≪今日の読み物≫
 
 
本「天一天上」
 
 
「天一天上」(てんいちてんじょう)とは、癸巳~戊申の16日間をいい、今回は8月6日~21日にあたります。
 
 
「天一神」(てんいちじん)という方角神が天上に行ってしまい、悪さをしない佳日とされ、天一天上の間は天一神の祟りがなく方角の禁忌はなくなるので、どの方角へ出掛けるにも良しとされました。特に縁起を担ぐ相場師に利用されたといわれています。
 
 
そのかわり、この期間中は日遊神が地上に降りて家の中に留まります。屋内の汚れた人家には祟りをするといわれていますから、清潔にしておかなければなりません。
 
 
天一神は方角神のひとつで、中神(なかがみ)ともいい、地星の霊で荒神です。天と地の間を規則正しく往復し、四方八方を巡り、人の吉凶禍福を司ります。
 
 
天一神のいる方角を犯すと祟りがあるとされ、神の滞在する方角を「塞がり」といってこの方角を犯すことを忌み、このことを「物忌み」といいます。その方角に真っ直ぐ向かうことは禁物で、どうしてもその方角に行かなければならない時は「方違え」をします。
 
 
 「天一神の遊行日」
 
■乙卯から5日間…卯(東)
 
■庚申から6日間…巽(南東)
 
■丙寅から5日間…午(南)
 
■辛未から6日間…坤(南西)
 
■丁丑から5日間…酉(西)
 
■壬午から6日間…乾(北西)
 
■戊子から5日間…子(北)
 
■己酉から6日間…艮(北東)
 
 
この期間この方角に、天一神が天上から降りてきて下界八方を巡って過ごしますから、この方角を忌み、この方角に向かっての出産、争い事、殺生、弓を射ることなどを忌み嫌うのです。
 
 
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本「広島平和記念日」
 
 
昭和20年(1945)8月6日午前8時15分17秒、米軍B29爆撃機「エラノ・ゲイ」が、広島市上空で世界初の原子爆弾「リトルボーイ」を投下し、一瞬にして市街を全滅させ、市民を殺戮しました。
 
 
アメリカ原爆開発「マンハッタン計画」の提案者は、アルバート・アインシュタインとレオ・シラード、その責任者はロバート・オッペンハイマーです。
 
 
当初の計画では、ナチスドイツに対抗するために造られていましたが、製造途中でドイツが降伏してしまったために、ターゲットは日本に変更されたのだとか。
 
 
広島が選ばれた理由は、都市の大きさや地形が原爆の破壊能力を実験するに適当であり、かつ投下後の効果を確認しやすかったことと、軍事施設などが集中していたことなどからです。
 
 
昭和22年(1947)以来、毎年8月6日に市長による「平和宣言」、広島市の子供代表の「平和の誓い」が述べられ、世界平和への祈りが宣言されます。
 
 
原爆死没者の霊を慰め、世界の平和を祈念するため、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑前に於いて、記念式典が行われます。(広島市原爆死没者慰霊式、平和記念式)
 
 
原爆が投下された8時15分、平和の鐘やサイレンを鳴らして、1分間の黙祷を行います。
 
 
広島平和記念公園
 ◇広島県広島市中区中島町・大手町1丁目
 
◇JR「広島駅」から広電「広電江波・宮島口行」路面電車「原爆ドーム前」下車
 
 
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本「仙台七夕」
 
 
東北三大祭りの一つ「仙台七夕」(せんだいたなばた)は、五節句の一つ「七夕・しちせき」に因んで行われる祭りで、月遅れ8月7日を中心として8月6日から8日にかけて毎年行われています。
 
 
江戸時代初期、仙台藩の祖「伊達政宗」が、婦女に対する文化向上の目的で七夕を奨励したところ、仙台で盛んな年中行事の一つになったとされています。
 
 
後に、荒廃した世俗の世直し目的に行われたり、不景気対策として商店街に七夕飾りを飾っての集客目的に行われ、七夕という風習は「七夕祭り」という昼間の商店街で行われるイベントと変わっていきました。
 
 
戦時中は規模の縮小があったものの、昭和21年(1946)仙台空襲で焼け野原になった街に、52本の竹飾りで復活し、翌昭和22年(1947)昭和天皇巡幸の時には、沿道に5000本の竹飾りを並べて大規模な七夕祭りが復活しました。
 
 
七夕祭りはもともと旧暦7月7日の行事で、6日の夕方から笹竹を飾り姫星と彦星を祭って、手習い事の上達を願う行事でした。笹竹飾りは8日の朝には川に流されていました。
 
 
その後、七夕祭りは商店街振興から観光イベントへと変貌していき、昭和45年(1970)から「動く七夕パレード」(星の宵まつり)が始まり、夜のイベントも加わりました。昭和58年(1983)からは、「夕涼みコンサート」も開かれるようになり、全国から訪れる観光客を楽しませてくれます。
 
 
 
七夕飾りの目玉のひとつに、大きな「くす玉」がありますが、考案者の森権五郎さん宅の庭に咲く美しい「ダリアの花」がヒントなのだそう。吹き流しとともに飾りの主流になっています。
 
 
七夕飾りにはそれぞれ意味があります。短冊は「学問や書の上達を願う」もの。紙衣は「病や災いの身代わり」または「裁縫の上達を願う」。折鶴は「長寿」を願い、巾着は「富貴と貯蓄、商売繁盛」を。投網は「豊漁」、屑篭には飾り付けを作るとき出た裁ち屑や紙屑を入れ「清潔と倹約」を願い、吹き流しは「織姫の織り糸」を象徴しています。
 
 
仙台市都心部の一番町、中央通りなどのアーケード街、仙台駅を中心に、市内各地で大小様々な七夕飾りが飾られ、工夫を凝らした七夕飾りはその華麗さを競います。前夜祭「七夕花火祭」から合わせて毎年2百万人の人出で賑わいます。
 
 
8月5日 仙台七夕花火祭
 
6~8日 仙台七夕まつり
 
 
開催場所◇宮城県仙台市
 ◇仙台内中心部各商店街・周辺商店街他
 
◇JR東日本「あおば通駅」「仙台駅」
 
※お問い合わせ※仙台七夕まつり協賛会
        TEL 022-265-8185
 
 
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≪今日の読み物≫
 
 
本「久留米祭」
 
 
水の祭典「久留米まつり」は、福岡県久留米市で行われる筑後地区最大の夏祭りで、市民のまつりとして、また筑後の風物詩として定着しています。パワーストリート、パレード、仮装行列、時代行列太鼓響演会などが行われます。
 
 
昭和22年(1947)に行われた「久留米市復興祭」が久留米まつりの始まりです。パレードでは、神輿を担いで水をかけられながら町を練り歩き、夜には久留米の伝統的芸能でもある「そろばん総踊り」が披露されます。最終日には筑後川花火大会が行われます。
 
 
開催地◇福岡県久留米市
 
◇久留米市日吉町明治通りお祭り広場全域
◇西鉄「久留米駅」徒歩5分
 
 
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本「山形花笠祭」
 
 
「花笠まつり」(はながさまつり)は、昭和38年(1963)蔵王の観光開発とPRを目的に「蔵王夏祭り」の「花笠音頭パレード」としてスタートしました。現在は東北四大祭りのうちの一つになっています。
 
 
花笠まつりで歌われる「花笠音頭」の起源は、大正中期に尾花沢で土木作業時の調子あわせに歌われた「土突き歌」が起源。昭和になってこれが民謡化され「花笠音頭」「花笠踊り唄」となりました。
 
 
「ヤッショ~マカショ!」の掛け声と花笠太鼓、統一された衣裳に、山形の花「紅花」をあしらった花笠を手にした踊り手のダイナミックな踊り、一糸乱れぬ集団美が醍醐味です。
 
 
毎年8月5~7日の3日間開催されます。花笠音頭に合わせて約1万人の踊り手が華麗に市内を練り歩きます。飛び入りもOK!毎年100万人の人出で賑わいます。
 
 
開催地◇山形県山形市七日町、十日町など
 
※お問い合わせ※山形県花笠協議会事務局
        TEL 023-642-8753
 
 
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本「東京佃祭」
 
 
「佃祭」(つください)は、佃島の鎮守「住吉神社」の例大祭で、3年に1度行なわれます。
 
 
佃島(つくだじま)は、隅田川の河口に浮かんでいた小島でしたが、徳川家康が関東に下降の際、攝津の国佃村から漁民を呼び寄せてここに住まわせてから江戸市中に海産物を供給する漁村として発展しました。
 
 
漁民達はこの島を「佃島」と呼び、故郷の「住吉神社」を勧請して島内に祀り鎮守さまとしました。
 
 
家康は漁民に「漁業権」を与え、その代わりに取った魚の一部を献上させました。この佃の漁民によって、築地魚河岸に移転する前の「日本橋魚河岸」の基礎が出来ました。
 
 
佃島の祭は、徳川四代将軍家綱の誕生を祝って始められたと伝わります。明治以降、島の周囲が次々と埋め立てられ、近年は超高層ビル街ともなっています。
 
 
落語「佃祭」の噺は、「情けは人のためならず、めぐりめぐりて己が身のため」というような事を言いますが、なかなか人に情けをかけるのは難しいものでございます…と、始まります。
 
 
お玉ヶ池で小間物屋を営む次郎兵衛は、佃島の住吉神社の祭りを見物に出かけ、しまい船に乗りかけると、女に袖を引かれ留められました。そして、乗ろうとした船は沈んでしまいます。
 
 
その女は「3年前に5両のお金をなくして吾妻橋から身を投げようとしていた若い娘を助け、5両のお金を恵んでくれたのをご存知でしたか?」と尋ねました。
 
 
その時、娘は助けてくれた次郎兵衛の住まいも名前も聞いていないので、後で礼の行きようがありません。しかし、娘はその恩を忘れてはいませんでした。次郎兵衛は思い出し、その女の家に呼ばれ、その連れ合いからもご馳走になります。
 
 
次郎兵衛の帰りを待つ家では、船が沈んで次郎兵衛が死んだというので弔いが始まってしまいます。その悔やみの口上がたまらなく面白いのですが…話しが逸れました。
 
 
「住吉神社」は、正保3年(1646)住吉大社の分神霊を奉遷祭祀し建立されました。佃島は江戸湊の入口に位置し、海運業、各問屋組合をはじめ多くの人々から海上安全、渡航安全の守護神として崇敬されました。
 
 
その後、月島、勝どき、豊海、晴海と埋め立てが行なわれ、地域の産土神として信仰されています。
 
 
住吉神社の例大祭「佃祭り」は、江戸幕府に許可された由緒ある祭りとして今日に至ります。
 
 
住吉神社◇東京都中央区佃1-1-14
 
◇東京メトロ有楽町線・都営大江戸線「月島駅」徒歩5分
 
 
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≪今日の読み物≫
 
 
本「京都北野天満宮例祭」
 
 
菅原道真を祀る「北野天満宮」は、国を鎮め守る神として「天神さん」「北野さん」と呼ばれ親しまれています。
 
 
旧社格は官幣中社。特に学問の神として知られ、多くの受験生らの信仰を集め、福岡県の太宰府天満宮とともに「天神信仰」の中心となっています。全国各地に勧請が行われています。
 
 
平安時代中期、多治比文子らによって北野の右近馬場に菅原道真公の御霊をお祀りしたのが始まり。菅公は「和魂漢才」の精神を以って学問に勤しみ、幼少の頃より文才を表し、朝廷の官吏として活躍しました。
 
 
※「和魂漢才」(わこんかんさい)日本固有の精神と中国渡来の学問。日本固有の精神を失わないで、中国の学問を消化・活用するべきであるの意。
 
 
永延元年(987)一条天皇の令により初めて勅祭が執り行われ「北野天満宮天神」の神号を得ました。8月4日は、一条天皇が初めて勅祭を斎行された日に当り「例大祭」が行なわれます。農耕の神として神徳あらたかとして、氏子の西ノ京の農家が丹精込めて作った夏野菜を奉納し感謝の祈りを捧げます。
 
 
北野天満宮◇京都府京都市上京区馬喰町
 
◇JR「京都駅」バス「北野天満宮前」すぐ
◇名神高速道路「南IC」又は「東IC」より約30分
 
 
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≪今日の読み物≫
 
 
本「多賀大社萬燈祭」
 
 
「多賀大社」(たがたいしゃ)は式内社で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁の別表神社。古くから「お多賀さん」として親しまれています。「お多賀杓子」と称したお守り(杓子)を授ける慣わしがあります。
 
 
明応3年(1494)「神宮寺」として不動院を建立。中・近世には「伊勢」「熊野」とともに庶民の参詣で賑わいました。「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」との俗謡も。
 
 
「神宮寺」(じんぐうじ)とは、日本において神仏習合思想に基づいて神社を実質的に運営していた仏教寺院のこと。明治までは「神仏混合」と言って大方の神社境内にはお寺がありました。
 
 
「お多賀の子」とは、伊勢神宮祭神である天照大御神が、伊邪那岐命、伊邪那美命両神の御子であることを指します。古くより延命長寿・縁結びの神として全国的な信仰を集め、豊臣秀吉(羽柴秀吉)が厚く崇敬されました。
 
 
御祭神は「伊邪那岐大神」(いざなぎのおおかみ)、「伊邪那美大神」(いざなみのおおかみ)。
 
 
明治4年(1871)県社兼郷社、明治18年(1885)官幣中社に、大正3年(1914)官幣大社に昇格。昭和22年「多賀神社」から「多賀大社」に改称しました。
 
 
8月3~5日「万灯祭」が行なわれます。湖国夏の風物詩で、境内に文字通り「万余の提灯」が灯されます。黄泉の国(よみのくに=死後の世界)に移り、幽世の大神となられ、人々の祖先の御霊をお護りくださるという伊邪那美大神に「感謝の献灯」を捧げます。
 
 
多賀大社◇滋賀県犬上郡多賀町多賀604
 
◇近江鉄道「多賀大社前駅」徒歩12分
◇JR琵琶湖線「彦根駅」バス10分
◇名神高速「彦根IC」~
 
 
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本「秋田竿灯」
 
 
「竿燈」(かんとう)とは、豊作祈願とねぶり流し(不浄を祓い悪霊から身を守る)行事が結びついた禊の行事で、江戸時代より行われてきました。
 
 
ねぶり流しは、五穀豊饒や技芸上達を願う七夕とともに、旧暦7月15日のお盆を迎えるための一連の行事でもあります。厄除け、禊祓いから五穀豊穣などを願う現在の竿燈の形が除々に出来上がっていきました。
 
 
竿燈は、六間程の長い竹竿に九本の横竹を結び、これに46個または48個の提灯を数段に分けて吊り下げたものです。
 
 
竿燈全体を稲穂に、提灯を米俵に見立て額や腰や肩などにのせ、豊作を祈願します。竿燈の重さは約60㎏にもなるそうです。
 
 
半纏・股引姿の差し手若衆が持ち、笛太鼓のお囃子と「どっこいしょ」の掛け声に合わせて、額から肩、肩から腰へとバランスを取りながら擦り移し、妙技を競い合います。竿燈は200本以上、夜になるとまるで地上に降りてきた天の川のように幻想的。
 
 
竿燈祭は、毎年8月3~6日に行なわれます。青森「ねぶた」、山形「花笠」、仙台「七夕」と並んで、東北夏の四大祭りの一つに数えられ、重要無形民族文化財に指定されています。
 
 
開催場所◇秋田県秋田市◇秋田県道26号「竿燈大通り」の「二丁目橋」交差点~「山王十字路」の区間。
 
◇JR奥羽本線(秋田新幹線)「秋田駅」徒歩10分
 
※お問い合わせ※秋田市竿燈まつり実行委員会事務局
        TEL  018-866-2112
 
 
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≪今日の読み物≫
 
 
本「青森ねぶた祭」
 
 
東北三大祭りの一つ「ねぶた祭り」は、東北各地で行われる「眠り流し」などと共通の習俗で、七夕行事の一つです。国の重要無形民族文化財に指定。
 
 
秋の収穫を控えて、農作業の妨げとなる睡魔を払う禊祓い行事に、お盆の精霊送りが加わり、現在のような形態の祭りに発展していったと考えられています。
 
 
弘前市の祭りは「ねぷた」、青森市の祭りは「ねぶた」といいます。ねぶたは、木と竹と針金で枠を造り、それに紙を張った切子灯篭で、金魚形のものや扇形のもの、歴史上の人物を模った人形式のものなど、たくさんの種類があります。
 
 
連日、夕刻になるとこれに灯をともし、笛や太鼓の音とともに町中を練りまわします。独特の衣裳をまとった「ハネト」と呼ばれる踊り手が「ラッセラー」という掛け声で跳ねまわります。
 
 
起源は、坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷地に遠征した際、敵を油断させておびき寄せるために、大蟷螂・笛・太鼓ではやし立てたのが始まりです。
 
 
毎年、曜日に関わらず8月2~7日に開催されます。7日の夜にはねぶたの海上運行と花火大会も催されます。青森市内国道4号、新町通り、県庁通り、平和公園通りで囲まれたエリアが運行コースです。
 
 
日本の火祭り「青森ねぶた」は、毎年350万人を超える人出で賑わいます。
 
 
開催地◇青森県青森市・JR「青森駅」前
 
※問い合わせ※青森ねぶた祭実行委員会事務局
       TEL 017-723-7211
 
 
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本「八戸三社祭」
 
 
「八戸三社大祭」(はちのへ さんしゃ たいさい)は、280余年の歴史と伝統を誇る八戸地方最大の祭りで、国の重要無形民俗文化財に指定されています。
 
 
毎年、7月31日~8月4日までの5日間、華やかな山車絵巻が繰り広げられます。
 
 
「三社」とは、市内の「おがみ神社」「新羅神社」「神明宮」の三神社のこと。神輿行列と、神話・伝説・歌舞伎等を題材に、各山車組が制作した山車の合同運行が行なわれます。
 
 
大祭の由来は、享保6年(1721)法霊大明神(おがみ神社)が御輿行列を仕立てて、長者山三社堂(新羅神社)に渡御したことに始まります。やがて町民が編成した行列も参加するようになり、町の安泰や豊作を祈願する藩をあげての大規模祭礼として発展してきました。
 
 
明治17年(1884)の祭礼から新羅神社が、22年(1889)からは神明宮が祭りに加わり現在の三社大祭の形となりました。
 
 
7月31日:前夜祭◇山車の展示とお囃子実演
8月1日:お通り◇神輿と山車の合同運行
8月2日:中日◇山車夜間運行、加賀美流騎馬打毬
8月3日:お還り◇神輿と山車の合同運行
8月4日:後夜祭◇山車の展示とお囃子実演
 
※問い合わせ※八戸観光コンベンション協会
       TEL:0178-41-1661
 
 
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本「鬼貫忌」
 
 
「上島鬼貫」(うえしまおにつら)は、万治4年(1661)4月4日生まれの江戸中期の俳諧師。俳諧とは、江戸時代に栄えた日本文学の形式、またはその作品のことをいいます。
 
 
摂津国川辺郡伊丹郷の酒造業「油谷」の三男で、幼少の頃から俳諧に馴染んでいました。13歳で松江重頼に入門の後、西山宗因の談林派に入門します。
 
 
25歳で医学を志し大阪に出ますが、やがて仕官を求めて筑後国三池藩や大和国郡山藩、越前国大野藩などに出仕し、勘定職や留守居役を担当しました。この頃は藤原宗邇(むねちか)と名乗っています。
 
 
蕉門の広瀬惟然や八十村路通などとも親交があり、彼らを通じて松尾芭蕉とも親交を持つようになり、作風に芭蕉の影響を少なからず受けています。
 
 
享保3年(1718)「獨言」(ひとりごと)を刊行し、その中で「まことの外に俳諧なし」と述べるに至り、「東の芭蕉・西の鬼貫」と称されました。
 
 
晩年は平泉惣右衛門と名乗り、点也・仏兄(さとえ)・即翁・槿花翁(きんかおう)・自休庵・馬楽堂の別号があります。
 
 
元文3年(1738)大阪鰻谷にて死去。享年78歳。
 
墓所:天王寺区「鳳林寺」、伊丹市「墨染寺」。
 
 
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