私は携帯電話が嫌いです。

そもそも電話の基本概念である’全てをつなぐ’というのが許せません。ノキアの言っていた ' Connecting People’と言うのも、全ての人が繋がっていたいと思っていないのに、むしろ一人にしてくれと思っている人もたくさんいるのに、人々をつなげること=よいこと=推進するべきものという勝手な、押しつけ的な考えに不快感を覚えます。

 電話というのは、物理的な距離が遠い相手同士でも会話が出来るようにということで考案され、最初は有線を用いて特定の場所と場所を結び、その場所まで足を運べる人は会話ができるというものでした。話したい相手が隣に住んでいたら直接ドアを叩けばいいのですが、実際はそうじゃない。なので擬似的にあたかも相手が隣にいるようにする技術が必要だった。糸電話みたいなものですね。でもその本当の目的、いやむしろ欲求というのは、’相手がどこにいても呼び出したい’というものなわけですよね。しかし実際にそれを実現する方法がなかったので、とりあえず家に電話線を入れることにした。それは家=相手がいるであろうという仮定に基づいた論理であったと思います。でも実際には人は常に電話機の前にいるとは限らない。外出しているかもしれないし、トイレに入っているかもしれない。こうした理由から着信履歴や留守電という技術が生まれた。これはすでに一方的な ’外出中でたまたま電話機の前にはいなかったかもしれない。けれども留守電を残したからかけ直せよ’という要望が内在されている。ようは’聞いていなかった’という言い訳を取り除こうとする行為に見えるのです。家に電話機があるだけで、その近くにいないといけないことはないし、何度も留守電や着信履歴がないか何度もチェックしろという法律もない。ユーザーの自由にもかかわらず、相手は’電話した。留守電残した’という一方的な要求が発生している。
 
 電話に出るでない=誰かと話すか話さないかは本人に選ぶ権利があるはずです。誰かが家に訪ねて来て、家に入れるか入れないかは家主に決める権利があり家に本人がいるから必ず訪問者を通さないということは全くない。そして家主は訪問者から’なんで入れてくれないのだ’という質問に答える理由も義務も全くない。しかし、普通は誰かが訪ねてくるとなんとなく応答しないといけない気持ちや、居留守を使うのは駄目かなという面倒くさい作業が出てくる。楽しく見ていたテレビ番組も途中で気持ち的に中断させられるわけです。これに電話という厄介な者が拍車をかけた。家にやってくる人は物理的な距離のせいで数が限られる=頻度が少ない。しかし電話というのは距離という障害物を取り除いたので相手が地球の裏に言ってもこっち側のドアをノックしてくる。自分の個人空間が邪魔される頻度が圧倒的に増えた。それでも有線回線というバリアのおかげて、なんとか無視できた。
 
 そこでやってきたのが携帯電話という恐ろしいデバイス。今まで家を支点として結ばれていた電話網が、無線通信を使う事によって、携帯電話機があればどこでも繋がる状態になってしまった。そして小型化が進み、ポケットに収まるサイズになってしまった。これにより家が支点ではなく、携帯電話を持ち歩いている人間が支点になってしまった。リビングにいようがトイレにいようが、公園にいようが、相手が都合のいいときにこっち側に ’ちは!’ と声が届くようになってしまった。一人でいたいという人間の権利を平気で踏みにじるインフラが構築されてしまった。やろうと思えば、相手がどこにいるのかまで追跡できてしまいプライバシーもあったものじゃないわけです。
 これに追い打ちをかけるのがメール。携帯だけだったら、’手元に置いてなかった’、’寝ていた’というのが通じると思うのですが、最近のメールは相手がメールを読んだかどうかが相手にわかるようになっている。つまり’あんたさー、メール読んだのになんで無視しているの’と言ってくる人が生まれるわけです。

 寮みたいなところに住んでいると相手が自分のスペースにずかずか入ってくる。’おい、何してるの?’とやってくるわけです。別に何してても、何してなくてもいいし、そんなの聞かれる義理もないし。でも目の前で言われて無視するわけにもいかないので面倒くさいながらも対処する必要が出てくる。せっかく自分の家やアパートに住んでいて、物理的に距離があって、相手にずかずか入ってこられないバリアーがあったのに、携帯という輩のせいでその壁が消された。
 
 携帯を持っていないと’なんで持っていないのだ’と言われる。電話したと言われ気づかなかったといわったら、何度も電話したと言われる。メールでかけ直してと言ったと言われる。これが仕事だとか、約束した時間に来ないから電話したとか全うな理由があるものならまだしも、日常生活の中の何でもないことから要望される。

 なら携帯持たなければいいじゃんという話になるのですが、今の世の中色々な手続きなどのせいで、携帯を持たないという選択肢がなかなかない。電話番号がないと契約ができなかったり、事務手続きが進まなかったりする。携帯を持っているのに切っているとそれはそれで責める人がいる。
 私の場合は携帯持たなくてもいいのですが、仕事の携帯と一緒になっているので持っていないといけないプラス常時オンにしないといけない。

携帯会社にとっては全ての人に携帯電話を復旧させることによって、それを社会インフラ化し、常に利益がでる構造を作りたいわけだから、そのようにどんどん仕向けてくる。携帯電話がもたらした社会への貢献もたくさんあると思うのですが、その裏で携帯電話のせいでいい迷惑をしている人たちもたくさんいる。

やなり経済・お金が絡むと人の人権って無視されてしまうのを憂うこの頃です。

 ネットで ’やる気がでない’、 ’誰とも会いたくない’ と普段誰もがたまには感じるようなことをキーワード検索するとすぐさま ’うつ’ という言葉にリンクされ、うつ病の説明に始まり治療のことなどを紹介する誰かの気軽なブログや、Q&Aサイトの誰かの回答にさらされてしまいます。
 私はこの傾向に非常に疑問を持っています。一言 ’なんか気分が重い’ といっただけで、なぜうつ病の疑いになってしまうのか。うつ病はれっきとした病気でシリアスなものであり、ゆえにきちんとアセスメントが必要でたまたま土曜の朝に少しブルーな気持ちだったくらいで ’うつなんじゃないの?’ となるのはおかしいし、そのように ’鬱’ という言葉を乱用するせいで、意味のない不安を助長して心療内科などに足を運んでしまい、患者のことを考えずに ’はい、うつですね。じゃあSSRI始めましょう’ とお金儲けのためだけにさっさと薬物治療を開始する医者がいる現状で、処方箋なんか必要ない人が治療を始めてしまう可能性を高めてしまっているような気がして非常に懸念してしまいます。おまけにうつ病のための処方箋は長期(数年)投与のものであり、一度始めてしまうと簡単に辞める事ができず、患者は経過観察のために毎週一度医者から来いと言われ、’大丈夫そうですね。’という1分の問診のために1500円支払い、国は(つまり一般国民が間接的に)3000円を負担することになる。おまけにSSRIのような薬は副作用のせいで一度始めると簡単に(自己判断で)辞めれない事を医者が説明をしないケースが多い。(これはインフォームドコンセプトの観点からおかしいと思うのですが。)さらに辞めたいといっても今度はよくわからない理由でなかなか辞めさせなかったりする。
 心の病気は目に見えず、可視化できないにもかかわらず、ネットなどでたかが少しの質問に答えるだけで’あなたは鬱の可能性が高いです’と本当に責任を持って言っているのか不明なサイトが多い。SSRIについてもその仕組みを説明することは多くても、副作用として性欲がなくなってしまうなど患者としてはかなり敏感になってしまう情報はあまり書いていない。
 今やネットは人々が何かの情報を探そうとするときに最初に使うツールであり、故に情報に信頼性がないといけないのですが、実際には出版される本などと違い、誰でも情報発信が気軽にでき、しかもその内容が精査されない、匿名性もある。なんの知識もない人とがあることについて情報をネット発信しても、その内容が正しいから検索画面の上に出てくるのではなく、グーグルにお金を払ったら出てくるということがある。この視点から、ネットという存在が生んでしまう誤解、危険性をとても危惧するこのごろです。
できないことがたくさん。
料理、字を奇麗にかく、有意義な週末を過ごす、情熱を持つ、人にためにやる。
いきなりはできるようにならない。でも何もやらないと絶対できるようにならない。
繰り返し繰り返し意識してやって、振り返ったときに変わったなくらいでやっていくしかない。