随想(逝く人) | ExcomAdvisorのブログ

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本稿は私・平田幸治の個人の意見・見解等を綴ったものです。

 「困難で厳しい冬が過ぎ、やがて陽春を迎える」2月第3土曜日に執行される西大寺会陽(岡山市東区)。それを待つかのように私を終世可愛がってくれた叔母(母の妹)が逝った。満97歳だった。私の母の命日も近く備前の春を感じる日だった。

 

  私が小さい頃は、叔母夫妻と従姉のいる瀬戸内海の海辺の叔父の司法書士事務所と自宅を兼ねた家をよく訪ねた。叔父は無類の野球好きなことそして「毎日新聞」の愛読者だった。後年に叔父は病を患い国立病院で「幸治(私)。世話になった。お母さんにもよく言ってくれ」と死の間際に言った。その瞬間にまでそうした言葉がでるのかと私は恐れ入った。叔母はプロレスが好きで「心が弱くてはいけない」とTVのプロレス中継を私はよく見せられた。叔母は従姉の家族に囲まれた最期だった。

 

  私の東京時代、夫妻は旅行の途上によく立ち寄ってくれた。野球は当時の後楽園球場のチケットを取って観戦に行った。日光や箱根にも私が連れて行ってもらった。叔父は出征直前に上京し神宮球場で学生野球の早慶戦を記念に観戦したと振り返っていた。叔父は会社勤めをしていたので「田舎の叔父さん」ではなかった。

 

  叔母には私の大切な恩師・石川忠雄元慶應義塾長の川崎市麻生区のご自宅へも行ってもらった。石川先生は当時法学部長でいらした。叔母は帰りの小田急線車内でも「幸治はものすごい立派な先生に・・あんな先生はおられん。お前はしあわせ・・」とくり返した。家族では妻と結婚のご挨拶に先生ご夫妻の東京・広尾のご自宅マンションに伺った。私の長男出産には禧子夫人が子供着を届けてくださった。

 

  石川先生を一度岡山にお招きしたいと思い叔母にも相談していたが、当地の懇意な先輩のご配意で早島町で先生の講演会を持てた。先生と別室でお寿司を頬張った記憶がある。先生の車椅子を押してみたが、動向分析研究所(石川忠雄事務所)のお付きのIさんでないと私には無理だった。飛行機で来られ新幹線で日帰りだった。叔母は残念がっていた。

 

  私の叔父・叔母は亡くなり母親の弟の嫁である叔母が健在である。

   (ひらた こうじ)<了>