60年ぶりに巡ってきた丙午。この年に生まれた女性は「気性が激しく、夫の命を縮める」という迷信があり、前回(1966年)の年の出生数は前年に比べて25%程度減ったという。昭和の高度成長期であったが、この事実とのギャップは興味深い。この迷信の由来は、「選択」今月号の石井妙子氏の連載「をんな千一夜」で初めて知ったが、江戸時代前期の「八百屋お七」だという。火事で焼け出されたお七一家は、近くの寺に避難した際、お七は寺の若い男に恋をした。新たに建てた家に戻ったもののその男を恋するあまり、もう一度焼け出されて寺に行けば再会できると自宅に放火した。放火は大罪である。16,7歳という年齢で、お七は鈴ヶ森の刑場で火炙りの刑になった。もともと、丙午の年は災害が多いと忌み嫌うむきもあって、お七が丙午の生まれであったことから現在のような迷信になったというのだ。
丙午の女性は私より7歳年下だが、40年くらい前にこの年生まれの女性と縁(えにし)があった。甘く苦い思い出である。待ち合わせ場所だった、渋谷ハチ公や六本木のアマンド前の景色は私の中では当時のままだ。今はどうなっているのだろう。新宿も懐かしい。歌舞伎町やスタジオアルタのある東口にはめったに行かず、西口専門だった。線路わきには当時、しょんべん横丁と名のついた飲み屋街があったが、あの汚さが懐かしい。
出身高校が今年度で閉校になることは以前書いたが、記念行事があれば参加しようと先月上旬に電話したら、特に予定はされていないが、何かあれば高校のホームページに掲載するということだった。先月末くらいまで1,2度ホームページをのぞいてみたが、何もアナウンスはない。このまま、母校は静かに終わるのだろうとほぼ諦めて先週金曜日(20日)に久しぶりにホームページを見たら、その翌日の土曜日2月21日に吹奏楽部の最後の定期演奏会が母校体育館であり、3月7日(土)の閉校式を兼ねた最後の卒業式には、特別扱いはしないが、旧職員、卒業生も出席できると案内が掲示してあったのだ。本来なら、取り壊される予定の母校校舎を訪問して見納める良い機会だ。万難排して行きたいところだが、先週土曜日の吹奏楽部のコンサートは週末だが会社で終日会議があり、3月7日(土)は午後1時から都内某所で仕事関連のシンポジウムがあるのだ。週末はいつもなら空いているのに、なんたる間の悪さ。縁がなかったのであろうか。
こんなことってある?
3連休真ん中の2一昨日2日(日)は茨城県南のメンバーコースでプレーしようと午前7時過ぎにゴルフ場に到着したのだが、支配人、レストランマネージャー他、ゴルフ場の面々が何人も玄関に出ている。何事かと思ったら、話をしたレストランマネージャーによると、原因不明の停電が突然発生、営業できずクローズだというのだ。連絡しようにもパソコンが使用できず来場者情報が閲覧できずにできなかったとのことであった。こんなことは初めてのことだが、ビジターで来場した方にはガチで怒る人もいるのではないかと思った。その後どうなったのかはわからないが、今週土曜に行く予定なので、ことの顛末を聞いてみよう。この日、ゴルフ場で門前払いされた後、どうしようかと考えたが、東京からわざわざ利根川を越えて来たのだ。そのまま何もせずに再度利根川を渡って帰るのも芸がないと思い、以前行ったことのある北茨城のコースに電話したら、混んではいるが、午前10時過ぎならスタート可能とのこと。さらに北上して那珂川、久慈川を越えた次第。スタートが遅いのでプレー終了は午後4時半。自宅を出てから既に11時間経過していた。そのゴルフ場には温泉とサウナとともに宿泊施設があるのだが、部屋の空きはあるというので、疲れていたこともあり帰宅する気力もなく急遽宿泊することにした。おかげで、じっくりと温泉とサウナを堪能し、冷たいビールと熱燗を楽しんだら、ぐっすりと眠れた。急なことだったので、夜に服用する処方薬2種類を持ち合わせていなかったが、以前、クリニックの医師には一、二日であれば服薬しなくても問題ないと聞いていたこともあり、この日の夜の薬はスキップした。翌朝(23日)は渋滞にあわないように早めに出発し、帰宅したのが午前11時頃だったので、すぐに朝用の7種類の薬を服用した次第であった。私は生涯服薬となる体となってしまったが、同様の事態を想定し、1日分の薬は持ち歩いた方が良いかもしれないと思った。
本日は午前中に以前出版した小学生向けの理科の教本の件で飯田橋の出版社に行った後、午後は新橋の貸し会議室で研究代表者をしているプロジェクトの会議が3時間あった。私が座長として仕切る関係省庁からの参加者もいる会議だが、やむ得ない事情で資料の完成が午前10時になったが、なんとか無事に終わり、終了後の懇親会では美味しい酒を飲むことができたのは幸いであった。