「年越し派遣村」の教訓 /東京

 年末年始の最大の話題は、なんといっても「年越し派遣村」。

 短期間の告知で、500人を超える入村者が集まった、というのだから、仕事も住居もない人たちの問題がいかに深刻なのかがわかる。

 大晦日(おおみそか)、帰省の空港ロビーでぼんやりテレビニュースを見ていたら、隣に座っていた男性たちが話していた。「派遣切りで職がない? 死ぬ気になって探せば何かあるんじゃないの?」「自力でなんとかしよう、というファイトや根性はないのかね」

 彼らもまた、厳しい労働環境で必死に仕事をしている人たちなのだろう。

 しかし、この人たちにわかってもらいたいことが、ひとつだけある。それは、突然の「派遣切り」にあい、住まいまで失ってしまった人の多くは、自尊心がズタズタに傷つき、「ファイトや根性」で奮い立つエネルギーも失ってしまっている、ということだ。

 派遣村に集まった人たちのインタビューを聞いていると、もしかするとすでにうつ病の状態になっているのでは、と思われる人も何人かいた。

 こうなってしまうと、たとえ目の前で働き口の情報を見せても、「やります」と手をあげることさえできないだろう。

 派遣村は、「私なんて生きていても価値がない」というところまで自己肯定感を失った労働者に「こうなっているのはあなたのせいではない」「困難に直面しているのはあなただけではない」と伝え、彼らに傷ついた心の羽をとりあえず休める居場所を提供する、という大きな役割を果たしたのだ。

 「私にもまだできることがあるんだ」と最低限の自信を回復して、はじめて空港の人たちが言っていた「ファイトや根性」を持つこともできるようになるのだ。

 しかし問題は、派遣村にまでたどり着くこともできない人たちだ。「行きたいけれど行く元気もない」「行ってもどうにもならない」と出かけるのをやめてしまった人たちは、どうやって傷ついた自尊心を回復させ、適切な医療を受けられるようにすればよいのか。それぞれの地域で、「とりあえずここに来てみて」と呼びかける取り組みが行われることを期待したい。

 まず、最低限の生活と医療、そして人とのつながりが保証されなければ、立ち上がろうという気力、職探しの気力も失われてしまう。

 年越し派遣村が教えてくれたその教訓を、今年一年、私たちはどう生かしていくことができるだろう。



〔都内版〕

毎日新聞 2009年1月14日 地方版





「新型うつ」への取り組み /東京

 マスコミで話題の「新型うつ」。

 症状が場面や状況によって変動し、仕事となると落ち込みやめまい、動悸(どうき)が激しくなるが、プライベートではけっこう元気。こんなちょっと変則的なうつ病が増えているのだ。病気休職中にリハビリを名目に旅行やレジャーに出かけるケースもあり、会社としてはどう対処してよいのか、と私もしばしば管理職の人から相談されることがある。

 本人としても、決して意図的にそうしているわけではなく、「早く復職しなければいけない」という気持ちは当然ある。

 しかし、もともと完璧(かんぺき)主義の人や他人の評価を気にする人がこうなる場合が多い。このため、「復帰するなら完全に元気になってから」とハードルを上げすぎるのだ。「最初は補助的な仕事からでいいんですよ」と言っても、「それでは自分が許せない」と言う。同僚や部下たちにそんな姿を見せるのもいやなのだろう。

 また、これは良い傾向なのだが、「心の病は誰でもなるもの」とうつ病に対する理解が急速に広まりつつある。今や「うつ病」という診断書を会社に提出するのは、特殊なことではなくなった。その結果、「新型うつ」の人たちは、「うつ病が完全によくなり、休む以前の自分になってから戻りたい」と休職期間が長引きがちになってしまうのだ。

 もちろん、うつ病なのだから、基本は休養と服薬。まずは症状を改善させ、気持ちを安定させることが大切だ。とはいえ、ある程度、回復が進んだら、まずは社会生活に戻ることを視野に入れたリハビリをするべきだろう。会社で事務的な仕事をしている人が、「リハビリなんです」といきなりサーフィンをしに海外に長期で出かけるのは、本人のためにも会社でその人の分までがんばる同僚のためにもプラスにはならない。

 かつて、私はそんな患者さんに言ったことがある。「オーストラリアでサーフィン。それは楽しそう。でも、それはあなたの場合、刺激が強すぎて復職のリハビリにはならないかも。あなたの分、がんばっている同僚もどう思うでしょう。まずは復職して、それから休暇を取って行ったほうがずっと楽しめると思いますが」

 その人は、がっかりした顔をして「先生もわかってくれないんですね」と言い、その後、病院を代えてしまった。「新型うつ」の人を傷つけずに励まし、仕事や家庭にソフトランディングしてもらうにはどうすればよいのか。今年はこの問題に本腰を入れて取り組みたいと思っている。

 

毎日新聞 2009年1月20日 地方版





オバマ氏のメッセージ /東京


 世界が熱狂する中、アメリカ大統領に就任したオバマ氏。ふだんはエリートとはいえ気取ったところもなく、どこにでもいる“ナイスな40代”に見える。それが大聴衆を前にすると表情も引き締まり、あれだけ力強い演説をするのだからすごい。もちろん、オバマ氏にもいろいろな挫折はあっただろう。父親の事故死、母親の再婚とハワイへの移住、人種の壁を感じたことも、あったはずだ。

 かつて、クリントン元大統領は、自伝の中で幼小児期の家庭問題を告白して「私はアダルトチルドレン」と述べたが、アメリカの大統領になるほどの人だから、まったく挫折を知らず、傷ついたこともないのだろう、と考えるのは間違い。

 大切なのは、落ち込んだり傷ついたりしても、そこから自分を立て直す回復力だ。診察室で自分が直面した困難を語り、「ヘコみましたよ」とうなだれる人を見るたびに、「それはつらかったでしょう」と共感を示しながらも、心の中で「でも、生きている限り、苦しさや悲しさから逃れることはできないし」とも思う。

 「やった! うれしい」と思う回数と「ああ、つらい」と思う回数を数えることができたら、人生全体では後者のほうが多いのではないだろうか。だとしたら、挫折や失敗をなるべく避けることに莫大(ばくだい)な時間と労力を使って暮らすより、「それは生きていれば当然のこと」、と受け入れるほうがずっとラクな気がする。そして、落ち込んだらなるべく早くそこから浮上できるように、自分を励ませばよいのだ。

 おそらくオバマ氏は、傷ついたり落ち込んだりしない人ではなく、そうなってもその後、また気持ちを上向きにするのが、上手な人なのではないだろうか。就任演説の冒頭近く、新大統領はアメリカの危機に触れ、「私たちみんなの失敗」という言い方をした。「失敗しました」とはっきり言えるのは、失敗とそこからの再生を経験した人だけだと思う。

 人の気持ちも国家も、挫折や落ち込みを経てもまた再生できる。そういう自信があるからこそ、潔く自分たちの非を認めることができるのである。大切なのは失敗しないことではなく、失敗を認め、その後どうやって立ち直るかということ。

 私がオバマ氏の就任演説から受け取ったのは、こういうメッセージだった。


毎日新聞 2009年1月27日 地方版




人間って最高 /東京


 「人間って最高、どんどん人間が好きになっていくんや!」

 こんな言葉を学生たちから聞いて、ドキッとした。ゼミを担当している関西の大学での話。

 彼女たちは「フリーハグ」といわれる活動を実践して、そこでの体験から得たことを中心に卒業論文を仕上げた。フリーハグは、路上などに立って通りかかった人たちと文字通り“ハグ(抱擁)する”こと。何十人、何百人という人たちと握手するかのように抱き合い、名前をサインしてもらう、というこの行為は、数年前から大阪の若者を中心に広まりつつあるのだという。

 「目的は何なの?」と学生たちにきくと、「愛とか平和とか……うーん、わからん!」ということだったが、とにかく老若男女、国籍などにいっさい関係なく、近づいてきた相手とハグし合う。記録したビデオも見せてもらったが、ハグの日本語である「抱擁」がイメージさせる湿った感じはまったくなく、とにかく明るく楽しそう。相手が異性でもおかしな目的で抱きついてくる人は、まったくいないのです、と彼女たちは胸を張った。

 そして、一瞬のぬくもり、かわし合う笑顔、サイン帳の書き込みがどんどん増えるうちに、冒頭に記したように「人間もどんどん好きになる」のだそうだ。ビデオをいっしょに見たほかの学生たちも、「マジ、分かるわあ」「オレもやってみようかな」などと興奮気味。「危ないんじゃないの」「見知らぬ人と抱き合うだなんて」と否定的なことを言う学生は、ひとりもいなかった。卒論を終えても、彼女たちはフリーハグの活動を当分、続けていくそうだ。

 しかし、ハグしているときはハッピーでも、学生たちには何の悩みもない、というわけではない。就職のこと、恋愛のこと、家族の問題。卒業後の進路が決まらないうちに卒業を迎えそうな人もいる。ハグしてサインしてくれた人とのかかわりも刹那(せつな)的で、そこから人間関係がどんどん広がる可能性は少なそうだ。

 それでも「人が好き」という感覚は、この学生たちの未来を明るく照らしてくれそうな気はする。政治不信、官僚不信、企業も近所の人も信用できない。新聞を開けば、犯罪に解雇、環境破壊などの記事があふれ、私たちは知らないうちにどんどん人間を嫌いになっているのかもしれない。

 まさか診察室でフリーハグ、というわけにもいかないが、患者さんたちにももう一度、この感覚を取り戻してもらいたい。

 ねえ、人間って最高でしょう?



〔都内版〕

毎日新聞 2009年2月3日 地方版






不況で心にも冷たい風 /東京

 久しぶりに北海道の実家に帰省したら、テレビのニュースが明治5年から続く大手百貨店が民事再生法の適用を申請した、と繰り返し報じていた。消費低迷による業績悪化を受け、負債総額は約470億円だそうだ。

 当面、店舗の営業は継続しながら再建の道を探ると発表されたが、経済にはうとい実家の家族も、「クレジット機能つきカードが使えないらしい」「予約していた商品はどうなるんだろう」と動揺しているようだった。「店はそこだけじゃないんだから」と言っても、なかなか聞き入れない。北海道のシンボル的な存在のデパートだっただけに、そこに住む人たちは実際の不便以上の心理的ダメージを感じているのだろう。

 北海道は、平成9年にもやはり銀行のシンボルであった北海道拓殖銀行の破綻(はたん)を経験している。まさかあの銀行が、まさかあのデパートが、と言っていられない、という現実を北海道民はまた突きつけられることになったわけだ。

 もしかすると、これからは日本全体にも同じことが起きるかもしれない。まさかあの会社が、まさかあの放送局や大学が、と誰もが知るブランド企業や学校が経営危機に陥り、中には消滅するところも出てくる。そのときには、いくら「かわりがあるから」と言われても、私たちは心の支柱のひとつを失ったような気になるかもしれない。

 この「現実以上の心理的ダメージ」が、経済危機の社会においてはもっとも恐ろしいことのひとつだ。冷静に考えれば自分の生活には直接、関係なくても、「あんなになじみのある会社まで倒産してしまうのか」とショックを受け、落ち込む。この心理が、個人のストレスを増大させ、経済の動きをさらに冷え込ませてしまうのだ。

 子供のころからよく知っている銀行、デパート、企業が姿を消すのは、寂しいことであるのは間違いない。とはいえ、あまりに感傷的になりすぎると、今度は自分の心が危機に陥り、社会の動きを停滞させる。

 「まあ、また再建の道が見つかるかもしれないし。それに日々の買い物が直接、そんなに不便になるわけじゃないでしょう?」。あのデパートがなくなってしまうかも、と心細そうな顔つきの母親に、そう言葉をかけてみた。しかし、そう言いながら、私の頭にも幼いころ、両親や弟とデパートの食堂で食事をしたときの思い出がよぎり、悲しい気持ちになってしまう。

 不況は人々の心にも冷たい風を吹きつけるようだが、負けないようにしなくては。

 

毎日新聞 2009年2月17日 地方版





大臣から学んだ酒の教訓 /東京

 この一カ月もいろいろなニュースや事件があったが、そのほとんどが中川昭一前財務・金融担当相の「もうろう会見」で吹き飛んでしまった感がある。

 あれ以来、外来診療で「薬を出しておきます」と言うと、「アルコールを飲んだ後でこれを飲むとどうなりますか?」「花粉症の薬も飲んでいるのですが、いっしょに飲むともうろうとなったりしますか?」と尋ねられる場面が格段に増えた。

 それどころか「薬は怖いので、やっぱりけっこうです」と服薬を断る人さえ現れた。「風邪薬と少々のアルコールでああなった」という元大臣の説明は、薬を服用している人にとってはまさに“中川ショック”。実際には薬だけ、あるいは少量のアルコールの併用であそこまでもうろう状態になることはまずないのに、薬への警戒心がいたずらに強まってしまい、診療がたいへんにやりづらくなってしまった。

 ただ、酒好きから依存症の領域にさしかかっている人には、断酒のよい機会になるのではないだろうか。最近は強制的にお酒を飲ませることはアルコールハラスメントと呼ばれるなど、宴席でも「まあまあ、飲んで」と無理やりすすめる慣習はかなり目立たなくなってきた。若い人と食事会をしても、最初からソフトドリンクを注文する人も多く、それに対して「乾杯だけでもビールで」などと言う人もまずいない。

 とはいえアルコール依存症になる人は減っていない。とくに最近は、若年者や女性でその傾向を呈する人が目立つ。「お酒を口にしないと、どうも仕事や家事のエンジンがかからない」などと言う人、飲酒で何度も失敗を経験している人は、すでに精神的にも身体的にも依存が形成されていると言ってもよい。

 一度、依存症になってしまうと、酒を控える“節酒”はほとんど効果がない。この人たちは飲酒を自己コントールできなくなっているので、本人は「ほんの一杯」と思っていても実際にはボトル一本、ということもある。

 元大臣は、飲酒は「たしなんだ」「口をつけた」程度と言い、同行した財務次官は昼食でワインを注文したのは「イタリアの昼ご飯の慣例」と言ったが、過去の飲酒にまつわる問題から考えても、ここは一口たりとも飲むべきではなかった。

 宴席で酒を注いでくれる人に「ちょっと今、お酒はやめてるんですよ」と断ることは、少しも格好悪いことではない。それより、酒に関係した失敗をすることのほうがずっと格好悪い。こんな“教訓”を大臣から学ばなければならない、というのもなんとも情けない。


〔都内版〕

毎日新聞 2009年2月25日 地方版