シンセミアと国家
昨日、「和歌山毒物カレー事件」について、最高裁が上告を棄却し、林真須美被告の死刑が確定したわけですが、甚だグレーなこの裁判で「死刑」について少し考えた人も多いんじゃないでしょうか。
というわけで、いつだったか上げたエントリー の続きってわけじゃないけど、俺なりの死刑ってありなん? を(例によって、よその某SNSで1年以上前に上げたエントリーを元にしてますが。しかも書き足したら逆に散らかってしまいましたが……)。
先日、俺が行くときは、ほとんど客がおらず、どこで収益を挙げているのかはなはだ不透明な知り合いの飲み屋へ久しぶりに足を運ぶと、意外といっては失礼だが、けっこう賑わっていた。
が、どうも、よく見ると、それは6人からなるフレッシャーズのようで、失礼だが、学生の匂いが鼻につく騒ぎ方が、店の雰囲気に似つかわしくなく、早々に退散しようと思いつつ、グラスを傾けていた。
が、彼らがある話題で盛り上がっていたので、しばらく聞き耳を立てることにした。
ある話題とは
「マリファナを合法化するべきか否か」
である。
俺はこの話題が好きだ。
それはこの問題が国家と個人の関係に対する意識を浮き彫りにするからだ。
でも、俺は早々に退散した。
彼らが議論していたのは、
「ドラッグとして法で規制されてるんだからダメだ」
「それが持つ依存症が問題ならば、酒もタバコも同様だろう」
で、後はお決まりの堂々巡りだったから。
マリファナの問題と国家×個人がどう結びつくのか?
マリファナの問題は、各国によって解釈の仕方が異なっており、その背景を丁寧に見ていくと、個人の生活を取り締まる権限というものを、国民がどの程度まで国に与えるのか? という問題が見えてくる。
そしてそれは、死刑制度の是非にもつながっているのだ。
マリファナ合法というとオランダ/アムステルダムを思い浮かべるが、今、ヨーロッパの多くの国でマリファナは「非犯罪化」している。
非犯罪化とは、国家が取り締まりの対象としない※、ということで、国家が使用を認めるという意味合いの「合法化」とは違う。
※この場合、少量の保持については
マリファナ非犯罪化は、国家が「これはOK、これはNG」と提示したものを、ただ国民が受け入れているのではなく、「これはNG」とされながらも、国民が個人の権利として主張し続け「例外あり=国の譲歩」を手にした、というプロセスを経ている点で、個人が国家の権限に一定の制限をかけていることになる。
マリファナ問題を、このように国家×個人部分にまでリンクさせられるなら、夜が明けるまで延々と酔っぱらって議論できるのだが、先のフレッシャーズの議論は、公権力の支配に対して一切の思考を停止し(それが当然のものと)権限を明け渡している時点で、すでに論外なのである。
そしてこれは死刑制度でもまったく同じことが言えるのである。冤罪の危険性が解消されぬまま、死刑執行書類に判が押され、国家がいとも簡単に殺人を行っていることを許している現況は、マリファナの規制同様、個人の生活を取り締まる権限を、やすやすと国家に明け渡していることに他ならない。
先進国と言われる国々でほとんど死刑がないのは、あくまでも公共的な歴史意識の中でこの問題を考えているからだろうと思う(キリスト国などには、生死の審判を下す神が存在するので、全知全能たる神を差し置いて、人間が人間に審判を下すことにアレルギーがあることも確かだが)。
※ここで言う「公共」は日本人がイメージしがちな「世間」とはまったく異なるもので、むしろ世間とは真逆に対立しているものです。んじゃ、その違いって何よ? は本線から逸脱するので、時間あるときにまた。一つだけ挙げると本来の「公共=Society,Public」は、個人の尊厳を前提としているものです
--------脱線開始-------
ちなみに、EUは死刑廃止宣言を行っており、死刑廃止はEU加盟条件の一つになっている。
欧州というと、死刑廃止論が古くから根強かった印象を持っているかもしれないが、シャルル・ド・モンテスキュー、ジャン-ジャック・ルソー、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルといった歴史の教科書に出てくる頭の良い人たちは死刑存置論者として知られており、欧州においても死刑存置は主張され続けてきた。
にもかかわらず、死刑廃止を宣言するにまで至った道程とはどのようなものだったのか? このことを考えることは、きっと国家権力と個人の関係変化の道程も見えてきて、とても興味深いものがあるが、その前に、そもそもそんな議論が日本という国では可能なのか? を考えると、たぶん多くの人が下を向いてしまうだろうと思う。
それほどまでに、日本の国家権力は、したたかで、狡猾で、人の心を支配しているものだろうと思っている。あるいは「世間」というものが今の国家権力を求めたのかもしれないけれど。
--------脱線終了-------
ってことで(?)俺は、個人的に死刑制度には反対だ。
そこまで国家権限を明け渡してはならないと思っているし、日本における死刑制度は、日本人の諧調意識の集積である「世間」というものが、根源にあるように感じているため。
だからその「世間」ってのは何なんだよ!? は、時間あるときに、ひとつ(w
いつの日か、フレッシャーズにも気づくときがきてほしいと思う。
今見えている世界が、今、国やメディアやお店から提示されているものだけが選択肢じゃないということに。
気づいた先にある道の選び方は自由だ。
シンセミア……マリファナの雌株部分。葉っぱ部分の「リーフ」、花の先端部の「バッズ」よりも作用が強いとされる。
というわけで、いつだったか上げたエントリー の続きってわけじゃないけど、俺なりの死刑ってありなん? を(例によって、よその某SNSで1年以上前に上げたエントリーを元にしてますが。しかも書き足したら逆に散らかってしまいましたが……)。
先日、俺が行くときは、ほとんど客がおらず、どこで収益を挙げているのかはなはだ不透明な知り合いの飲み屋へ久しぶりに足を運ぶと、意外といっては失礼だが、けっこう賑わっていた。
が、どうも、よく見ると、それは6人からなるフレッシャーズのようで、失礼だが、学生の匂いが鼻につく騒ぎ方が、店の雰囲気に似つかわしくなく、早々に退散しようと思いつつ、グラスを傾けていた。
が、彼らがある話題で盛り上がっていたので、しばらく聞き耳を立てることにした。
ある話題とは
「マリファナを合法化するべきか否か」
である。
俺はこの話題が好きだ。
それはこの問題が国家と個人の関係に対する意識を浮き彫りにするからだ。
でも、俺は早々に退散した。
彼らが議論していたのは、
「ドラッグとして法で規制されてるんだからダメだ」
「それが持つ依存症が問題ならば、酒もタバコも同様だろう」
で、後はお決まりの堂々巡りだったから。
マリファナの問題と国家×個人がどう結びつくのか?
マリファナの問題は、各国によって解釈の仕方が異なっており、その背景を丁寧に見ていくと、個人の生活を取り締まる権限というものを、国民がどの程度まで国に与えるのか? という問題が見えてくる。
そしてそれは、死刑制度の是非にもつながっているのだ。
マリファナ合法というとオランダ/アムステルダムを思い浮かべるが、今、ヨーロッパの多くの国でマリファナは「非犯罪化」している。
非犯罪化とは、国家が取り締まりの対象としない※、ということで、国家が使用を認めるという意味合いの「合法化」とは違う。
※この場合、少量の保持については
マリファナ非犯罪化は、国家が「これはOK、これはNG」と提示したものを、ただ国民が受け入れているのではなく、「これはNG」とされながらも、国民が個人の権利として主張し続け「例外あり=国の譲歩」を手にした、というプロセスを経ている点で、個人が国家の権限に一定の制限をかけていることになる。
マリファナ問題を、このように国家×個人部分にまでリンクさせられるなら、夜が明けるまで延々と酔っぱらって議論できるのだが、先のフレッシャーズの議論は、公権力の支配に対して一切の思考を停止し(それが当然のものと)権限を明け渡している時点で、すでに論外なのである。
そしてこれは死刑制度でもまったく同じことが言えるのである。冤罪の危険性が解消されぬまま、死刑執行書類に判が押され、国家がいとも簡単に殺人を行っていることを許している現況は、マリファナの規制同様、個人の生活を取り締まる権限を、やすやすと国家に明け渡していることに他ならない。
先進国と言われる国々でほとんど死刑がないのは、あくまでも公共的な歴史意識の中でこの問題を考えているからだろうと思う(キリスト国などには、生死の審判を下す神が存在するので、全知全能たる神を差し置いて、人間が人間に審判を下すことにアレルギーがあることも確かだが)。
※ここで言う「公共」は日本人がイメージしがちな「世間」とはまったく異なるもので、むしろ世間とは真逆に対立しているものです。んじゃ、その違いって何よ? は本線から逸脱するので、時間あるときにまた。一つだけ挙げると本来の「公共=Society,Public」は、個人の尊厳を前提としているものです
--------脱線開始-------
ちなみに、EUは死刑廃止宣言を行っており、死刑廃止はEU加盟条件の一つになっている。
欧州というと、死刑廃止論が古くから根強かった印象を持っているかもしれないが、シャルル・ド・モンテスキュー、ジャン-ジャック・ルソー、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルといった歴史の教科書に出てくる頭の良い人たちは死刑存置論者として知られており、欧州においても死刑存置は主張され続けてきた。
にもかかわらず、死刑廃止を宣言するにまで至った道程とはどのようなものだったのか? このことを考えることは、きっと国家権力と個人の関係変化の道程も見えてきて、とても興味深いものがあるが、その前に、そもそもそんな議論が日本という国では可能なのか? を考えると、たぶん多くの人が下を向いてしまうだろうと思う。
それほどまでに、日本の国家権力は、したたかで、狡猾で、人の心を支配しているものだろうと思っている。あるいは「世間」というものが今の国家権力を求めたのかもしれないけれど。
--------脱線終了-------
ってことで(?)俺は、個人的に死刑制度には反対だ。
そこまで国家権限を明け渡してはならないと思っているし、日本における死刑制度は、日本人の諧調意識の集積である「世間」というものが、根源にあるように感じているため。
だからその「世間」ってのは何なんだよ!? は、時間あるときに、ひとつ(w
いつの日か、フレッシャーズにも気づくときがきてほしいと思う。
今見えている世界が、今、国やメディアやお店から提示されているものだけが選択肢じゃないということに。
気づいた先にある道の選び方は自由だ。
シンセミア……マリファナの雌株部分。葉っぱ部分の「リーフ」、花の先端部の「バッズ」よりも作用が強いとされる。