今日は、
最近ふと浮かんだ疑問について
ちょっと書いてみようと思います。
これまでに何度か鬱っぽくなったことがあって。
うちはあまりそういうことに理解がある家庭じゃなかったので、
病院にも連れて行ってもらえず、
わりと長いことしんどいままでした。
こういう家庭って少なくない気はします。
きっとうちの親はどうしていいかわからなかったとか言いそうですが。
数年前にまた鬱っぽくなったときは、
まだ「悟り」なんて全然わかっていなかったのですが、
それでも、鬱のような状態に落ちていく自分を
どこかで見ている感覚があったんですよね。
そのときにふと浮かんだのは、
「鬱だから動けない」「何もできない」って、
全部が全部そうなのかな?という疑問でした。
身体は重くて動かないのに、
思考だけはどこかで整えようとしていた。
それがなんだか、不思議だったんですよね。
今考えてみれば、
メタ認知できてんじゃん!って思いますが、
当時はそんなことなかったですね、絶対。
当時はただ、「なんで私はこんなに動けないのに、
頭の片隅で自分のこと分析してんだろ?」って、
そのズレが気持ち悪かったんです。
普通、鬱って言ったら
「絶望に飲み込まれて何も考えられない」
状態をイメージするじゃないですか。
でも、私の場合は違った。
-
泥沼に沈んでいる自分
-
それを岸辺から「あー、沈んでんなぁ」って眺めてる自分
この二人が同時に存在していた。
当時は
その「眺めてる方の自分」を、
冷徹だとか、
あるいは現実逃避だとか思っていたけれど、
今ならわかります。
あれこそが、
人間の意識の核にある
「観照者(ウォッチングしている存在)」
だったんだなって。
「悟り」や「非二元」の知識なんて一ミリもなかったあの頃。
親にも理解されず、
社会からも切り離されたような孤独の中で、
私は図らずも
「自分と症状を切り離す」
という荒業をやってのけていたわけです。
病院に行って「あなたは鬱です」と診断されていたら、
もしかしたら「私は病人なんだ」という枠に自分を閉じ込めて、
観察するのをやめていたかもしれません。
皮肉なことに、
誰にも助けてもらえなかったからこそ、
自分の内側に「逃げ場としての視点」を作るしかなかった。
それが結果として、
今の私のベースにある「視座の高さ」に繋がっている気がします。
で、こういうことを理解してほしいって
外側に求め始めると、
変なスピリチュアルに誘われちゃうんだよね~
だらだら書いたけど、
じゃあ、
「悟っていると鬱にならないのか?」について
私個人として今感じているのは、
鬱になりようがないんじゃないか、と。
でも脳や身体は鬱状態になるかもしれない。
でも、そこに荷物を載せない。
だから、動けない~ってなっても
動けるときに動いて復活できちゃう感じかな?
それが悟りかも。