スペイン・サッカーの歴史エル・クラシコ(レアル×バルサ)2 | スペイン・サッカー珍道中

スペイン・サッカーの歴史エル・クラシコ(レアル×バルサ)2

スペイン王位継承戦で、最後までブルボン家に対抗してきたカタルーニャには特に厳しく、州政府、地方組織が廃止され、更にカタルーニャ独自の法律や特権も廃止されたのです。

カスティジャーノ語(スペイン語)の使用を義務付け、更に政治家になることはできなくなったのです。

しかし、これらの政策によって彼らは政治の分野では何もすることができなくなってしまった一方で、「産業」に集中することができるようになったのです。

そしてスペイン国内で唯一「産業革命」を成功し、またこの時期ぐらいから、カタルーニャの中心地バルセロナでは「芸術」や「文化」で繁栄し、ガウディなどの芸術家が現れるようになりました。

こうした時代の背景で、1899年バルセロナには「FCバルセロナ1902年マドリッドには「マドリッド・フットボール・クラブ(後のレアル・マドリッド)」が誕生したのです。

しかし、バルセロナ、マドリッドの歴史的問題は更に深くなるのです。

フランコ将軍の出現で、カタルーニャは暗黒の時代を迎えることになったのです。ドクロ

フランコはクーデーターを起こし、3年にわたってフランコと戦ったが、敗北したのをきっかけにカタルーニャは政治的な側面はもとより、文化、社会的なものまでもが徹底的に弾圧されました。


カタルーニャ語の民俗芸能、カタルーニャ語による本の出版、氏に至るまでで、例えばジョルディという名の呼び方をホルヘと名乗らなければならなくなったのです。

一方、レアル・マドリッドは政府に近い財界人と交流を深め繁栄し、現在のレアル・マドリッドのホームスタジアムである「サンティアゴ・ベルナベウ」は、当時の会長であったサンティアゴ・ベルナベウ氏の名前が由来しているのです。

彼は、アルゼンチンのスーパースターであったアルフレッド・ディ・スティファノの獲得に成功し、ディ・スティファノの活躍で、「チャンピオンズ・カップ(後の「チャンピオンズ・リーグ」)」5連覇という偉業を成し遂げたのです。

一方のバルセロナは、固有の言語であった「カタルーニャ語」の使用を禁止され、自治権も剥奪され、中央政府に対して抵抗する術が、唯一サッカーだったのです。


「中央政府」の加護を受けていたと言われるレアル・マドリッドに勝つことが、カタルーニャ人の生きがいであり喜びでもあったのです。

こうした歴史・政治的背景があり、今のエル・クラシコ(レアル・マドリッド対バルセロナ)という伝統的な戦いが行われるようになったのです。