可愛いだけで良くない?
うすいあきこです こんにちは!
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この1ヶ月の静かな観察日記(最終回)
✨横軸を怖がらなくなった日✨
今日、
ふと気づいたことがあります。
横軸を、
怖がらなくなっている。
⸻
横軸は、
ずっと私にとって
ヒリヒリする場所でした。
やらなきゃいけない。
理解しなきゃいけない。
説明できなきゃいけない。
そう思うたびに、
身体が先に
ぎゅっと固まっていた。
⸻
数字。
構造。
戦略。
ビジネス。
どれも必要だと分かっているのに、
そこに長く居るほど
消耗していく感覚があった。
横軸は、
私にとって
「戦う場所」になっていたのだと思います。
⸻
でも今日、
その感じが
すっと消えていることに気づきました。
分かった、というより。
克服した、というより。
ただ、
怖がっていない。
⸻
横軸が、
敵でも
修行でも
試験でもなくなっていた。
縦軸を
否定する場所でも、
矯正する場所でもない。
ただ、
確認のために
そっと触れる場所。
⸻
横軸は、
縦軸を外の世界と
共有するための
翻訳層だった。
そこに
住まなくていいし、
正解を出さなくていい。
必要なところだけ、
触れて、
戻ればいい。
⸻
だから今は、
「分かった!」ではなく
「ん…そういうことかも」
そんな
ふんわりした感覚。
⸻
横軸を
使いこなせるように
なったわけじゃない。
ただ、
怖がらなくなった。
それだけ。
⸻
この感覚は、
頭で理解したというより、
身体が
「もう大丈夫」と
言っている感じに近い。
⸻
今日は、
横軸と
友達になれそうな気がした日。
無理に近づかなくても、
距離を取りながら
同じ空間にいられる。
それだけで、
十分だった。
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(6)を書いたあとで、
ようやく触れていい場所が
あると感じました。
それは、
ブランドを立ち上げてからの
混沌と、疲弊の時間。
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ブランドを持つこと自体は、
私にとって
たくさんの喜びや出会いを
運んできてくれました。
でも同時に、
それまでとは
明らかに違う負荷も
静かに積み重なっていった。
⸻
それまで私は、
かなり縦軸寄りで
生きてこられていたと思います。
大企業とのデザイナー契約で
長らく仕事をしてきていたので
苦手な部分は
他の人がしてくれていました。
⸻
ところが、
紆余曲折を経て
自分のブランドを立ち上げてから
横軸の要素が
否応なく必要になってきました。
⸻
数字。
構造。
集客。
継続。
戦略。
⸻
デザイナーとしての
キャリアは積んでいたけど
経営者としては初心者。
初めてのことばかり。
私は少しずつ
削られていってたのには
気がつきませんでした。
確実に
エネルギーが抜けていく感覚。
⸻
「経営者として、
負けてしまっている
立て直しが分からない」
そんな言葉が、
心の奥に
沈殿していた時期もありました。
⸻
それでも、
完全に折れずに
ここまで来られたのは、
助けてくれる人が
常にどこかにいてくれたから。
そして何より、
縦軸の感覚だけは
最後まで
消えなかったからだと思います。
⸻
当時は、
ただの混沌でした。
整理もできず、
意味づけもできず、
ただ疲れていた。
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でも今なら、
はっきり言えます。
あの混沌は、
失敗ではなかった。
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縦軸だけでは
通れなくなった時代を、
横軸を抱えながら
どう生き直すか。
その移行期に、
私は立っていただけだった。
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(8)では、
その「混沌の正体」と、
なぜ疲弊したのか、
そして
なぜ今、
回収が始まっているのかを
静かに書いてみようと思います。
⸻
これは、
(6)を書いたからこそ
安全に触れられる回。
自分を責めるためでも、
美談にするためでもなく、
「ちゃんと通過していた」
という事実を
回収するための回です。
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縦軸が心地良いのに
横軸もないと納得できなかった私
私はたぶん、
ずっと縦軸寄りだった。
言葉になる前に、
身体のほうが反応して
しまうことが多く、
感覚で分かってしまうことも、
少なくなかった。
むしろ言語化が下手。
⸻
同時に、
横軸の説明がないと
どうしても
腹落ちしない人でもあった。
「それっぽい言葉」や
スピリチュアルな説明では、
分かった気にはなれても、
納得できず
感覚だけで進むことを、
どこかで
自分に許していなかったのだと思う。
⸻
だから私は、
縦軸の感覚を持ちながらも、
横軸の構造や言語、
因果の説明を
ずっと探していた。
⸻
ヒーラー的なことが
「できてしまう」ようにも
なりました。
でも、
それを積極的に
やりたいとは思えなかった。
能力や分野への拒否ではなく、
私が立つことになる
「関係性」に
身体がNOを出していたのだと思う。
⸻
誰かに依存される立場。
「治す人/治される人」という構図。
病気を目的に据えた関わり方。
そこに
私の居心地の悪さを
無意識に感じていました。
⸻
病気や不調が、
偶然ではなく
必然的に起きていることが多い
という理解はあり
実体験もしてます。
それでも私は、
それを
「治す役割」として
扱いたかったわけではないのです。
私が見ていたのは、
その先にある
生き方や前提、
そして
その人が
自分の足で立つことでした。
⸻
思い返してみると、
私は昔から
少し引いたところから
全体を見る癖があった。
デザイナーとしては珍しい、と
アートディレクターの方に
言われたこともあります。
つくる側でありながら、
同時に
「全体はどう見えるか」
「これはどこに位置づくのか」
を、無意識に見ていました。
⸻
だから私は、
感覚だけでは進めなかった。
全体構造が見えないと、
確信につながらなかった。
縦軸の感覚と、
横軸の説明が
同じ場所に並んだとき、
ようやく身体が
「これでいい」と
OKを出した。
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世界線。
意図。
前提。
この言葉で整理できたとき、
私は初めて、
自分の立ち位置が
ここがいいと思えた。
⸻
私は、
縦軸で生きている。
でも、
横軸を通過して
確認しないと
納得できない人でもある。
その両方を持っていたからこそ、
遠回りをしながら、
ようやく
自分の立ち位置に
戻ってきました。