こんにちは
訪れてくださりありがとうございます。
最近おもうこと。
お坊さんがおっしゃったように、娘のことを思ってやることは、返せば、自分のためにやってることなんだと。
月命日のお花も、法要も、誕生日のプレゼントも、命日にあの場所に行くことも、
そうすることが自分の心を保たせられるような、、、。
もちろん
最初から、自分のためにと思ってやってるわけでは全然なくて、
結果論なんですけど。
そういうことをしているときは
娘を近くに感じることができる気がする。
それで
よけい悲しみにくれる時もあるし、がんばっていこうと思える時もある。
でも
それって、感情がちゃーんとうごいていますよね。
娘を感じながら、いろんなこと考えて、
それはとても尊いことなんじゃないだろうか。
絶対的な絶望があって
それは変わらなくて。
例えるなら、
心に消えることのない真っ黒い穴があいていて。
痛くてどうしようもない。
そこから
自分がどう行動していくか
あるいは行動しないか
ずっとずっと考えている。
でもね
それは自分で考えているというより「娘と共に」なんじゃないかと、振り返ると感じるんですね。
うまく言葉にできないけど
つきつめると「娘が」が主語な思考だと思うのです。
娘が喜ぶために何ができるか、
娘が生きた証を、どうにかして表していきたいとか、
こうしたら、ああしたら、娘がどう思う?とか、
そうやって娘のことを考えてることに救われている、、、。
だから、
娘のため=私のため
表裏一体なんだと思います。