期末1期第1話 有名人レビュー 『伊能 忠敬』
今回は、『伊能 忠敬』についてレビューします。
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■伊能 忠敬(いのう ただたか)
延享2年1月11日(1745年2月11日)-文化15年4月13日(1818年5月17日)
江戸時代の商人・測量家です。
通称は三郎右衛門、勘解由(かげゆ)。字は子斉、号は東河。
寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、足かけ17年を
かけて全国を測量し『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の
正確な姿を明らかにしました。
1883年(明治16年)、贈正四位。
□略歴
江戸中期の測量家です。
上総(かずさ)国山辺郡小関村(千葉県九十九里町)に生まれます。
母の死後、父の実家であった武射(むさ)郡小堤の神保(じんぼ)家
に移り、18歳で下総(しもうさ)国佐原の伊能家へ婿養子に入ります。
伊能家は名家ではあったのですが負債で没落しかけていました。
そのため忠敬は酒造業を再興し、米の仲買いなどで産を築き、
名主や村方後見(むらかたこうけん)として郷土のために尽くしました。
若いときから学問を好み、数学、地理、天文書に親しみ、50歳で隠居
すると江戸に出て、19歳年下の高橋至時(よしとき)について天文学を
学びます。
当時、正確な暦をつくるうえに必要な緯度1度の里程数が定まって
おらず、天文学上の課題になっていました。
この解決のために忠敬は長い南北距離の測量を企て、北辺防備の
必要から幕府の許可を得やすい蝦夷地(えぞち)南東沿岸の測量を
出願して官許を得ます。
1800年(寛政12)期待したとおりの成果を収めますが、その後全国
の測量へと発展し、1816年(文化13)に終了するまでに、10次に
わたり、延べ旅行日数3736日、陸上測量距離4万3708キロメートル、
方位測定回数15万回という大事業となってしまいます。
道線法と交会法を併用する伝統的な方法はけっして新しくはない
のですが、細心な注意と測定点を十分に多く設ける厳密性を図った、
根気と努力の勝利といえます。
忠敬の得た子午線1度の長さは28里2分(110.75キロメートル)で、
現代の測定値と約1000分の1の誤差しかないといわれています。
忠敬は一期測量するごとに地図をつくったのですが、最終の成果
をみずに江戸・八丁堀の自宅で死去しました。
弟子たちの編集によって『大日本沿海輿地(よち)全図』が完成
されたのは1821年(文政4)です。
大図は1町(約109.1メートル)を1分(約3ミリメートル、
3万6000分の1)で214枚、
中図はその6分の1、21万6000分の1の縮尺で8枚、
小図はさらに2分の1、43万2000分の1の縮尺で3枚からできています。
これに『沿岸実測録』を添えて幕府に献上されました。
図法はサンソン図法と一致し、地球を球として扱ったため、東北
地方や北海道はやや東へずれています。
しかし、これは日本初の科学的実測図であり、当時の西欧の地図と
比べても誇るに足る業績といえます。
官製の地図とはいっても、忠敬の学問的探究心がその出発で、
下からの熱望に支えられた事業だからこそ、この輝かしい成果
を得たと考えられます。
この地図は江戸時代には一般に活用されることはなかったのですが、
明治維新後、新政府によって発行された軍事、教育、行政用の地図
に基本図として使われ、影響は明治末期にまでおよびました。
シーボルトが高橋景保(かげやす)を介して得たこの測量図によって、
外国製の地図にも日本の正しい形が描かれるようになりました。
■ついでに作った地図という説が
伊能忠孝と言えば、江戸時代に正確な日本地図を書いたことで有名
ですね。でも、実はある目的の『ついで』に作ったものらしい
という説があります。
伊能忠敬については、歴史の授業で名前は聞いてると思います。
彼は50歳を過ぎてから日本中を歩いて回ったという頑強そうな男
なのですが、実はある他の目的があり"ついで"に日本地図を
作ったそうです。
ちなみに江戸時代地図と伊能忠敬が"ついで"に作った地図を比較
してみます。
今回は、『伊能 忠敬』についてレビューします。
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■伊能 忠敬(いのう ただたか)
延享2年1月11日(1745年2月11日)-文化15年4月13日(1818年5月17日)
江戸時代の商人・測量家です。
通称は三郎右衛門、勘解由(かげゆ)。字は子斉、号は東河。
寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、足かけ17年を
かけて全国を測量し『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の
正確な姿を明らかにしました。
1883年(明治16年)、贈正四位。
□略歴
江戸中期の測量家です。
上総(かずさ)国山辺郡小関村(千葉県九十九里町)に生まれます。
母の死後、父の実家であった武射(むさ)郡小堤の神保(じんぼ)家
に移り、18歳で下総(しもうさ)国佐原の伊能家へ婿養子に入ります。
伊能家は名家ではあったのですが負債で没落しかけていました。
そのため忠敬は酒造業を再興し、米の仲買いなどで産を築き、
名主や村方後見(むらかたこうけん)として郷土のために尽くしました。
若いときから学問を好み、数学、地理、天文書に親しみ、50歳で隠居
すると江戸に出て、19歳年下の高橋至時(よしとき)について天文学を
学びます。
当時、正確な暦をつくるうえに必要な緯度1度の里程数が定まって
おらず、天文学上の課題になっていました。
この解決のために忠敬は長い南北距離の測量を企て、北辺防備の
必要から幕府の許可を得やすい蝦夷地(えぞち)南東沿岸の測量を
出願して官許を得ます。
1800年(寛政12)期待したとおりの成果を収めますが、その後全国
の測量へと発展し、1816年(文化13)に終了するまでに、10次に
わたり、延べ旅行日数3736日、陸上測量距離4万3708キロメートル、
方位測定回数15万回という大事業となってしまいます。
道線法と交会法を併用する伝統的な方法はけっして新しくはない
のですが、細心な注意と測定点を十分に多く設ける厳密性を図った、
根気と努力の勝利といえます。
忠敬の得た子午線1度の長さは28里2分(110.75キロメートル)で、
現代の測定値と約1000分の1の誤差しかないといわれています。
忠敬は一期測量するごとに地図をつくったのですが、最終の成果
をみずに江戸・八丁堀の自宅で死去しました。
弟子たちの編集によって『大日本沿海輿地(よち)全図』が完成
されたのは1821年(文政4)です。
大図は1町(約109.1メートル)を1分(約3ミリメートル、
3万6000分の1)で214枚、
中図はその6分の1、21万6000分の1の縮尺で8枚、
小図はさらに2分の1、43万2000分の1の縮尺で3枚からできています。
これに『沿岸実測録』を添えて幕府に献上されました。
図法はサンソン図法と一致し、地球を球として扱ったため、東北
地方や北海道はやや東へずれています。
しかし、これは日本初の科学的実測図であり、当時の西欧の地図と
比べても誇るに足る業績といえます。
官製の地図とはいっても、忠敬の学問的探究心がその出発で、
下からの熱望に支えられた事業だからこそ、この輝かしい成果
を得たと考えられます。
この地図は江戸時代には一般に活用されることはなかったのですが、
明治維新後、新政府によって発行された軍事、教育、行政用の地図
に基本図として使われ、影響は明治末期にまでおよびました。
シーボルトが高橋景保(かげやす)を介して得たこの測量図によって、
外国製の地図にも日本の正しい形が描かれるようになりました。
■ついでに作った地図という説が
伊能忠孝と言えば、江戸時代に正確な日本地図を書いたことで有名
ですね。でも、実はある目的の『ついで』に作ったものらしい
という説があります。
伊能忠敬については、歴史の授業で名前は聞いてると思います。
彼は50歳を過ぎてから日本中を歩いて回ったという頑強そうな男
なのですが、実はある他の目的があり"ついで"に日本地図を
作ったそうです。
ちなみに江戸時代地図と伊能忠敬が"ついで"に作った地図を比較
してみます。

出典:naomani.com
まず江戸初期の地図は、北海道は小さいし、中国地方は反り返って
四国なんて思いっきりずれていて…
ところが、伊能忠敬の日本地図は、黄色が伊能忠敬の作った地図で、
緑が現代の地図です。
北海道と九州が若干の差異がありますが、他はほとんどピッタリです。
これをこの時代に、三角測量という方法で算出して作ったのです。
驚き、凄すぎ…
なぜ地図を作ったのか、それは…
実は、地球の直径が知りたかったからなのだと…
「精巧な日本地図を書くぞ」とかいう動機ではなくて、地球の直径
を知るついでに日本地図を作ることになったんです。
どういうことかというと、
まずは「50歳で隠居して趣味の道へ」から始まります。
伊能忠敬は、50歳を過ぎ隠居してからは興味があった天文学を
学ぼうと江戸に出ます。
そこで天文学の第一人者であった「高橋至時(よしとき)」という男
(32歳)の門下生になるのです。
そこで測量と天文観測を学びます。
門下生たちの間で興味津々だったのが地球の直径だったのです。
「丸いことは分かったけど、実際にどれくらい大きいんだろう」と。
そこで伊能忠敬が『北極星を2つの場所から観測してその角度が
分かれば算出できるよね』と提案します。
そこで忠敬は「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度
を比較することで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれば地球
は球体なので外周が割り出せる」と提案します。
だけど、正確に調べるには2つの地点は距離が必要です。
そこで『江戸と蝦夷(北海道)くらい離れてば大丈夫かな』となった
のです。「それだ、蝦夷に行こう!」
だけど、当時の蝦夷に入るには幕府の許可が必要でした。
その名目として『正確な地図を作って日本の役に立ちたい』
と幕府に請願して受理されたのです。
当時考えた名目こそが『地図を作る』というものだったのです。
外国の艦隊がやって来ても、幕府には国防に欠かせぬ正確な地図
がなく、そこを突いたのです。
〇そして「いざ、蝦夷へ!」と…
伊能忠敬、55歳で江戸を出発します。あくまでも江戸と蝦夷までの
距離を正確に、正確に測るために…。
この距離が間違っていると地球の直径も狂います。
正確に、正確にと、3年を掛けて東日本の測量を終えて帰ってきます。
そして目的であった地球の直径の計算に取り掛かります。
伊能忠敬は3年間をかけて東日本の測量を終えて江戸に戻り、
実測値をもとに計算します。
彼が割出した地球の外周は約4万Kmで、現在判明している外周
と比較し1/1000の誤差しかなかったと言うのです。
〇その後の展開まで考えてたか?
幕府が、指令を下します。
伊能忠敬の持ち帰った東日本の地図を見た江戸幕府は、
『西日本の地図も作成せよ!』と言います。
体力的にも衰えていた忠敬ですが、幕命に従い、新たに西日本を
周ることとなりました。
幕府は忠敬に全国の測量をさせると共に、薩摩藩の偵察の意味も
あって全国に派遣させていたといわれています。
〇江戸への戻ってきたのは10年後
幕府に命じられた使命を果たすため、江戸を出発する伊能忠敬。
東日本こそ3年で済みましたが、西日本は予想以上に広く、実に
10年の歳月を費やしました。
江戸へ戻ってきた時には70歳でした
西日本の測量は、体力が衰え始めた忠敬には過酷であり、3年で
終わるはずが、内陸部の調査が加わったり、思いのほか四国が
広かった為に、予定の3年が経っても九州は全く手付かずでした。
〇4万キロ
彼が足掛け17年で完成させた日本地図。この為に周った距離は
なんと4万キロ。奇しくも彼が求めた、"地球の直径"と同じ距離
だったといわれてます。
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