ハオ! エヴィです
このハオ、最近わたしと一緒にいる見えない存在たちに
流行っている挨拶です
多分、中国語の好吃(おいしい)とかのハオと一緒のハオかな。
ちょっと調べたら、最近ネット若者語で好ハオとかあるんですね~
うちの見えない存在たち、結構流行りものも好きみたいで、存在同士や存在を認知してる人間にむけて使ったり楽しんでる事があっておもしろいですw
よく、ちょっとずれたやり方してたりもしますが
(ちなみに、それを人間ごっこと表現してた。楽しんでそう)
閑話休題。
わたしが、願いを書く時に、よく出てくるのが
【制限なく生きたい】
というものでした。
なぜ、そう願うのか。
生活の端々で、【制限】を味わうから?
お金。
時間。
身体。
物理的なもの。
あらゆる分野で、『制限』の範囲を気にしないといけない、
そんなパターンあることが気になって。
そんな自分でいる事が、嫌だなあ、なんて感じて。
で、パターンがあるという事は、
それを形作る観念や思いがあるんだろうけど、
なんだろうと考えていました。
そして、パターンとして起きている事象について、
顕在意識の自我が右往左往しているのが見えたので、
思考で考え続けるのをやめて、自然の流れに委ねていました。
(源が、全自動…自然に、わたしに見せると知っているので)
なぜ、【制限なく生きたい】と願うパターンを繰り返しているんだろう?
今日、それがわかりました。
ここ数日、パターンを通して訪れる感情が、波打っているのを感じていて。
落ち着かず、委ねると決めつつも、そうできずに何かしたがってる色々する自分も眺めていました。
【制限なく生きたい】という願いを持ち続けるパターンについても、思考はちょくちょく流れ、どうにかしたがって、本や動画を見たり。
そんな中、ふと、miwaさんの『ヒカリヘ』を聞きたくなり、Youtubeで聞きました。
ワンフレーズ目が流れた所で、
ハートのあたりから
すごい愛があふれだした感じがしたの。
そして、折り重なる様に、愛着や情の存在も。
不満に見えていたいろんな、制限されたと感じてた形。
たとえば、家の中でとか、自分の姿で、
「ここがこうだったらいいのに」みたいな、些細な不満点。
ちょっとした、モヤっとする様な乱雑な部分への不満。
こうだったら良かったのに、みたいな、不足感。
それを感じさせる、今現在の表れ。表現。形。
不満な所、嫌だなって思ってた、変えたいと思っていた部分。
それらも含めて、
今の表れ全部を本当に慈しんでいて、
愛しくかけがえなく大切でたまらない、
みたいな感覚が、ハートから溢れ出した。
全てが愛しく、有難くて、涙が溢れて止まらない。
頭が「変えたいと思ってる」と思っていた、
「変えたいはずのもの」ですら、
本当は、今ある形を、
とてもとても、愛しくかけがえなく感じていたんだな。
それを知れてよかった。嬉しい。
そして、同時に気づきがあった。
【制限なく生きたい】という願いを維持するには、
【制限されて生きている】という認識・体験が必要。
【制限されて生きている】という、その実感(リアリティ)
それが、【制限なく生きたい】と実感する事を可能にしている。
【制限なく生きたい】という願いを支えているんだ。
【制限なく生きたい】という願いを持つ限り、
それを支える【制限されて生きている】という実感が存在し続ける必要が生じる。
…なんで【制限なく生きたい】のか。
エゴのわたしは"制限されて生きる事"を、
嫌って受け入れてなかった。
そうして、【制限されて生きている】という実感(リアリティ)が表れ続けてた。
さあ、これで、嫌ったり拒否していられる。
制限された表れは、万物の在り様を、知る為のギフトみたいなもんなんだけどね。
それでいて、実際のところ、
別側面のわたしは、今の表現(制限)を愛していた。
その自分(側面)は同時に存在していた。
そして【この制限の形を愛してる】【手放したくない】【そのままがいい】、わたしも。
やっぱり、【制限なく生きたい】【その様に変化したい】自分(側面)を存在させ、維持する。
⇒【制限されて生きている】という実感(リアリティ)が表れる。⇒さあ、これで、嫌ったり拒否していられる。⇒エゴのわたしは"制限される事"を、嫌って受け入れてなかった。⇒ 制限なく生きたい、そう変化したい ⇒ 【手放したくない】【そのままがいい】、わたし が必要 ⇒ 【制限されて生きている】という実感(リアリティ)が維持される ⇒ さあ、これで、嫌ったり拒否していられる。⇒エゴのわたしは"制限される事"を、嫌って受け入れてなかった。⇒ 制限なく生きたい、そう変化したい ⇒ 【手放したくない】【そのままがいい】、わたし が必要 ⇒ …
……見事! 執着と受け入れ拒否の織り成す【制限なく生きたい】ループ、完成!
源の視点、意識は、ずっと変わらずに、それら『全部』を愛している。
今の表れも、その今の表れへの愛着や情、執着も。
それを嫌う思考も、そこから生まれている願いも。
どの側面も。それを通じての体験も。
言葉で表現しにくいけど、全部が同時にあり、愛されている。
ハートから溢れ出す慈愛の感覚から知った。
見えなくても、ずっと、愛のまなざしがそこにあったと。
あり続けると。
ただ、見える全てが愛しくかけがえなく奇跡の様。
そうやって見ている。
制限を嫌うわたしも愛され、存在を許され続けている。
わたしが、制限を嫌う思考に同化し体験したい限り、ずっとそうだろう。
だけど、もう
ハートからあふれる感覚を通して、知っている。
制限された表れも、制限を嫌う自分も、
あらゆる表れを愛してる感覚でいっぱいになる。
"わたし"は、あらゆるループの中の一部ではない。
そこに同一化しているエゴでもない。
見てるまなざし。
俯瞰して(同一化せず純粋にまなざしとして)見てる事も、見ている対象物の視点に入り込み実感(リアリティ)を持って主観モードすることもできる。
両方、同時にできる。
わたしが思考で望んでいた「制限なく生きる」、は結局、制限の中視点だった。
ループの中、ジオラマの中。
ジャッジの中。
制限なくでもいい。制限されてもいい。
どうせ、制限は、万物を知る為の、仮の分離(幻想)だから。
どうせ、本当は無限だから。
どうせ、どれでも選べる中、それを選んで、見ている(愛している)んだから。
今回の、制限というテーマだけじゃなく。
あらゆる事でそうなんだと感じる。
どっちでもいい。
その時々に、自然とその様に表れる形でいい。
絶対に愛や安寧、調和や喜びが見いだせるから。
無限を見渡す場所で、制限が見せてくれる形に注目してる。
安寧の中、愛で(めで)、慈み、楽しむの。
結局、そうでなかったことなど、ないのだから。
わたしたちが、
そのまなざしでなかったことなんか、
ないんだから。
(思い出しても、思い出さなくてもいい。どうせ気づき思い出すから。どうせそのまなざしだから。)
今までも、知ってたは知ってた、
広い意識というか視点というか視座というか…
そこからのまなざしに安らいでいる。
その感覚でいる今を感じる。
本当の"わたし"が何なのかわかっている。
そんな瞬間を感じている事が多くなりました。
それをエネルギー的に知っている。
知る。
そんな気づきが、またひとつ、もたらされました。
***
わたしの立ち会うヒーリングは、
【この"源の視点"で、起こることを見る】というものなのです。
あなたという存在を通して、源がもたらす運び、恩恵が表現されるのを見ます。
あなたの色々な次元に、それは表現されます。3次元BODYにもね!
(源まかせなので表れ方はオリジナルで固有で未知ですけどね)
この視点を覆い隠す働きをする観念から自由になるフェーズ、
大絶賛続行中みたい。
自然体で、ベイビーステップ
それではまた💛
あたたかくして、
素敵な時間をおすごしください
よいお年を
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あれ、どっちでもいいって、それ、
【制限なく生き】てない?
わたしの「制限なく生きたい!」って願い(執着)こそ、制限の採用だったね
マジ、『制限なく生きたい』という願いを支える、『この制限を愛している』だったじゃないですか~ 改めて気づいて笑っちゃった。
ちなみに、源視点では、願い(自然な受容や選択)の様に表れるのではないかなと今思う。
お後がよろしいようで