最近、朝起きた時に布団の中で上半身だけを起こし、

お祈りをするようにしています。

お祈りといっても、目に見えないどこかにいる誰かに、

「どうか今日も元気でいられるように」とお願いする、ただそれだけです。

 

私はかつてかなりお祈りをする子でした。

なぜかというと、キリスト教の両親のもとに生まれたので、

昔からお祈りが自然と生活の中に溶け込んでいたのです。

朝起きた時の感謝の祈りからはじまり、3食ご飯を食べる時、

出かける時、家族でアクティビティをする時、個人で気になった時など、

とにかくお祈りはいつでもしていいものだということを教えられました。

 

お祈りとは、キリスト教的には出だしと締めのフレーズさえあれば中身は決まっていなく、大抵は感謝とお願い事を半々の感じで混ぜるのが一般的でした。

でも、嬉しい時には感謝、辛い時には自分の心情と物事が好転するようにお願いをするなど、祈る内容の背景には感情が伴います。

みんなとする時は長々と時間をとってもいけないので簡潔に済ませるけど、一人のお祈りの時は、それらも余すところなく伝えてとても長くなる時もありました。

実際、何かものすごい効果は感じずらくても、感謝をすればいい気持ちがする気がしたし、お願い事をすれば答えはちゃんと返ってくる気がしていて、私は一人ではなく、自分の両親よりももっと大きくて偉大な存在である誰かが、自分のことをいつも見守っていてくれてるような気がしていました。

 

 

それでも、成長するにつれ、「起きた時と寝る時、食事の前は絶対!」とある種強制のようになったり、お祈りをしないと何か悪いことが起きるのではないかという不安を感じやすくなったり、純粋に楽しめなくなる時期もありました。ものすごくお願い事をしたい時はヒザをついてお祈りするのに、忙しくてそれどころではない時は布団の中で祈りを始め、そのまま寝る…なんてこともよくありました。

 

 

そのうち、いろいろ考えがあって私は教会に行くことをやめてみることにしました。毎週日曜日に教会に行くことから始まり、幼い時から正しいと信じ守っていた戒律を、1つ1つ自分から無くしていく作業を淡々と進めていきました。これは、簡単なものとそうでないものがあって、やっている間は必死であっという間な気がしましたが、やっぱり葛藤が出てきたり、無くしたはいいものの、心に開いたスペースを何で埋めていいかわからず右往左往した時に感じたことは、今でもよく覚えています。

 

 

それでも、その中で私が何とかやってこれたのは、今までしてきたお祈りから得たある自信のおかげでした。

お祈りをした時に感じていた「誰かが私を見守っていてくれる」という感覚は、私が決断をしていく中で、お祈りをしようがしまいが、教会に行ってようが行っていまいが関係ないだろうという結論が出ていたのです。何をしていようが私は私で、お祈りをしようがしまいが、教会に行こうが行かないが、あんまり関係ない。でないと、教会で教えている原則的なこととつじつまが合わない。

 

 

 

本当に、それを自分で体現するのは勇気のいることでしたが、今こうしてここにいて、本当によかったと思っています。選択に正しいも間違いも無いのだから、ただ自分を信じて進めば、それに応じて望む未来が手に入るのです。それがパターンAでもパターンBでも、結局どちらでも自分が満足できればいいのです。

 

 

さて、話が少し逸れましたが、この「お祈り」。意識しないようにして生活するようになって長くなってきましたが、また、最近こっそり始めたのです。

 

 

 

きっかけは、日記を書いて、自分の気持ちをちゃんと表現することが大切だと思ったからでした。私は生活も仕事も自由になりましたが、リスクと不安もつきもので、もともとネガティブな性格も相まって、不安で考え込んでしまうことが多くなったのです。これでは労力と時間がもったいないと、何を不安に思っていてどうネガティブになっているかをきちんと書き出すようにしています。そうすると、一人でぐるぐる悩むことはなくならないまでも、気持ちの整理にはなって落ち着くのです。

 

 

でも、ただノートに向かって書くことって一人の行為なので、徐々に誰かに自分の気持ちや願いを表現してみたくなってきました。自由に、ただ気の赴くままに。そこで、あ、似たようなことやっていた、と思い出したのはお祈りのことです。今でこそ、定型文にはめてやってはいませんが、どこかで聞いている偉大な誰かに向かって、私は自分の気持ちや思いを心の中でつぶやくことにしたのです。

 

 

 

最初は、お祈りと思ってしていたわけではありませんでした。でも、思いついた背景に、お祈りをたくさんしていた過去があったのは確かです。こうして立ち返ってみると、お祈りって高次元の誰かとコミュニケートするという側面もありますが、自分の気持ちや思いを整理してスッキリするという効果もあるのだと改めて思います。だから、昔も今もした後には清々しい気持ちになるし、ぐっすり眠れたり、朝ポジティブな気持ちになりやすかったりする。これって、自分の気持ちや思いを外に出すために、しっかり自分の内側を認識するからだと思います。

 

 

 

最近、「マインドフルネス」という言葉をよく聞くようになりました。瞑想やヨガなど、自分の心を内観する活動に注目が当たっているように思います。お祈りもこれに似ているかと。瞑想は、自分の内なる声を聞いていくものだけど、私みたいにうちにベクトルが向くことが苦手な人は、誰かにしゃべる程で自分のことを表現していくことで、自分の声がわかり内観になったりする。それが、地に足をつけ、自分の位置を教え、冷静にすることを助けてくれるのです。