毎年この時期に彼岸花を見るたび
自然の精密さと、同時にその逆の単純さとに驚く
どんなに暑い夏でも決まってこの季節に咲くのを見ると
日照時間を感じているのかと思ったが
以外にも温度によって花をつける判断をしているらしい
ということは彼岸花たちにとって今年の秋は異常な猛暑の秋ではなく
いつもの秋だということなのだろう
長袖のジャケットを羽織って
オートバイで山へ行く
もうジェットヘルメットとゴーグルでは少し鼻先が寒いね
そろそろ夏の間に酷使したエンジンオイルを交換して冬に備えよう
心配していた人が多かったみたいだけど
そうさ
秋はこうして今年もやってきた
生まれついての性格なのか性向なのか
騙されてばかり、利用されてばかりなのでそうなったのか
猜疑心が強く
なんでも疑ってかかることが多いように思う
ずいぶん前に岡林康信の「自由への長い旅」という曲を知って
そのメインテーマである「信じたいために疑い続ける」というフレーズが
強く心に刺さったことをよく覚えている
ああ、そうだったのか、と
なんとなく溜飲が下がるのを感じたのだ
本当は信じたいのだと思えば疑うことも悪い気はしない
けれどそれ以後はなんでもかんでも意識的に疑ってかかるような感じで
正直自分でもどうなんだろうと、これまた疑っているようなところか
初めにつまずき
見過ごせなくて反芻しているうちに
ますます違和感は膨らんでゆく
そしてしつこくしつこく問い続ける日々だ
気を許していた人に突然「お前、面倒臭いもんなー」と云われ
あまりに居た堪れなくて一目散に逃げ出してきたのにも関わらず
そんな性格を改めるどころか
それ以降もますます偏屈になっていったように感じる
しつこく書くけど
そんなボクの今の違和感の中心はやはり「異常気象」なのだ
さすがに彼岸を過ぎてウソみたいに涼しくなって
急に誰も何も云わなくなったけど
ほんとうに好きだよね
ついこの前までテレビでは朝から夜までずっと
ニュースショーと云うのかワイドショーというのか知らんけど
ものすごい時間かけて天気の話
それも「暑い」という話で盛り上がっていた
映像で情報を垂れ流すテレビというメディアは世に生まれた時から
すでにその危うさを指摘されていたのだが
大宅壮一が「一億総白痴化」と警鐘を鳴らしたのはなんと1957年のことだ
この予言どおりまんまと大衆はテレビによって思考停止状態に誘導され
差異の原理に都合よく利用される消費マシーンと化した
人間の知性、理性というものは(と云うと大袈裟だけど)
幼児期から時間をかけて外部の現象を刺激として記憶しながら
それと同時になされる言語の習得過程で
「概念の同一化」という脳のエコシステムを経て構築されていくのではないかと思う
だけど感覚器に入力される刺激を概念に置き換えることには本当は無理がある
人の感じ方ほど主観的で個人的なものはないだろうし
しかもすべてが感覚器への刺激に過ぎないのだと考えれば
実際は概念で括れるような代物ではないはずだ
何かを食べて「おいしい」という人と
それと同じものを口にしながら「滑らかな舌触り」という人がいる
語彙力と表現力にもかかわるかもしれない
よく耳にする「胃もたれする」という概念だが
ボク自身それがどういう感覚なのか理解できていない
胃がむかつく(吐き気がする)と胸が焼けるはわかっている気がするが
それとどう異なるのか客観的に確認のしようがないのだ
しかし現代のこの国の住人はもっと危うくて
脳のエコというより間違いなく思考停止、もしくは思考の放棄が始まっている
日々接し続ける五感からの情報(刺激)すべてを
たった3つの概念で認識していると思わざるを得ない状況だよね
曰く
「ヤバ(い)」(肯定的、否定的、ポジティブ、ネガティブ、=万能)
「エグ(い)」(否定的、ネガティブ)
「エモ(い)」(肯定的、懐古的、ポジティブ、ノスタルジック)
この3つだ
もしかしたら、もうすでに「ヤバッ」(万能語)だけになりつつあるかもしれない
ボクの所有する広辞苑は第6版でやや古いが
「やばい」を「不都合である、危険である」と定義している
これは否定的で、ネガティブな意味合いだということで
決して肯定的、ポジティブな表現ではなかろう
が、現実はこうだ
おいしいものを食べて「ヤッバ」
いい男を見かけて「ヤバい」
素晴らしい景色に出会って「ヤバッ」
もちろんおかしな奴を見かければ「ヤバ」
もっと凶悪な犯罪者にも「ヤバ」
同様に暑すぎる状況は「ヤバ」いんですけど~
なのだ
これは本当に「ヤバッ」と思ったほうが良いと思うのだが
世間はそうでもなさそうで
みな屈託もなく、楽しそうに連呼する
「ヤバいんですけど~」
確かに何となく良く分からないなと思うと
思考はそこで停止しやすい
別にどうでもいいし、といった具合にね
でも最初に云ったとおりボク、「看過できない」という言葉が好きなので
「え、それどういう意味?」
「だったらそれとどう異なるの?」
と問い返さずにはいられない性分なのだ(ソクラテスか)
AIチャットソフトならどんなにしつこく質問を繰り返しても
次から次へと答えをくれるけど(時に堂々巡りにも陥るが)
テレビってやつは本当に「ヤバ」い
春先からずうっと「暑い」系の話題を取り上げ続けるのに
秋が見えてきた今でも何の進展もなく結論もなく
毎日しれーっとおんなじ顔で云うのだ
「暑いですねー」
それにしても異常気象と云うことで思考停止に陥れ
いったいどこへ大衆を導こうとしているのだろうか
雨の降り方がこれまでと違う、
こんな暑さは経験がない、とか云うけど
気象観測が始まったのは長い地球の歴史でごくごく最近のことだし
一人の人間が経験できる夏など100回くらいが限界だ
「独断」も甚だしい
7000年から5000年前の縄文時代には
ヒプシサーマルと呼ばれる気候最適期があったが
その頃の気温はいまより約2℃も高く
海面水位も3~5mも高かった
けれどその時の二酸化炭素濃度は現在よりも3割も少ないというのだ
このこと一つとっても現代の気温上昇が
炭酸ガスの影響だと言い切るには根拠が薄いと思うけどね
もちろん原因の一つではあるかもしれない
しかし世界中に号令をかけて人の営みや経済にまで切り込むのは
政治的な意味合いを強く感じる
この「地球環境」をメインテーマとする政治的な行動は
IPCCやCOPは云うに及ばず
国連の活動なのだが
SDGsの中(13:気候変動に具体的な対策を)にも示されている
どうせ開発するならこういう方向性でやりなさい、と
国連が示している訳だ
2015年に国連サミットで採択され達成目標は2030年だ
結構な内容に感じるけどこれ15年で道筋がつくもんかな
自動車の電動化や
太陽光パネル、発電用風車なんかを見る限り
そこにはやはり政治色の強さしか感じない
(もちろんエネルギーを輸入に頼る日本にとっては好都合なんだけど)
そもそも国連って西欧色が強い
化石燃料とITを軸にした経済のグローバル化は
莫大な資本投資の恩恵を受けた途上国の発展を促進した
途上国は急速に豊かさを手に入れ
先進国を脅かす技術力や開発力を見せ始める
かつて日本車が世界の自動車産業を脅かしたように
中国や東南アジア、そしてインドなどグローバルサウスと呼ばれる国々は
日に日に存在感を強め
すでに先進国はそれを脅威と感じているのだ
しかしそんな国々にはまだまだ弱い部分もある
爆発的に増える人口はGDPを押し上げこそするが
国民の大半は貧しい
コストの問題から化石燃料に依存する割合も高い
そこで今ヨーロッパが脱化石燃料へと舵を切れば
途上国はもう一度遅れを取る可能性があり
先進国は今後もイニシャティブを握り続けることができるという構図だ
―――いじめだ
だってこのまま行ったら地球環境は取り返しがつかなくなるんだから
しょうがないじゃん
ということなんだろう
17世紀ごろ地球規模の経済が胎動を始めると
人間の歴史は劇的に進み始める
紙幣の使用などはその象徴だが
時代の空気は科学的な興味をも変化させ
「類似」から「表象」へと大きく転換しながら
その後18世紀の末には、それを見る「人間」という概念が生まれ
興味の中心は必然的に「人間」へと移っていく
実を云えば人間への興味は富の時代が始まった16世紀ころから
すでに「人間」への興味は生まれつつあったのだ
それは資本家たちからは単に「労働者」としか認識されず
彼等の底知れない欲望の波に容易く飲み込まれ
20世紀に2度の世界大戦を経験するまで再び浮かんでくることはなかった
何と野蛮で自己中心的だったことか
政治も経済も科学もみんなみんな最低だった
その反省からヒューマニズムを掲げた考察もなされはしたが
結局は傍観者的な歴史の糾弾や視点のすり替えに走っただけだった
前世代の人たちの間違いだったのだ、
それはもう済んだことなのだ、とウソブキ
今度は核兵器というファンタジーで世界を黙らせ
巧妙に全体支配を続ける
そしていまグローバル化が進む現代においても
そのイニシャティブを握り続けるため
支配者たちが「地球環境」を提示し
いまや後ろから両手で無理やり頭を押さえつけて
無理やりにでもそちらへ全体を向かせようとしている
しかし、ミシェル・フーコーが予言したようには
「人間」と云うエピステーメーはまだ消されはしない
なぜならそれはまやかしに過ぎないからだ
いまこそもう一度、この世界に真の人間性を見出すべき時だ
古代ギリシア以来求め続ける人間の善を、そして人間の正義を
秋の野に咲く彼岸花や萩の花を見ていると
なぜ人間だけがこんなにも変化を求められるのか
なぜ金銭的な豊かさにばかり目をやり続けるのかと
もはや疑問を通り越してやり切れなさすら感じる
このまま人間の生活がテクノロジーに最適化され続けていけば
自然との関係性や身体性、偶然性、感情の揺らぎが徹底的に排除されてしまうだろう
その中ではもはや「人間らしさ」はノイズとしてしか扱われないのだ
あれもこれもみんな手に入れたい
ここへもあそこへも全部行ってみたい
これが欲しい、今度はあれが欲しい
ああ、金が欲しい
ああ、時間がない
これではまるで泳ぎを止めれば死んでしまうマグロだ(サメでもいいけど)
大丈夫だよ
立ち止まっても
死にはしない
そうすれば逆に今までよく見えていなかった自分の足元がはっきり見えるさ
そうだよ
わるくないだろ?
これで十分しあわせだ
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