
50代、身体の異音が聞こえてきた
根性で動かすな、保守で回せ
50代に入ってから、身体のあちこちに「異音」が出るようになった。
高血圧。
手足の冷え。
腰痛。
肩こり。
視力の衰え。
膝の痛み。
寝起きの疲労感。
夜中の中途覚醒。
名前が出てこない。
記憶力と集中力の低下。
そして何より、時間の流れがやけに速い。
気づけば朝。
気づけば昼。
気づけば夜。
一日が、まるで倍速再生のように過ぎていく。
こちらは何とか段取りを組み、仕事をこなし、
介護を回し、家の中の空気を整えようとしている。
それなのに、時間だけが容赦なく先へ行く。
1日どころか1ヶ月、
いや、1年単位で過ぎ去るのが早い。
これが50代のリアルなのだろうと思う。
若い頃なら、少し寝れば戻った。
多少無理をしても、翌日には何とかなった。
肩がこっても、腰が重くても、深刻には考えなかった。
身体とは、黙ってついてくるものだと思っていた。
だが、今は違う。
身体は黙っていない。
いや、正確に言えば、もっと前から小さく声を出していたのだろう。
こちらが聞く気を持っていなかっただけだ。
私は17年間、FAXの修理をしていた。
壊れた機械の前に立つ時、いきなり原因だけを見ようとはしなかった。
まず見るのは兆候だ。
いつから音が変わったのか。
紙送りが重くなったのはいつか。
印字のかすれはどのあたりから出たのか。
詰まり方に規則性はあるのか。
機械は嘘をつかない。
必ず前触れがある。
人間の身体も、たぶん同じなのだと思う。
腰が重い。
膝に違和感がある。
夜中に目が覚める。
目がかすむ。
疲れが翌朝まで残る。
名前が出てこない。
文章を書いていても、前より集中が続かない。
それは壊れた合図ではない。
壊れる前のサインだ。
だから今、見ないふりをしてはいけないのだと思う。
50代の身体は、根性で動かすものではない。
保守で回すものだ。
これは最近、かなり本気で思っている。
手をこまねいているわけではない。
むしろ、これまでの自分なりに色々と手は打っている。
まず食事だ。
ここ数か月は、お米をかなり減らしている。
というより、ほとんど食べていない時期もある。
野菜を中心にして、豆腐、鶏むね肉、もも肉などで回している。
肉体改造の流れもあり、体重はここ2か月ほど62kg台で落ち着いている。
わりと安定できているお腹周りで言えばすでに目標は達成している。
これからの継続が課題だ。
もちろん、極端にやりすぎるつもりはない。
50代の身体に無理な食事制限は危ない。
だが、食べるものを意識することは必要だ。
日々の食事と体重を見直す意味は大きい。
次に運動。
これがなかなか難しい。
仕事とダブル介護、家のこと、娘のこと。
時間はいつも足りない。
それでも数日に一回はウォーキングをするようにしている。
歩数にして5000歩から6000歩程度。
本当はもっと歩きたい。
だが、今は「できる範囲で続ける」ことを優先している。
歩行などの身体活動を増やすことや、個人差を踏まえて可能なものから取り組むこと。無理に理想の数字だけを追うより、
今の生活の中で続けられる形に落とし込むほうが、今の私には合っている。
筋トレもやっている。
腕立て。
プランク。
腹筋。
懸垂。
ただ、ここ最近は腰痛がひどく、思うようにはできていない。
ぎっくり腰一歩手前のような気配が出ると、さすがに無理はできない。
若い頃なら「気合いでいける」と思ったかもしれない。
今は違う。
ここで無理をすれば、数日どころか数週間を失う。
介護も止められない。
仕事も止められない。
だから引く。
悔しくても引く。
これも保守だ。
目の衰えも無視できない。
PC作業の時はブルーライトカット眼鏡を使い、
画面との距離を意識し、適度に休憩を入れるようにしている。
パソコンやスマホなどの画面作業が長時間続くと眼精疲労が起こりやすく、目だけでなく首、肩、腰、背中など全身症状につながることもある。
これは今の自分の実感。
老眼も進んでいる気がする。
40代までは眼鏡なしで何とか押し切っていた。
だが、もうそういう段階ではない。
見えにくいまま無理をすれば、目だけでなく肩や首にもくる。
目に合わない老眼鏡は眼精疲労など身体症状の原因になり得る。
そろそろ眼科でちゃんと見てもらうべき時期なのだろう。
そして睡眠。
ここがいちばん難しい。
もともと私は寝つきがいいほうではない。
そこへ介護が重なった。
父はいつ急変するかわからない。
母は認知症が進んできている。
夜中に物音がすれば気になる。
見守りカメラを確認する。
父の様子を見に行く。
寝たつもりでも、深いところまで沈めていない感じがある。
夜中の中途覚醒。
寝起きの疲労感。
これはかなり増えてきた。
睡眠環境、生活習慣などの見直しが大切。
50代以降は注意が必要な睡眠の問題もある。
本当は酒も減らしたほうがいい。
それはわかっている。
わかっているが、夜になるとどうしても飲んでしまう日がある。
介護の一日を終え、家の空気が少し静まった時、
そこでようやく自分に戻る感じがある。
その時に酒を入れてしまう。
だが、それで深く眠れているかと言えば違う。
むしろ眠りは浅くなる。
ここは今後の大きな課題だと思っている。
身体だけではない。
内面のほうも確実に変わってきている。
名前が出てこない。
言いたい言葉が一瞬遅れる。
記憶力も集中力も落ちている。
文章を書いていても、前より踏ん張りがきかない日がある。
これはかなり悔しい。
私はnoteを書いている。
言葉を使っている。
だからこそ、言葉がすぐ出てこない感覚は怖い。
頭の中にはある。
だが、取り出すまでに少し時間がかかる。
引き出しの場所はわかっているのに、取っ手がうまくつかめない感じだ。
それでも、書くことはやめない。
むしろ、だからこそ書く。
書くことで頭を動かす。
感情を整理する。
日々の出来事に名前をつける。
これは私にとって、精神の保守でもある。
そして、精神の休息も必要になった。
家キャン。
小高い丘。
心の避難所。
このあたりは、もう私の記事ではおなじみかもしれない。
家キャンは、玄関脇や縁側に椅子を置き、
コーヒーやノンアルを飲みながら空を見る時間。
たった5分、10分でもいい。
小高い丘は、風に吹かれながら町並みを見る場所。
遠くの山の稜線や夕日を眺めるだけで、
心の中に詰まっていたものが少し流れる。
大げさではない。
本当に必要なのだ。
介護をしていると、家の中に意識が閉じ込められる。
父の状態。
母の機嫌。
薬。
食事。
尿パック。
おむつ。
デイサービス。
訪問看護。
ケアマネ。
それらが頭の中を占領する。
だから、空を見る。
風に当たる。
数分だけでも外へ意識を逃がす。
それがなければ、たぶん心がもたない。
50代に入ってから、身体も心も確実に変わった。
衰えたと言えば、それまでだ。
だが、そこで終わらせたくはない。
衰えはある。
不調もある。
老いもある。
それでも、手をかければまだ保てる部分はある。
整えられるところはある。
負荷を減らせるところもある。
壊れる前に気づけるサインもある。
私は今、自分自身のCEになろうとしている。
高血圧には食事と運動。
冷えには身体を動かすことと湯船。
腰痛には無理をしない段取り。
肩こりには休憩と姿勢。
目には眼鏡と距離。
膝には歩き方と負荷の調整。
睡眠には夜の過ごし方。
集中力にはnoteを書く習慣。
心には家キャンと小高い丘。
どれも劇的な解決策ではない。
だが、保守とはそういうものだ。
部品交換一発で新品に戻るわけではない。
汚れを落とし、摩耗を見て、負荷を減らし、異音が出たら止まる。
そうやって、もう少し長く動けるようにする。
50代の身体は、根性で動かすものではない。
保守で回すものだ。
これから先、もっと不調は増えるかもしれない。
親の介護もさらに厳しくなるかもしれない。
自分の身体も、今より思うように動かなくなる日が来るだろう。
それでも、ただ手をこまねいているわけにはいかない。
今日できることをする。
少し歩く。
食べるものを整える。
目を休ませる。
湯に浸かる。
深呼吸する。
空を見る。
そして書く。
そうやって、今日の自分を少しだけ整える。
時の流れにあらがうことは容易ではない。
だが、流されっぱなしになる必要もない。
小さく抗う。
小さく整える。
小さく続ける。
それが今の私にできる、50代の現実との向き合い方なのだと思う。
