい。広島市中区大手町に今年2月にオープンした。戦争やテロの直接的暴力だけでなく、飢えや貧困といった構造的暴力の根絶を目指す岡本平和学の集大成と言っていいだろう。
岡本さんは栃木県の小さな町に生まれ、首都圏に15年、米英独に10年住んだ。香川県の四国学院大に日本で初めて平和学講座を開設して30年教える。平和学の泰斗。請われて広島修道大に移り、定年退職を迎える。そして今、広島をついの住居に決め、民間の研究所を設立した。
「被爆者をはじめとするヒロシマ・ピープルとの出会いと、この地での思索が私の思想形成に及ぼした影響は計りしれないです」。そう言って、岡本さんは明言した。「平和活動に定年はありません」
立春をすぎた日、研究所の開所記念祝賀パーティーが広島市内で開かれた。集った80人の顔ぶれから「ヒロシマの思想」が見て取れ、核兵器廃絶と恒久平和を絶え間なく訴えている人びとであった。
平和と暴力。この見立てこそが岡本平和学であり、それはノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥング氏の論文に触発されたものだ。「平和とは暴力の不在または低減である」と定義づけた論文は、「戦争と平和」のくくりではなく「暴力と平和」の概念を打ち出す。構造的暴力の不在を積極的平和、戦争の不在を消極的平和として、これらが平和学の基本的要素になると論じた。岡本さんは力説する。「人権侵害や環境破壊は構造的暴力です。そうした観点に立てば平和学は学際的で、決してイデオロギー的ではありません」
あえて、民間の平和研究所を開いた、岡本さんの胸奥深くに宿るものは何だろうか。パーティー会場にいた元広島平和記念資料館長の高橋昭博さんに聞いてみると、こんな答えが返ってきた。「岡本さんが歩いてきた道の帰結でしょうね。まだ終われないんだと」。平和学は実践学だろうか。私はそんな思いに至った。
広島大学名誉教授の北西允さんがマイクを握った。「厚労相の産む機械発言が問題になりましたが、こうした差別は構造的暴力のひとつです。戦争を中断させる平和だけでなく構造的暴力を大きなテーマとしてとりあげていってほしい」
岡本所長への期待の声は続いた。自他共に認めるように、平和学者に定年はないようだ。トレードマークのベレー帽がしっかりと頭に載っている。それは平和の象徴であった。(次回は16日に掲載)
■人物略歴
◇おかもと・みつお
1933年生まれ、ハイデルベク大博士課程修了。四国学院大教授を経て広島修道大名誉教授。89年から2年間、日本平和学会長を務める。
毎日新聞 2007年5月9日 大阪朝刊
平和をたずねて:平和学者・岡本三夫さん/2 無念の死への涙=広岩近広
原爆ドームは春がすみに煙っていた。その下を風に押されて平和記念公園へと向かう。広島修道大学名誉教授の岡本三夫さんがかつて歩いた道をたどりながら、私は死者たちのうめき声を聞いたような錯覚におちた。原爆に殺された無縁仏は多いし、いまだに供養されず足元に眠る犠牲者がいる。
岡本さんは初めて公園に足を踏み入れたとき、聖地に立っている--と感極まったそうだ。1968年5月22日の早朝、岡本さんは新妻の珠代さんと連れだっていた。ドイツから帰国し、四国学院大に専任講師として赴任する途中に新婚旅行を兼ねて広島に立ち寄ったのだ。
穏やかな朝だった。平和な光にあふれていた。岡本さんは幸せのなかにいるがゆえに、異形の死を遂げた人たちの無念におのずと思いをはせた。その一方、過酷な少年時代が怒濤(どとう)のようによみがえった。嗚咽(おえつ)をこらえきれずに芝生に座り込んだ。すぐに大粒の涙がこぼれ、それは以心伝心で珠代さんに通じたのか、ついには夫婦で号泣するのだった。
終戦を迎えたとき、岡本さんは国民学校の6年生だった。栃木県那須郡烏山町の食糧事情は最悪で、戦中から戦後にかけて一家は飢えと紙一重の生活を余儀なくされた。やがて家族の死につながる。満州で結核にかかって除隊した長兄は自宅療養中の45年3月に25歳の若さで死去した。医者にまともにかかれず、医薬品もなく、栄養をとることもできなかった。戦争が終わったというのに、長兄の看病で結核に感染した母親は翌年に45歳で亡くなる。このとき妹は9歳、弟は4歳だった。悲劇は続き、父親も同じ病でほどなくして後を追う。
従軍看護婦として中国に派遣されていた21歳の長姉が復員したことで、かろうじて子どもたちは生きながらえた。しかし空腹と栄養失調で体中におできが生じ、ノミやシラミに悩まされる。納豆売りや新聞配達をしてぎりぎりの生活を維持するも、家族の離散は避けられなかった。弟は養護施設に入り、妹は自ら命を絶った。
岡本さんは給費生の神学校から牧師を目指して米国行きの決意をかためる。60年6月、日米安保闘争をよそに横須賀港から移民船に乗った。
「もう二度と日本に帰らないつもりでした」。そして岡本さんは、しぼり出すように言った。「船上から、ばかやろう、と大声で叫びましたよ」
捨てたはずの日本に、岡本さんを帰国させたのはペンフレンドの珠代さんにほかならない。夫婦して泣いた、あの広島の涙こそが平和学者・岡本三夫のスタートであった。(次回は23日に掲載)
毎日新聞 2007年5月16日 大阪朝刊
平和をたずねて:平和学者・岡本三夫さん/3 留学生たちの希求=広岩近広
世界78カ国・地域の留学生を受け入れている立命館アジア太平洋大学は大分県別府市の高台にある。平和学者の岡本三夫さんはトレードマークのベレー帽をかぶり、デイパックを背負ってひょうひょうと姿を見せた。今年1月中旬のことで、平和学の集中講義にやって来たのだ。
平和学は四国学院大文学部を皮切りに、全国の約50大学で開講されている。それでも岡本さんは不満だ。「広島、長崎の被爆体験と無防備平和主義の憲法9条を持つ日本の大学にこそ平和学部が欲しい。大それた未来につなげたいではありませんか」
私は平和を主語にして考えた。平和はいかに学ばれるのか、いや学ばれるべきなのか。岡本さんのいる教室を訪ね、授業を傍聴させてもらった。
人種も国籍も異なる約50人の生徒が岡本さんと向き合っていた。なんと、この日の講義は靖国問題だった。靖国神社の歴史から現在の状況を解説し、生徒の質疑に応じる。こうして熱い時間が流れた。
「実は学生からリクエストがあって、靖国をとりあげたのです」。岡本さんはそう打ち明けた。私は改めて尋ね直した。「そもそも平和学とは?」
岡本さんは人さし指を立てた。「現代の平和学は原爆が投下されたのを契機に、米ソの核戦争はどうしたら回避できるかという関心から生まれました。今や平和学のテーマは多彩で、戦争の歴史からテロ事件さらには環境破壊や人権侵害も入る。つまり日常生活に積極的な平和を求めることが大事です」
岡本さんは講義の最後に宿題を出した。あなたは身の回りで、どのような平和活動ができますか--このリポートを出すように伝えて、自身のメールアドレスを板書するのだった。講義はすべて英語で、「ピースアクション」の言葉が頭と胸に響いた。私は課題を与えられたと思った。
授業を終えた留学生の一人に、なぜ平和学を選択したのか問うた。スリランカ人のプレビーナさん(22)は即答した。「日本はどうして平和を維持できているのか学びたいからです」。この答えは、私には新鮮で、少なからず衝撃だった。概して内紛をかかえたり政情が不安定な国からの留学生にみられる発露だという。岡本さんはつけ加えた。「憲法9条を学びたいという留学生も多いです。途上国の留学生が日本に求めるのは技術だけではなく、日本の平和もまた魅力なのです」
その夜、別府市内のすし屋のカウンターで岡本さんと肩を並べた。「平和学は深奥ですね」。私は率直に言った。岡本さんは静かに笑っていた。(次回は30日に掲載)
毎日新聞 2007年5月23日 大阪朝刊
平和をたずねて:平和学者・岡本三夫さん/4止 NYとのかたい絆=広岩近広
ニューヨークは祈りの街と化していた。春の風が涙にむせび、数々の千羽鶴が教会を彩った。2002年の春のことで、岡本三夫さんは行動する平和学者らしく、8人の被爆者を含む19人で「ヒロシマ・ナガサキ反核平和使節団」を編成してやって来た。
訪米の最大の目的は、前年9月11日に起きた同時爆破テロで犠牲になった遺族の集い「平和な明日を求める九・一一遺族の会」との交流だった。互いに協力しあって、事件現場の世界貿易センタービルの跡地近くで追悼集会を執り行う。団長を務めた岡本さんは「見えない絆(きずな)でかたく結ばれました」と振り返る。爆破テロの後、行方不明の肉親を必死で捜し求めた遺族の心情が、キノコ雲の下で同じ行動に駆られた被爆者と重なり共鳴しあったからだという。
岡本さんはしみじみと語る。「罪のない市民が無差別に殺されてしまう怒り、突然に愛するものを失った悲しみ、この心情に国境や民族の壁はありません。東京大空襲でも南京大虐殺でもアウシュビッツ収容所でも同じです。九・一一遺族会の方々の生々しい証言は平常心では聞けませんでした」
だが、感動がすべての訪米ではなかった。ワシントンで「ヒロシマ・ナガサキ反核平和使節団」と大書した横断幕を掲げてデモ行進した際には、「リメンバーパールハーバー!」の怒声を浴びた。岡本さんは強く言う。「リメンバーの喚声には報復を鼓舞する響きがあり、ノーモアとは対照的だと思います。ノーモアは暴力を否定した平和的手段による、平和への誓いなのです」
その意味では、「九・一一遺族会」の姿勢に私は胸をうたれた。悲しみの消えない心をいだいてアフガニスタンを訪れ、米軍の空爆で肉親を失った遺族を慰問している。自国の米政府に対しては、遺族を利用して空爆しないでほしい、と訴えもした。
岡本さんは強調するのだった。「遺族会と訪米した日本のグループが主張しているのは、暴力によらない人間関係、民族関係、国家関係なのです」。まさに岡本平和学の真骨頂だろう。
ひるがえって07年春の広島。「岡本非暴力平和研究所」は発足して3カ月になろうとしていた。私は「NYの絆」を念頭に、岡本さんと国際平和交流の大切さを話し合った。最後に岡本さんは「実はね!」と、弾んだ声で言った。「ドイツの20代の青年を受け入れることにしました。老人ホームや福祉施設で働きながら、この研究所でヒロシマと平和の勉強をしてもらいます」
平和の芽は、ぽつぽつとであっても、国際的規模で広めていくことが肝心なのだ。ひいては地球環境の平和につながるからである。(この項おわり)
毎日新聞 2007年5月30日 大阪朝刊