引き続き、仕手筋について、説明していきたいと思うす。
戦前の明治・大正時代には、
相場に生死をかけた相場師がいたっす。
なかでも有名なのは、インテリ相場師と呼ばれた
太田収氏もその一人っす。
当時の兜町では、
「相場は経験と勘と運が全て」というような考えが、
常識となっていたっす。
そんな中、帝大(現東大)卒後に、
小池合資(後の山一證券)に入社した彼は、
とりわけ異色の存在だったす。
しかし10年もすると、
卓越した情報収集力と分析力によって、
異例の早さで社長へと就任し、
株式部の指揮を執るようになっていたす。
そんな彼が最大の仕手戦として臨んだのが、
「鐘紡株」っす。
太田氏は、当時の鐘紡の社長から、
上海への事業展開計画の情報を入手、
鐘紡の3倍増資が現実的であると判断し、
強引な買占めを行ったす。
これにより、京都の相場師として
有名であった六鹿清治氏が、
売り方として名乗りを上げたっす。
六鹿氏は鐘紡の大株主で合ったため、
大量の現物を売りに出したが、一向に株価は下がらず、
ついには空売りまでするようになったす。
しかし、鐘紡株はさらなる高値を更新し、
六鹿氏は相場からの退場を余儀なくされたっす。
この圧倒的な資金はどこから出たのか?
太田氏は、機関投資家に当て込んで
資金を調達していたっす!
これは、現在の証券会社のスキーム と
似たスキームでしたが、
彼はどのように当て込んだかというと、
なんと時価より安値で、当て込んでいったす!
時価より安ければ、当て込み先も喜んで、
現物を引き受けるということっす。
。(;°皿°)マサシク アクマテキ キシュ
しかし、この一時的な勝利の最中、
彼は死神に取り憑かれるっす。
なんと、支那事変(日中戦争)が勃発してしまったっす。
これにより、売りと買いの形成が逆転し、
株価の暴落が始まったっす。
すかさず彼は、軍需産業株である
新東株を買占め、他の投資家達も、
同じく新東株買占めたっす。
一時的に鐘紡株の損失を埋めた
太田氏であったのですが、
新東株において、利益確定の売りを契機に、
今度は新規の売り方も出てきたっす。
これにより新東株を買い占めていた
投資家達もついには、売り手に回り、
鐘紡株も下落の一方で、
山一證券は大きな損失を出してしまったす。
そして太田氏は、
この損失に対し、命をもって償うことを決意し、
山一證券に辞表を出し、遺書を残した後、
服毒によって自ら命を断ったす・・・
「相場に絶対はない」という格言もあるように、
予期せぬ不測に備えてこそ、
生き残れるのではないかと思うっす。
(`・ω・´)ゞ エントリージノ ロスカット オーダーヲ オワスレナク
次回は、仕手集団について、確認するっす。
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最後まで読んで頂きありがとうございました。
皆様のお役に立てれば、幸いです。