愛知県あま市の戦国武将ゆかりの地へ 前編 | えっくんのガンプラブログ!

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こんにちは!

今回は愛知県あま市の戦国武将ゆかりの地へ行って参りました。

 

愛知県あま市というのは2010年に海部郡美和町、七宝町、甚目寺町が合併した市になります。

このあま市にも戦国武将のゆかりの地が数多く存在しますのでご紹介いたします。

 

まずは…

 

 

 

正則小学校。正則って何?人の名前?と思うかもしれませんがそうなんです。ここあま市ニツ寺は戦国武将の福島正則の生誕地なのです。

 

ここで超簡単に福島正則について解説。

 

あま市二ツ寺に産まれる

羽柴秀吉の家臣になる。

山崎の戦い(羽柴秀吉vs明智光秀)の戦いや小牧長久手の戦い(羽柴秀吉vs柴田勝家)の戦いで大活躍

文禄の役(日本vs韓国)にも出陣、関ヶ原の戦い(徳川家康vs石田三成)では東軍につく

江戸時代には台風の被害にあった広島城を無断で修復。二代目将軍徳川秀忠に罰をくらう。(これは徳川家のいちゃもんに近い)

長野県高山村で死去

 

と、まぁ秀吉の家臣として大活躍しまくった英雄なんです。この英雄にちなんでこの地は100年ほど前まで正則村と呼ばれていました。

 

正則小学校の他にも正則保育園、正則コミュニティセンターなど正則の名前がついた建物が多くあります。

 

 

 

正則小学校の裏には月之宮神社という神社があります。ここは戦国武将には全く関係ないのですが、太平洋戦争時には防空壕があったそうす。私の近所の神社にも戦時中には戦闘機が隠してあったようで、神社と戦争は関係ないようで関係あるんだなぁ~と思って写真を撮りました。

 

この月之宮神社から西へしばらくいくと

 

 

見えてまいりました。福島正則生誕の地の石碑が!

 

 

このボロボロの石碑が昔からある福島正則誕生の地の石碑で

 

 

 


この背の長い石碑が最近建てられた物のようです。

 

 

 

福島正則の生涯について書かれています。ちょっと見えにくいですが、氏神高宮神明社も正則の修造。菩提寺菊泉院(ぼだいじくきせんいん)には福島正則の位牌や念持仏や肖像画が伝えられている。と書かれています。これは高宮神明社と菊泉院に行くしかねぇ!!!

 

 

まずは菊泉院。福島正則生誕の地のすぐ近くです。

 

 

福島正則公 菩提寺の文字が!肖像画見たいなぁ…。

 

 

 

静かで美しい場所です。

 

 

これが福島正則の供養塔と記念碑になります。

 

 

福島正則は豊臣秀吉に尽くしており、秀吉の死後の関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍に就いたものの(正当な豊臣家の軍勢は西軍であったが西軍の石田三成などと反りが合わず東軍に就いた)圧倒的な影響力のある豊臣家での重鎮であった福島正則を徳川家康の命令で名古屋城築城の為の堀川開通を行わせ、徳川家康は福島正則を完全に自分の配下にしようとしていた。二代目将軍徳川秀忠が広島城の修理を無断で行った事を理由に罰を与えたのも福島正則の力を弱くしようとしていたと思われる。

 

いや~立派立派!w

 

 

続いて村社神明社。高宮神明社とはここのようです。古墳の上に建てられたこの神社は福島正則が修復したようです。

 

 

 

古墳の上という感じは全然なかったのですが、もっとよく見ればよかったなぁw

 

 

ちょっと場所を移動して

 

 

 


 

 

鳳凰山甚目寺(ほうおうざんじもくじ)。通称甚目寺観音。赤い本堂が美しいです。

597年に創建。

以前ブログに載せた荒子観音と並び尾張四観音のひとつ。

 

 

 


 

 

本堂内。ここで福島正則が子供の頃勉強したとなると胸が熱い!

 

 

 


南側には南大門(仁王門)1196年に建築。この門には

 

 

 

 

 

 


立派な仁王様がいます。運慶作であり寄進したのは福島正則です。修復で解体した時に、福島正則が清洲城主であつた1597年に寄進した事を示す墨書が見つかりました。子供の頃に世話になった甚目寺観音に恩返しをしたかったのでしょうかね!

 

 

解体時にこの様な墨書が見つかるなんてロマンがありますね~!!これからもいろいろ見つかる事を願います!

 

ってな感じで愛知県あま市の戦国武将ゆかりの地へ前編・福島正則編でした!次回もお楽しみに!