第5話 書籍レビュー
『雨ニモ負ケズ』
今回は宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』の書籍レビューをします。
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□これを選んだ理由
小学校のころ全文記憶した一番長い文章が『雨ニモ負ケズ』だった
と思います。
宮沢賢治の事もよく知らないで小学校で習って、何となく音楽の
ような感じ、お経のような感じで覚えやすかったのと、全部を
暗唱して発表した時みんなが、「へー!」という顔で見てくれた
からだと思います。
それから時々特に理由はないのですが、何の気無しに思い出したり
文章が声にでてきたり、ずーっとを忘れていなかったのだと
思います。
贅沢をしてちょっと反省した時、梅雨や秋の長雨の中うちにいる時
雨音がする時『雨ニモ負ケズ』を思い出します。
今でも全部をそらんじていて、口ずさむことがあります。
頭の中で半分ぐらいしゃべって止めることが多いですが…
内容はすごく素晴らしいものですが、今の時代にマッチしているか
どうかは、人それぞれの考え方だと思います。
僕は結構好きなのですが…
■『雨ニモ負けズ』について
『雨ニモ負ケズ』は宮沢賢治の没後に発見された遺作のメモです。
一般には詩として受容されています。
日本中で広く知られており賢治の代表作の一つとされています。
雨ニモ負ケズ/風ニモ負ケズから始まり、サウイフモノニ/
ワタシハナリタイで終わる漢字交じりのカタカナ書きです。
全編に渡って対句のような表現が使われています。
□執筆と発表
東北砕石工場の嘱託を務めていた賢治が病に倒れ、花巻の実家に
戻って療養中だった1931年の秋の作品だと言われています。
その頃使用していた黒い手帳に鉛筆で記されていたものです。
最初のページの上の方に鉛筆で11.3の書き込みがある事から、
同年11月3日に執筆したと推定されています。
手帳は自省とその当時の賢治の願望がつづられる内容となって
います。
『雨ニモ負ケズ』はその手帳の51ページ目から59ページ目に
かけて書かれています。
この手帳は今日、研究者からは雨ニモ負ケズ手帳と呼ばれています。
実は賢治の生前には手帳自体の存在が家族にすら知られてなかった
ようで、本作も未発表のままだったそうです。
この手帳が発見されたのは賢治がなくなった翌1934年、2月16日に
東京新宿で開催された「宮沢賢治友の会」の席上です。
招かれた賢治の弟宮田清六が賢治の遺品である、大きな皮トランク
のポケットからこの手帳を取り出し、他の参会者にも回覧された
ようです。
没後1年を記念した1934年9月21日付の『岩手日報』の学芸第85に
「遺作(最後のノートから)」と題して掲載されました。
1936年11月には花巻に本冊を刻んだしが詩碑が建立され、1939年
刊行の児童向け作品集「風のまた三」郎への収録等によって広く
世に知られるようになります。
手帳は2007年7月から10月の間賢治の描いた絵画等ととも国内各所
で公開されました。
□雨ニモ負けズ原文
雨ニモ負けズの原文をここで読んで見ます。
「雨ニモマケズ」
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラツテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジヨウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ陰ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ツテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボウトヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
□解釈と評価
〇雨ニモ負ケズ論争
宮沢賢治の研究紹介を行なった哲学者の谷川徹三は、主として
テーマ的な側面から方策を高く評価し、賢治に対する偉人的評価
の象徴として本書を捉えています。
これに対して、詩人の中村稔は「書き落とした過失のように
思われる」と表して否定的な立場を表明しています。
この谷川と中村の論争が雨ニモ負ケズ論争と言われています。
〇ヒデリ論争
最初の発表時からヒデリノトキハナミダヲナガシとされている箇所
は、手帳の原文ではヒドリと書かれています
これに対して健二の弟清六をはじめ、歴代の全集編集者が誤記と
見なして校訂してきたものですが…
日雇い仕事の日取りとか、猛暑・炎熱によって目の炎症になること
を「ヒドリマゲ」ともいい、ヒドリでも良いという意見もあったり
します。
ただ、方言の解釈はその土地の風習風土から生まれているので
通常の土地名等を熟知していないと正しい意味がくみとれないと
いう意見を、賢治の生前を知る宮沢清六は言っています。
〇玄米45論
お米のご飯が少なくなってきた現代日本人にとって4合は多すぎる
と思われることが多いのですが、戦前までの日本の労働者はわずか
のおかずで大量のご飯を摂取する食習慣だったのです。
その意味では玄米4合は妥当だと思われています。
〇法華経の精神
「東ニ病気ノコドモアレバ行ツテ看病シテヤリ」以後の詩文は
『法華経』の常不軽菩薩の精神を現していると指摘されています。
なお、詩句の箇所である「ホメラレモセズ」から末尾までは、
手帳の見開き右のページとなっており、おなじ見開きの左のページ
には、南無無辺行菩薩、南無上行菩薩、南無多宝如来、
南無妙法蓮華経の題目が記されています。
■宮沢賢治
1896年8月27日から1933年9月21日
日本の詩人童話作家です。
仏教信仰と農民生活に根差した創作を行い、創作作品中に登場する
架空の理想卿「イーハトーブ」と名付けたことで知られています。
生前彼の作品はほとんど一般に知られず、無名に近かったのですが
没後草野新平らの尽力により作品群が広く知られ、世評が急速に
高まり国民的作家になっていきました。
そう言った経緯もあって日本には広く愛好者がおり、出身地である
岩手県花巻市は彼の故郷として有名です。
賢治の死去から3年後の1936年11月21日に賢治が独居自炊した
花巻市内の別宅跡跡に「雨ニモ負ケズ」の詩碑が建立されました。
賢治の作品としては最初の文学碑です。
宮沢賢治はそれ以外にも銀河鉄道の夜や風のまだ三郎で有名です。
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