邪馬台国の最有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で見つかった、女王卑弥呼(ひみこ)が活躍した3世紀前半の大型建物跡は、邪馬台国について記した魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に出てくる「宮室」(宮殿)との可能性が指摘される。この中枢建物跡は大和説をどのように強めるのか。東西方向の同一直線上で南北対称になる前例のない建物群が論争に与える影響と邪馬台国と確定させるためのハードルを探った。【大森顕浩】

 


■中枢に計画性、裏付け

 纒向遺跡は「庄内式」と呼ばれる土器が使い始められた時期に、奈良盆地東南部の三輪山のふもとに突如として現れた。その年代は、卑弥呼が女王になったとみられる西暦190年ごろに近い。

 周辺では、後に全国で造られるようになった前方後円墳が早くから築かれた。大型建物跡の南約800メートルにある箸墓(はしはか)古墳は、全長約280メートルの巨大前方後円墳で、それ以前の墳丘墓や古墳とは隔絶した規模があり、時代を画した権力者の墓であることは間違いない。

 その後、奈良盆地東南部には、大和王権の初期の王陵とみられる巨大古墳が次々と築かれる。纒向遺跡を大和王権発祥の地とすることに異論はない。問題はそれが邪馬台国と結びつくかどうかだ。

 箸墓古墳の築造年代は、かつては4世紀以降とされたが、最近は卑弥呼の没年(248年ごろ)に近い3世紀後半とみられている。卑弥呼の墓とする説も有力になった。

 一方、卑弥呼の都とするのに欠けていたのが建物跡の存在だった。出土する土器の15~30%を他地域から運び込まれた土器が占め、広範囲から人が集まった「日本最初の都市」と言われながら、裏付けとなる計画的な中枢建物跡が見つかっていなかった。今回の発見は、その弱点をクリアしたといえそうだ。

 


■宮室復元カギに

 大型建物は推定で東西150メートル、南北100メートルの区画を整地して建てられた。壊されたのは土器型式の「庄内3式」期(240~270年ごろ)。卑弥呼の死去(248年ごろ)とともに解体されたとも考えられるが、次の土器型式の「布留(ふる)0式」期(270~290年ごろ)とされる箸墓古墳の築造開始時期とは微妙な時間差がある。

 魏志倭人伝によると、邪馬台国では、卑弥呼の死後、男王が立ったが、国中が服さず、卑弥呼一族の13歳の少女、台与(とよ)を新たな女王として国内が治まったという。纒向遺跡が邪馬台国なら、男王や台与が使った中心建物もあるはずだ。これまでの発掘調査で明らかになったのは遺跡全体の5%程度に過ぎない。範囲を広げた調査で、魏志倭人伝にある卑弥呼の宮室の全体像を復元できるかどうかが、邪馬台国イコール纒向説の鍵となる。

 纒向遺跡の建物群は中軸線が一直線となる点で後の飛鳥時代の宮殿と共通するが、中軸線の方向が南北ではなく東西になっている。また、大型建物は東が正面とみられ、南向きが一般的な飛鳥時代以降の宮殿とは異なる。正面の柱間が偶数で、中央に柱が立つ点も特異だ。建物の主が卑弥呼だったとした場合、後の大和王権とは違う思想を持っていた可能性もあり、新たな謎となりそうだ。

 ◇弥生と飛鳥、結ぶ技術--方位・中軸そろう
 魏志倭人伝は卑弥呼の館「宮室」について「楼観・城柵(じょうさく)を厳かに設け、常に人有り、兵(武器)を持して守衛す」と記す。1986~89年に発掘された吉野ケ里遺跡(佐賀県)は、卑弥呼の時代に近い2~3世紀(弥生後期)の濠(ほり)に付設された物見やぐらが楼観、土塁が城柵に当たるとして「邪馬台国が見える」のキャッチフレーズを生んだ。

 一方、95年に池上曽根遺跡(大阪府)で見つかった大型建物跡は、中国の歴史書「漢書」地理志に日本が「百余国」に分かれていたと記された紀元前1世紀ごろ(弥生中期)の祭殿とみられている。方位を北に合わせており、後の宮殿建築のルーツとも言われる。

 纒向の建物群は、方位がそろっているだけでなく、各建物の中軸線が一直線でつながる点で、それまでと異なる。新しい宗教思想で統治した卑弥呼の館にふさわしく、いったん九州説に振れた振り子を大きく大和説に揺り戻す成果といえる。

 建物を復元した黒田龍二・神戸大准教授(建築史)は、この大型建物が池上曽根の建物より大きいのに、柱の直径が半分以下なのは、建築技術が進歩したためとして、弥生の祭殿と飛鳥時代の宮殿とをつなぐミッシング・リンク(欠けた環(わ))とみる。

 

 

 ■ことば
 ■纒向遺跡

 奈良県桜井市の三輪山西側に広がる3~4世紀の大規模集落遺跡。東西約2キロ、南北約1・5キロに、最古級の前方後円墳とされる纒向石塚古墳や、卑弥呼の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳がある。各地の土器が持ち込まれ、邪馬台国の最有力候補地とされる。71年から発掘調査が始まり、今回で166回目だが、小規模な発掘が多く、全体像は分かっていない。

 

 
毎日新聞 2009年11月11日 大阪朝刊