気づきがいっぱい


気づきや閃きは何処から来るのかと、おっしゃる方が居ますが、気づきの材料は私達の日常の中に溢れかえって居ます。ただ、気づくか気づかないか、気づこうとして居るか居ないか、それだけのことなんだと思うんです。困った時だけ、その苦脳から逃れる媚薬を欲しがる都合のいい生き方をしているか、居ないかだけのことではないでしょうか。自分は、頭が悪いからと、おっしゃる人が居ますが、本当に頭が悪いんでしょうか。悪賢いと言う言葉も有りますが、そのぶるいではないでしょうか。自分を卑下する人は、もの凄くエゴの強い人だと思いますよ、目的の為には手段を選ばない的な・・・


そして、名役者を演じているのは、プロの坊主ではないでしょうか。すべての坊主がとは言いませんが、もはや仏教は産業化してしまって、プロの坊さんに成る為の修行が、職業訓練に成って居ますよ。仏教とは死人を相手にする商売では無いんですが、そのことが本文に成って居るでしょう。坊主は、表向きはその様に見えるだけだと言いますが。実際に、その中に入って裏の事情まで見渡したならば、腸の腐ったこ汚いものしか出て来ないのと違いますか。実際にプロの僧侶に成ろうと純粋な気持ちで志願したら、ラッキーが言っていることがよく解りますよ。そのことは五百年前の僧侶、一休さんも嘆いて居ますよ。良寛さんに至っては、屁も出ないんでしょう、相手にもして居ないですよ。


物事の本質や真理に興味の無い人は、仏とは「あの世」の遠い存在の様に思っている人が殆んどですが、実は、私達の日常の生活の目標であり、仏の道に沿って歩くことが、私達が目標にするべき人道なんですよ。私達の心の中に染み込んだ汚れを洗濯して行くことを修行と言うんですよ。修行とは心を洗濯することですよ。その様な簡単な物事の通りを難しくして居るのが、プロの坊主達で、現在の坊主に真の悟りに達している者など居やしないですよ、色と金の境地に達して居る者ばかりですよ。


何時だったか、外国の青年がやって来て、禅寺に入り修行するも、ラッキーが言っている現実にぶつかり、心が渦巻に成り、生活する資金も底を尽き途方に暮れた時に、ホームレスに成って修行すればいいと覚悟を決めて山に入り坐り始めたんだって、すると、修行を目的に山に入って来る人達が毎日のように目の前を通り過ぎて行く。ある日、自分と同い年くらいの若者が自分の前で立ち止まり、あなたは善いですねって言うんだって、えっ、何がですかと、返すと。あなたは、毎日山で修行が出来て善いですねって。自分は、月曜から金曜まで仕事をして、週に、二日しか山に入れない。あなたは、毎日坐れて善いですねぇーって・・・・


その時、この外国人の青年は、鉄の棒で頭を叩き割られた気がして、はっとしましたって言うんですよ。途方に暮れた迷える者が幸せだと言われた時に、はっとしたって、これが気づきなんですよ。そこで、苦笑いをしているあなただったら、要らん世話すなーって言っているかもね。生きることに迷子になっている人と言うのは、自己中心的過ぎるんですよ。この前も講釈しましたが、西洋人の生き方は自分を主張する事で、仏教の本分は自分を捨てることですから、真反対に位置する真理でしょう。だから、国産人はまだ解りやすいんですが、渡来人にとっては難解な世界なんですよ。国産って言っても、最近のメイドイン ジャパンでは渡来人となんら変わらないですけどね、まだ、渡来人の方がましかもしれませんよ、ドイツ当たりだと、真剣に仏教に向かい合っているとか聞きますからね・・・


でも、道場を開くと繁盛するって言ってたから、時間の問題だろうけどね。仏道は、繁盛したら駄目に成るんですよ。命の瀬戸際で生きるからこそ、純粋な心が宿るんですよ。阿闍梨(あじゃり)っているでしょう。千日修行とかして達成した人を奉って言っているんですが。贅沢三昧の暮らしに慣らされた者から見るからスゴイって成るんだけれど、空海さんの時代、千二百年前は、取り巻きの雲水でもこれくらいのことは日常的じゃなかったんでしょうか。大阿闍梨なんて崇めて、奉るでしょう。そうこうしている内に、修行の精神は何処へやらなんですよ。これくらいの修行を積むとね、超能力と言われる力は確かに身に付きますよ。ほとんどの人は、その超能力に魅力を感じているだけなんですよ。病気を治してもらったとかね。それが無かったら、千日の修行も、屁一つで終わりですよ。なんか、変なおっちゃんやなぁー、ぷーってね プーでるですよ。


それはそれで、なんも悪いことでは無いんですが、気づきける人は特別な能力を持ち合わせているから気づいたり閃いたりしているんでは無く、素直に物事を見て、受け止めているだけなんですよ。その素直なことが特別なことに成るのかも知れませんけどね、文明社会では。ここで、苦笑いをした人は、以前の日記で、文明人とは、人殺しの事だと言った講釈を思い出した人ではないでしょうか。


あなたの幸せと健康を祈ります(^^)v


【ラッキーの一言】人が、美しく成るのは塗りの技術じゃないんだぜ。


ラッキーでした(^O^)

旅のはじめの一歩


私達の人生には、何度かの分岐点があり、その度に踏み出しの一歩が有ります。千里の旅も一歩からと言われる様に、始まりは一歩からです。今日の私達の旅と言えば、車、新幹線、飛行機、船が決まりで、徒歩で旅する人は変人と言われるほどに珍しく成りました。四国遍路の旅も、乗り物に乗っての観光遍路が殆んどで、徒歩での一歩の重みを感じる人は少ないでしょう。人生の旅もしかりで、兎角高い目標を立て、高みを目指すも途中で倒れ、道半ばにしてリタイヤして居る人をよく見かけますが、灯台下暗しで、自分の足元が見えていない、見て居ない。新名所に成った東京スカイツリーも、基礎工事からの一歩から始まり、一歩一歩を積み重ねた様に、私達の人生も、一歩一歩の積み重ねで、如何に早く目標に到達するかよりも、一日一日の景色をしっかり眺め、味わいながら歩くことが何よりではないでしょうか。


昨日、岡山城の辺りで、そば屋が開くのを待って居ると、外人さんを始め、様々な人達が観光の旅をしている、婆の二人ずれは、日常生活の延長線の話しで、人の悪口を話しながら先を急いでいる。六十歳は過ぎて居るだろうと思える、お釜さんとおばちゃんのカップルは、お釜さんが人生論を講釈しながら手を組んで歩いて行く、人生論って言っても、自分は人の評価は気にしないと言ったものなんだけれど、熱心に頷きながら、おばちゃんは腕にしがみ付いて居る、セミ見たいに。背の高いお釜さんで、190センチはあるでしょうか。カメラを首からぶら下げて歩く人も多く、写して居るものは、どれもこれも絵葉書にも成らない様な景色ばかりをバシャバシャ写して居る。カメラは皆さん一眼レフで高いのものを持っては居るんですが、物事が見えていない、見て居ない。


女性五人ずれの外人さんが、通訳を伴ってやって来たので、グッドモーニング、グッドアフタヌーン、ご機嫌よう、さいならって手を振ると、皆さんそろって、あははは、さいならって手を振ってくれるんです。通訳は、グッバイって言うから、ご苦労さんってねぎらって上げたんだけれど。皆さん、景色を見て居ないよ、観光しているのか、駄弁りに来て居るのか。観光の旅をしている人達は、こんなものなんだけれどね。それで、あそこも行った、ここも行ったって足跡を残すことが嬉しい見たいなんだけれど、一日一日の時間をもう少し有意義に使い幸福な時間を味わったら如何なものでしょうと提案したくなったと言う講釈でした。


ラッキー/ありがとう日記も、七月五日で丁度五年に成るんですが、ラッキーにも、次への分岐点が訪れた様で、今の場所から七月末を持って撤去しようと思っていますので、日記は、その前には止まると思います。楽天の、ラッキー/ありがとう日記には1600を超える日記がありますから、時々でも、お立ち寄り下さいまし。移転後に、もしも余裕が有れば、また、お会い出来る日が来るかもしれませんが、取り敢えず流れを報告して置きます。


あなたの幸せと健康を祈ります(^^)v


【ラッキーの一言】人は、今を生きることの積み重ねなんだね。


ラッキーでした(^O^)

自分を捨てるとは


昨日の日記の、ラッキーの一言に書いてある、自分を捨てるとは、どう言う意味なのか。禅僧の偉い坊さん達からも聞く言葉で、何時かその意味を知りたいと思っていたので是非にとお願いされたので、自分を捨てるについて講釈します。自分を捨てるとは、ズバリ言うと、自分の主張を捨てると言う意味です。自分の自我と言ってもいいでしょう。もっと深い処の意味では、自分は存在していても、自意識を消し去るという悟りの境地のことです。達磨さんだったかな、ただ坐ると言ったのは?坐禅も坐って見たら解ると思いますが、坐るだけで悟りの境地には達するものではありません。そしてこの自分を捨てると言うのは、西洋の教育を受けて育った人は、理解するのはもの凄く難しいことなんです。向こうは、自分を主張して、自分の存在を知らしめることが生きることなんですから・・・


で、自分を捨てたら、本当の自分に出会えると書きましたが、世の中が見えても来ます。で、何が見えて来るのか? 自分は、今、生きて存在しているんですが、実は、自分の力で生きているんでは無い、自分を取り巻いてくれている、沢山の人達の力に寄って生かされていると言うことを実感するように成るんです。本当の自分とは、何を指して言っているのかと言うと、今、こうして存在している自分は、飾りがいっぱいで、上手に化粧して化けている自分が、あーじゃーこうじゃー言うて、演技している自分は本当の自分じゃ無くて、影の様なもので、実は、もう一人、魂と呼ばれている演技などしない純粋な状態の自分が隠れていて、その自分に出会えると言うことです。その為には、飾りを着けて演技している自分を捨て去ると言う意味での、捨てるなんです。


その様なことに気づくと、では、真に生きるとは、どう言うことなのかと、また、新たな疑問が生まれて来る。それを見つけに行くのが修行と呼ばれているものなんです。山にこもる人も居るでしょう。坐禅をする者も居るでしょう。ラッキーの様に、何もしないで講釈だけする者も居ます。何もしないけれど、その答えは知って居ます。なぜ、知って居るのかは自分でも不思議なんですが、過去にこの件については卒業していて、今生では、それを講釈する役割に成っているんだと思うんです。生きる目的は以前の日記に、何度も書いて居ますからここでは省きます。


生きるとは、自分の取り巻きの力に寄って生かされている。社会の力に寄って生かされている。自然の力で生かされている。宇宙の法則によって生かされている。この様に意識がどんどん広がって行き、それらとの信頼を得ること、持つ事が、生きることなんだと解って来るんです。ですから、生きるとは、自分の欲望を満たすことでは無いんです。私達のほとんどは、自分の欲望を満たすことだと解釈して居て、好き勝手なことを言って茶番劇を演じているんです。ご理解頂けたでしょうか。


この様なことを教える立場の僧侶そのものが、葬儀業者化していて信仰機関としての機能はゼロの状態で、自分達だけが楽に暮らすことだけを考える大集団になり、その中でも、どす黒いエゴが渦を撒き、命の取り合いをやって居ると言うのが現状の日本の仏教のあり様なんです。神社仏閣ばかりではなく、様々な団体で同じ様などす黒いエゴが渦巻いている。それが現在の世の中のあり様で、世の中のほとんどの人は、その様な権力闘争に勝利した者を有難がり、知名度で人を判断し、それらの人を信じて無責任に生きている。その程度で世の中は動いているんですから、難しいですよ、何事も・・・


そして人間は極の貧をしり、また、衣食住の豊かさも手にした経験を持つ者で無いと、なかなか自分を捨てることで得る喜びを実感するのは難しいと思います。人の苦しみを自分のことのように受け止めて行動出来る人がどれくらい居るでしょう。口先だけの思いじゃ無くて、実践出来る人が・・・「自分を捨てる」為の修行を目指すものには、とても、心に響く言葉なんですが、そこへ辿り着ける人がどれくらい居るでしょう。現在の仏教集団の中に一人いるだろうかと言う処では無いでしょうか。テレビやラジオで講釈している坊主は、講釈だけですよ、ラッキーと同じで、久米の仙人以下ですよ、皆・・・


あなたの幸せと健康を祈ります(^^)v


【ラッキーの一言】知識だけでは、至福の時間は訪れないなぁー


ラッキーでした(^O^)

心の大掃除


昨日の、話しの質問者は、今の時代を生きるのに何を学び実践して行くことが必要なのかが聞きたかった様なんです。言葉の解釈は受け止め方ひとつで、随分と違った解釈に成ってしまうことを改めて実感しました。今の時代とは、どんな時代だと考えるかなんですが、ラッキーのとらえ方は、身も心も冷やす時代だと受け止めています。食生活の習慣を見ても身体を冷やすことが日常的で、何が身体を冷やす原因になっているのかも、殆んど理解されないままに、自分の嗜好の赴くままに生活出来る世の中が良いか悪いかはさて置き、身体を冷やす時代だと言うことは確かです。


そして人と人のコミュニケーションは横繋がりばかりで根が無い。根が無いから薄情で人を思いやる気持ちは遠のき、自己中心的な生き方が当たり前で、権利ばかりを主張し義務や責任は人事と言う風潮が目につきます。そして人の心には「迷い」が生まれ、どの様に生きて行ったら良いのかと不安が心を支配し、多くの人達は「イライラ」と「怒り」によって、人間関係にいらだち、人間不信に陥っている人が増えて居ます。身体の痛みを抑える薬は、冷やすことに寄って痛みを抑えて居て、治して居るんでは無いんです。こんなことも知らない人が多いのと違いますか。私達は、商業ペースで洗脳されて居ますから、彼らに取って都合の悪い情報は一般には流れにくいし、教えてくれる人も少ないから知らないのは無理も無いんですが。


その様な話しは、氷山の一角で、ありとあらゆるところで、真実をネジ曲げた情報で私達の暮らしは操られていると言っても過言では無い時代ですから、温かい心に包まれることは無いと言っても言い過ぎではないでしょう。だから、ラッキーは、心の大掃除を皆さんに勧めるんです。人を思いやる心は、先ずは、自分自身を思いやることから広がって行くもので、自分を思いやるとは、自己中心的に生きろと言うことでは無く、自分が嫌なことは、他人も嫌なことだと知ることを意味して居ます。


他人を思いやって居ると、人間関係は円滑に流れ、自分への思いやりがあれば、自己嫌悪に悩まされることは無く成り。世の中への思いやりがあれば、自然に自分の生きる方向が見えて来ます。自分自身の不甲斐なさや、世の中の無責任さに腹を立てるのではなく、「思いやる心」を持つことで、発想の転換を試みて貰いたいんです。そう言う意味では、自己中心的に、先ず、自分が変わり、それが連鎖して周りが変わり始める。この波動の法則は多くの人が実践し、実感したと言うメールを沢山頂いて居ます。


今の時代は、テレビやラジオ、インターネットから、沢山の情報が瞬時に入って来て、その情報から逃れることは不可能と言えるほどで、その情報が私達の心を左右しているんです。不愉快に成る情報は、その波動が私達の心や身体に悪い影響及ぼしているんです。不愉快な情報から怒りが生まれたりするでしょう。楽しく成れる情報は善い影響を与えてくれますが、どちらの波動が強いかと言うと、ムットする感情が生まれたならば、一万個のガン細胞が生まれ、あはははと、大笑いをするとニ千個のガン細胞が死滅します。この様な数字を知れば、如何に、健康を維持する事が難しいか見当が着くんではないでしょうか。この様な話しも氷山の一角で、今の時代に、病気に成らない者は、よほどの時代遅れか仙人で、愚かな暇人は、連日病の話しに花を咲かせて居て、まるで病気のデパートで、あらゆる病人が終結しては、風呂端会議ですよ。


あなたの幸せと健康を祈ります(^^)v


【ラッキーの一言】心の大掃除とは、自分を捨てることです。自分を捨て去った時、本当の自分に出会える。


ラッキーでした(^O^)

学び上手


世の中には、賢者と呼ばれる人と愚か者と呼ばれる人が居ますが、その違いは何処からなんでしょう。生まれた時からと言うのが真実なんですが、では、愚か者は、賢い人に追いつけないのかと言うと、そんな事はありません。賢い人に成りたい愚かな人の為に、愚か者が賢い人に追いつく学び方を講釈します。一生を愚か者で終るか、賢い人に成るかは、学ぶか学ばないかだけのことなんです。愚かな人とは、賢い人と長い間一緒に居ても何も学ばない人のことです。それが愚か者の生き方で、賢い人と言うのは、人の話しをよく聞き、上手に質問もし、学ぶことが好きで学び方が上手なんです。


愚かな人と言うのは、人から学ぼうとしないから成長が遅いんです。まず、自分自身が愚か者だと気づいて居ない所が、愚か者が愚か者である由縁ですから、やっぱ愚か者は、愚か者の道を歩くしか道はありませんから、今日の講釈には無理があるかも知れません。が、焼け糞で続けます。賢い人と言うのは、自分がやるべきことに集中して実行しますが、愚かな者は、結果ばかりに気を取られた結果、なにもしないままに時間だけが過ぎて行くから前に進めないんです。


昔話に、こんな話しがあります。夏の盛りに、畑仕事をしている男が二人居ます。風も無く、日陰が欲しく成るのが人情で、見渡すと、遠くに入道雲が見えます。あの雲が、早くここまで来ないかな、そしたら、雲が陰に成り涼しく成るのになぁーと思うんです。そう思うと、雲が来るのが待ち遠しくて、待ち遠しくてたまりません。でも、雲はゆっくりとしか動きません。なかなか思う様に動いてくれ無い雲にイライラしてきた男は、畑仕事を投げ出し動かない雲ばかりを眺めていて、畑仕事は前に進みません。もう一人の男は、畑仕事に汗を流して居て、心頭滅却すれば火もまた涼しいと思っているのかどうかは解りませんが、無我の境地で作業の手を休めませんから、時間もあっという間に過ぎ、気づくと遠くに見えて居た雲が近くに来て居て陰を作ってくれている。


男は、涼しい陰で、一休みするかと手を休めますが、イライラして雲ばかり眺めていた男は、自分がしなければならない仕事が進んで居ないことに気づき、それどころじゃありません。やっと待ちかねて居た雲が近くに来て陰を作ってくれたのに、腹を立てながら畑仕事をする羽目に成りました。自分のやるべきことをせずに、先のことばかりに気を取られて居た結果ですから、身から出た錆ですよね。賢い人は、結果を気にする前に、自分のやるべきことを淡々とやることが先。その結果は、後からついて来ると言う考え方が出来るのが賢い人なんです。


愚かな人と言うのは、結果ばかりを問題にして、やるべきこと、出来ることをしない人の事なんです。今を懸命に生きることがすべてなんだと気がついて、四の五の言わずに実践する人が賢い人で、賢い人の特徴として、成功している人の真似を試みる。人のより好みをしない。自分の苦手な分野の話しにも積極的に耳を傾けて聞き上手。その反対に愚かな人と言うのは、人の話しは聞かず、自分の言いたい事を急ぎます。その割に、結論には辿り着かない話しが殆んどで、たまに、結論に辿り着いたと思ったら、昨日のスポーツの結果と昨日の天気くらいですよ、鵜呑みにして間違いないのは。インターネットの時代に、瓦版屋の話しを聞くのは、籠に乗ってのぞみを追いかける様なものかも知れません。愚かな人と、賢い人の間の差は・・・


でも、愚か者は、愚か者でいいと言うのがラッキーの考え方でもあるんです。愚か者は、愚か者の歌を歌えば良い。賢者だ、愚か者だと言ったところで、人間として生れた限りは、一生が学びなんですから。愚か者丸出しで生きれば、これ又楽しい人生に成るのと違いますか、賢こぶって生きるよりは・・・


あなたの幸せと健康を祈ります(^^)v


【ラッキーの一言】何であれ、人に喜んで貰える自分を目指せ。


ラッキーでした(^O^)