「カフェ にもかかわらず 文化」
一体なんのことやら
言葉の弄びと捉えられるに 十分な言葉だ
世の中 3 という数字は バランスが良いとされている
漢文の授業で 三国の鼎立を引き合いに よく師が話していた
(もっともこれは 腹が腹痛 的な表現ではないかという 私的見解もあるが)
要は 3つなにかを並べれば それなりに恰好がつくというわけだ
新聞記事など
「AやB、Cなど」とか「Aのほか、BやC」といった表現が 教科書的に出現する
3本の矢ではないが とりあえず説得力が 数割増しとなる
三段論法などは 理論的思考の 常套でもあるし
少し話を引き戻す
「カフェ にもかかわらず 文化」
俳句も 「5 7 5」的な発想だと 小細工が聞いてて わろし
されど 特段そういう理由でつけたタイトルでは なし
関連性を考えたわけでは なし
サブコメントに わかる人にはわかる と書き記した
名誉のために言い訳をするが
基本的な思考から来た言葉では なし
犬養木堂(毅)の残した有名な言葉に 「話せばわかる」 とあるが
サブカル ドンぺリ イメチェン 短縮するのが好きな 日本語の弊害が数ミリ
デカルトの コギト エルゴ スム しかり
木堂は 「話せばわかる やつらにわかるように話してやる 話せばわかる」 と残している(とされている)
私的には非常に感銘を覚えている
対話の基本姿勢に ほかならないからだ
私の基本的な思考は わかる人はわかるというのは
わからない人には伝える術を持っていません と自白したに等しいと思って いる
にもかかわらず わかる人にはわかる と記したのは
単に 私の今の立場上の問題 だけ だ
もっとも わかる人はすでにわかっているだろう
それは それで構わないが ある面でのペルソナと捨て置いて いただき たい
くどい文章だ わかるものもわからないではないか とここまで読んだ方の割合は
内閣の支持率を あっさり超えているだろう
ながら 私の基本姿勢はそうであることを 重ね塗りしておかせてください
「カフェ にもかかわらず 文化」
本日3回目 タイトル合わせて4回目
大塚愛さんなら もう1回と叫びたいところだろうが
とりあえず この3つの言葉は 私の生活すべてが凝縮されているのだ
なので 「文化 カフェ にもかかわらず」 でも 「にもかかわらず カフェ 文化」
でも構わないのだろうが とりあえず 日本語の文脈に合わせて みた
ならば 「文化 にもかかわらず カフェ」 でもよいのだろうが・・・よい よね
いや やはり「カフェ にもかかわらず 文化」なのだ
カフェは 私の生活そのもの
にもかかわらずは 私の最後の砦
文化は 私を社会と結んでくれるメディア
・・・初回にして すでにクライマックス か
いずれ 私の正体は わかるだろうが この場で私のことは わかるかどうか
それは 私にも わからない
なぜならば この場は 完全な 空間的私的平面 だから だ
promise,see you again