GREAT WASTED -16ページ目

GREAT WASTED

ロック野郎なネットワークエンジニアが、何故かフィリピンで恋に落ち、もの凄い勢いで結婚し、その後半年にわたるフィリピン暮らしを経て、今再び嫁を引き連れて日本の土を踏みしめながら、働いちゃったり遊んじゃったり。の巻。

季節外れの水道管工事で、この間まで決して綺麗とは言えないがそれでも平らに舗装されていた道路に、夜明け前の帰り道で時おり遭遇する早起きのカラスの羽の色に似たぬめぬめとした黒い光沢の真新しいアスファルトが不格好なつぎはぎで盛られた様は、ただいたづらに課せられたノルマにしたがって掘り返してはまた埋める懐かしの土建政治の密やかな復興をひっそりと僕らに教えてくれる。

どう見ても態度が良いとは言えない作業員とどう見ても動きが良いとは言えないガードマンの怠惰な働きは、きっとこの暑さのせい、という事にしておこう。

車輪にアスファルトの石が土星の輪のようにびっしりとへばりついたベビーカーのその上で、さっきまでは感じる事のなかった細かな振動に気づいているのかいないのか、見ようによっては訝しげな顔でそれでも時おりニコニコと笑いかけてくるこの子の思考が大人になる頃に、僕は胸を張ってこのくそ素晴らしき世界を彼らの手に引き継ぐことができるのだろうか。

深い土の中より生まれ出たものの再び土に帰る事もできずに敷き詰められた黒い石の上で音を絶った蝉の骸を、すれ違いざま踏み潰さないよう器用にインステップで側溝の網に向けて蹴り込む僕を、讃える人はいないがしかし、非難できうるものもそうそういないだろう。

いつもは右に曲がるT字路を今日は左に曲がり、見慣れない町並みを抜け文字通り狭き裏門をくぐり駒場東大のキャンパスへと入ると、生い茂った木々がさりげなくそれでいて濃厚に吐き出すオキシジェンとそれを吸い込みはしゃぎ踊る柔らかな風が、つかの間渋谷の裏にいるということを忘れさせてくれる。

あの駒場寮があったその場所には似つかわしくない近代的な建物群が立ち並んでいて、首根っこを掴まれ無理矢理時の流れを見せつけられたようなちょっと悲しい気持ちにもなるのだが、残念ながらどうひいき目に見てもこっち方が素晴らしく出来が良いのだからなす術がない。

古びた体育館とかつてまぐろ丼の美味しかった学食があった建物の間をゆっくりと進んでいくと、ふと嫁が何かを感じ取ったらしくはたと歩みを止め、常人には見えざる物の存在を僕に囁く。

僕はそうかもねとくすくす笑いながら別段特別なことでもないよと、入ってきたよりもさらに狭き門から、山手通り沿いの懐かしい町並みに戻った。

つづくかも
きっとイカロスは彼のその翼が蝋でできていてそれ以上高く飛んだら溶けてしまうことなどとうにわかっていたに違いないのに、それでも尚その羽ばたきを止めなかったのは単純にそこに空と太陽があってその時彼に翼があったからに他ならない。

ヘドロの沼より飛び上がり分厚い雲を突き抜けてただひたすらに羽ばたいて、ようやく辿り着いたその光の中でいったい誰がその飛翔をやめることができたというのか。

だからこそ愚かな人間は彼を嘲り、崇高な神と呼ばれるものだけがその思いのたけを嘆き悲しみ星へと変えたのだらう。

君より愚かなものが君より遥かに高尚であったとしてもそれに気がつく事ができるものはほんの僅かで、むしろだからこそ人は人という相互依存が生み出す蒙昧な存在であり続けられるのかもしれない。

そしてその凡愚な群れが朽ち果てた彼の体を辱め自らの生きる様を慰める糧にしようとも、あの日あの雲の上で見たまばゆい光の鎖と宙の青さは、この不確かに歪んだ地平の果てに君臨する月のように揺るぎない思いで闇を照らすのだそうだらう。
テレビは今日も下らなくて衝撃的なニュースを僕の耳に押し込むのだけれど、それはとても巧妙にまるで膝下をゴムの金槌で叩かれたかのようにその気もないのに思わず反応してしまうのを抑えられない。

一通り考えてみてもやっぱり何も得るところはないのだが、心のひだに入り込んだ忌々しい原色の粒はそれでもなんとかして僕の気を引こうと後ろ髪を引っ張り回すのだからたちが悪い。

常々考えているのだが時間というものは一定ではなく緩やかにそして時として激しくその様を変えながら揺らぎ続けるのは、きっとそれを感じている僕の刻む時間が決して一定ではないからなのだらう。

願わくば永遠の一瞬に身を置きそれを紡ぎ続けながら生きていきたいものだが、そうして生きるには少し年をとりすぎたしこの世界もつまらなすぎる。

せめて時を止めれるほどの高揚を感じとる心はなくさずにいたい。

切り刻まれた細切れの瞬間を粉々に叩き壊しいつかみたステンドグラスのやうに思いのままに繋ぎ合わせて奏でていられたらそれはそれは楽しいだろう。

多分僕の脳が、思考する事を今より少し嫌いだったら、真実を追い求めることに何の興味もなかったら、心のひだに入り込む原色の粒に気がつかなくいられたら、何の不自由もなく飽和したマテリアルの中で浮き草の上を不安も不平も感じる事なく謳歌していられたのだろうけれど。

瓦礫の町で流された血とその赤さに増幅された憎しみの量だけ、忌まわしき黒い油の値段はまだまだ上がるよ。
今日は久しぶりに代官山まで散歩しました。

途中、菅刈小学校の校庭の木々にとまった蝉のフリージャズの如く常人には規則性の読み取れないカオスな大合唱にちょっと引き気味の嫁は、やっぱり蝉が怖いらしい。

菅刈公園はいつもより人もまばらで、そう言えばそろそろ盆休みなんだとまるで16進数を10進数に変換するがごとくいわゆる常識的な日本人のそれとの接点を僕らに控えめに提供してくれる。

喉が渇いたという嫁は、以前は絶対に選ばなかったであろう 野菜入りフルーツジュース を飲み、また以前は絶対に言わなかったであろう 甘くなくておいしい というコメントを残すにあたり、自ら選択するという意志を尊重し強制せずに理由を説明し続けたこの1年間が無駄ではなかったことを改めて僕に教えてくれた。

西郷山公園を目黒川側のスロープから上がっていくと、以前はいつも流れていなかった滝にサーという真夜中のテレビの砂嵐サウンドを天才サウンドエンジニアがイコライジングしなおして位相を浮き立たせたがごとき音と共に大量の水が流れていて、その気はなくとも思わずしばし立ち止まり聞き入ること数分にわたりしさうらう。

公園の横のカフェで嫁が大好きなキーマカレーを二人で食べながら交わすとりとめもない話の話題はもっぱら僕の物忘れのひどさで、昨日もブログの昔のエントリーを軽く読み返してみたんだけど自分で見たと書いてある映画の内容はおろか見た事もさらにはタイトルさえも完全に思い出せないという激しさは、多分、本来、脳内の記憶領域として使っている部分を瞬間的に仮想メモリ的な思考処理領域として流用してしまっているんだと思う。

嫁とジュニアのことは忘れないでねと笑いながら念を押される。

その後、炎天下を直射日光がなるべくあたらないように道を選び、キンモクセイとおぼしき花びらを踏みしめながら代官山へと向かう僕らの目的地はこの間オープンしたばかりのキッズショップなのだけれど、その本人はベビーカーの上ですっかり退屈しきったご様子で、仏頂面をしていたかと思ったら汗だくになりながらもすやすやと寝てしまった。

店につき、廊下をパタパタと走り回るがそれでいて育ちの良さそうな子供達の歓声にようやく目を覚ましたジュニアは、しばし真剣な眼差しで周囲を見回し状況確認をした後、真っ先に嫁を視界にとらえ満面の笑みを惜しげもなく披露する。

僕はといえば、窓側に並んだセンスのいい木製のおもちゃをチェックして思ったよりも値段が張らない事に胸を撫で下ろす一方、別の一角に並んだ勉強机やベッドを眺めてぼんやりとそもそも住むところを変えないとこの辺は買えないなーと、バックグラウンドプロセスでいつの間にか常に動いている中長期の人生設計の軌道を思っていたよりも少し前倒しにしなくてはいけない必要があることを感じていた。

生命というものになんらかの意味があると仮定するのなら僕は僕にしかできない事をするべきであり、ネットワークエンジニアという仕事においてもそれなりに稀有な才能と経験を持っていると自負はしているけれども、果たしてそれが自分のその他全ての可能性に勝るのかと問われるとその答えがYesになる事は今までもそして多分これからも決してないわけで、その事自体は別段問題ではないのだけれどそのやうな揺らぎを抱えながら生きているその様や葛藤は何かに変換するべきであろうという思いから、

今日はこんな文章にしてみました。
おれはエレクトーンが嫌い

あののっぺりとした音が嫌い

だから松任谷由実も嫌い

あののっぺりとした声が嫌い

リアルが感じられない

心の揺らぎが感じられない

あいつらはプラスチックだ

石油化合物にちがいない

サンプリングされた誰かの歌を

マーケティングを元に歌ってるだけ

ファック ザ エレクトーン

エレクトーンをぶっ壊せ

ファック ザ エレクトーン

エレクトーンをぶっ潰せ

オレはエレクトーンが嫌い

滾る殺意に身を攀じる

だからアクリル100%が嫌い

熱で溶ける生き様が嫌い

呼吸をしているだけで

生きていると勘違いしている

魂の躍動のない

心の死んだ色が嫌い

ファック ザ エレクトーン

エレクトーンをぶっ壊せ

ファック ザ エレクトーン

エレクトーンをぶっ潰せ

胸いっぱいのノイズを君に
笑いすぎて苦しくなってもしらないよ





相撲になってねーよ

はらいてー



ほんもののエンターティナーだな
資本主義という言葉があるが、

僕はそんな主義主張はこの世に存在しないと思っている。



それは、コミュニストという夢想家たちが自らの理想を肯定するために

いわば仮想敵として仕立てた虚飾の塊であり、ドン・キホーテの風車であり、

なんら実体をもつものではない。



あえて言おう。 資本主義は主義ではなく、自然現象である。



物々交換でやり取りされる物品が多様化し、

かつそのエリアが広域化すれば、

共通の価値を持つ代替物品が必要になるのは自然の摂理である。



マテリアルが飽和し、心のよりどころを実体のないものに求める人が増えれば

おのずとその実体のないものも代替物品の交換対象に組み込まれていく。



なぜなら、人々がそれを欲しがるからである。



そして、その様々な物品と交換できる代替物品を大切にするのは

その代替物品で交換できうる全ての物や技術を尊重していることに他ならない。



水が高いところから低いところに流れるのが主義ではないように、

雨の日に傘をさすのが主張ではないように、

資本を確保し欲するものを手に入れようとするのは、

善悪や議論といったものを適用する意味のない、ただの自然現象である。



そして、それを否定するのも肯定するのも、僕から見れば同等に愚昧である。



かつて堀江貴文が演じるホリエモンは、その劇中の台詞で幾度となくこう問いかけた。

「お金で買えないものがありますか?」



その言葉は確かに我々の胸に響いた。

あるものは憤慨し、あるものは頷き、また、あるものは蔑んだ。



だがそこには、省略された言葉があることに気がつかなければいけない。

だからこそ、あの言葉はこれだけ我々の記憶に残るのだ。



" あなたが欲するものの中で、"  「お金で買えないものがありますか?」



もしあるならば、僕はそれに値段をつけよう。

なぜなら、次に人々が欲しがるのはそれかもしれないからだ。



そろそろ、ネクストステージに進もう。

パレードが終わると、いっせいに動き出す人の群れ




うぜー。うざすぎる。








嫁がアイスクリームが食べたいと言うので




ちょっと探してみるが見つからない&人が多くてムカつく。








だんだんイライラしてきた僕を気遣ってか、




はたまた自分もイライラしてきたのか、




フレンチフライでいいや、とファーストフードに向かう嫁。








アイスクリームとフレンチフライの間に、




まったく繋がりが見えない僕はまだまだ若輩者ですなー。








嫁がキープしたテラスの席でしばし休憩の後、




降り出した小雨の中を、またも時計回りに次のアトラクションへ。








家を出る直前に気がついて持ってきたベビーカー用のレインシートが大活躍。




でも雨がどんどん激しくなるし、嫁は足が痛くなってきたというし、




ちょろっと雨宿りがてらにカフェレストランに逃げ込む。








ジュニアはベビーカーの上で疲れて寝てるし、




嫁は既に大満足のようなので、今日のところは引き上げることにした。








念のため、今日は半分しか回れてない事、




ランドの横には同じくらいの規模のシーがあるので




結論、四分の一しか堪能していない事を説明する。








嫁の背後に「やった、あと三回これる」という吹き出しがはっきり見えました。








で、約束通りBon Voyageでお土産を買った後、イクスピアリでショッピング。








視力のいい嫁は、さっきLivis の前を横切ったとき、




お気に入りの服を見つけていたようで、一直線にそれを買う。








で、パンツの裾あげに時間がかかるので




そのまま、40分間ブラブラと、、、まんまと術中にハマってるな。。








あんなところで40分間もブラブラしてたら、絶対なんか買っちゃうよ。








というわけで、ジュニアのベビーカーのメーカー




Quinnyが出しているCurbbというハイパーなベビーバックを購入。








Livis の新ブランド FLU にも若干グラッと来たけど、




ここはぐっと我慢する。 今日は家族サービスの日だし。








がしかし、帰りの電車の中で会社携帯に呼び戻され




そのまま朝の4:30まで働きましたとさ。。 半落ちだったけど。。







おしまい。