日本人ならば、「エリコ」という言葉の響きから、一般的な日本人女性の名前を思い浮かべる人が多いと思います。

 

今世紀初めのゼロ年代、日本の音楽シーン、まだ、J-POPに活気があったあの当時、小野綾子という日本人ポップシンガーがデビューしています(2002年)。その小野綾子は、2003年の夏に、「エリコ」という楽曲をリリースしています。以下が、その歌詞です。

 

【作詞:阿久悠/作曲:一木弘行】

 生き方が変わったら

 電話をくださいね

 そんな言葉のこし

 消えて行ったあのひと

 

 古い街には想い出があるだけ

 しあわせと同じだけ

 悲しみを与えてた

 

 Jericho Jericho 愛しい

 Jericho あれからどうしているか

 生き方は今も変えられず

 ごめんよといいたくなるばかり

 

 似たひとに会った夜は

 電話をかけてみる

 今は住むひともなく

 響く音が悲しい

 

 白い壁には約束の言葉が

 こわれない愛のため

 語られていたけれど

 

 Jericho Jericho 愛しい

 Jericho あれからどうしているか

 知るすべはないと思っても

 しあわせは本気で祈りたい

 

 やさしさに甘え傷をつけた

 くやんでも 時代は

 もどって来ない過ぎたまま

 

 Jericho Jericho 愛しい

 Jericho あれからどうしているか

 想い出の街をさすらって

 青春の一コマしのぶだけ

 

 

歌詞のストーリーから、主人公は「エリコ」という女性で、「生き方」という部分で生じた悲しい体験を歌ったものとして受け取れます。

 

しかし、この「エリコ」とは、あくまでも発音であり、歌のタイトルは英字で「Jericho=イェリコ」となります。この「Jericho=イェリコ」とは、古代オリエント、現代のパレスチナ地方にある古代都市と同じ名前になっています。

 

歌詞の中で、さりげなく歌われる「古い街」「白い壁」とは、そのまま古代都市「Jericho」の風景を示すものとして解釈できます。

 

20世紀から21世紀を超えてゆく時代は、様々なシチュエーションの楽曲がリリースされて、恋愛というテーマも、地理的、歴史的なスケール感で描かれたりしましたが、その中でも、敢えて、パレスチナの古代都市を選んだ小野綾子の「Jericho」は異彩を放つところです。

 

歴史に詳しい人は、旧約聖書のヨシュア記ある「エリコの戦い」を思い浮かべるところでしょう。聖書の中で、イスラエルの民は、神から「カナン」という土地を与えられることが約束されていました。「エリコの戦い」は、その「カナン」を征服するための戦いであったとされています。

 

歌に秘められた印象操作

「Jericho」の作詞は、20世紀後半の音楽シーンを代表する著名な作詞家でもある阿久悠さんでした。

 

私は、過去に、この世を形作っているのは霊力であるとする記事を配信しています。メディアを通して発信される視覚的シンボルや、言葉として伝えられるメッセージには、人々の霊的な潜在意識を動かすエネルギーが含められており、それが人々の集合意識となり、時代の趨勢を決するというものです。

 

 

日本のメディア界を代表する大手企業と言えば電通がありますが、この電通に海外資本が導入され、「電通ヤング・アンド・ルビカム」が設立されたのが1981年です。

 

昭和から平成にかけて、ニューミュージックと呼ばれたジャンルも含めて数々のアーティストが登場しましたが、彼らの曲作りなどが、ある時期を界に、商業主義的な嗜好に変化していったの感じている人々も少なくないと思います。

 

作詞家の阿久悠さんは、この時代を生きた人であり、阿久悠さん本人が意図したものではないにしろ、電通に海外資本が入って以降、メディア界は、オーナーとなる資本家の利益に還元するべく印象操作を目的に、大なり小なり、当時のアーティスト達に影響を与えていたのは間違いないところです。

 

その20世紀を代表する重鎮が、新世紀を迎えた2003年というタイミングに、旧約聖書にある古代都市名を冠する曲を世に送り出すとは、ここに一つの興味が出てくるところです。

 

「Jericho」に秘められたメッセージ

「Jericho」がリリースされた2003年以降、パレスチナやイスラエルに関連する映画が、立て続けに公開されています。

 

2004年:THE PASSION OF THE CHRIST ~ キリストの受難と磔刑を描く

 

 

2005年:Kingdom of Heaven ~ 聖地エルサレム防衛を戦った十字軍騎士を描く

 

 

時事問題に詳しい人ならば、「Jericho」のリリースは、2001年に発生したアメリカ同時多発テロの傷も癒えない時期であり、そこから数年の間に、キリストの生涯を伝える映画と、キリスト生誕の地「エルサレム」を巡る戦いを描いた映画が公開されています。

 

 

人々の集合意識を刺激するという観点から言えば、それは「聖戦」であり、その深層心理は「聖なる戦い=正義のための戦い」への誘(いざな)いです。同時多発テロを受けて、見えない敵との戦いを宣言したアメリカの立場を正当化するための印象操作としては、この上もなく機能した事でしょう。

 

「陰謀論」と呼ばれて、秘密組織が暗躍し、世界征服を企んでいるという噂話は当時から話題になっており、2006年公開の「ダ・ヴィンチ・コード」や2009年公開の「天使と悪魔」は、そうした陰謀論に人々に意識が集中するきっかけにもなりました。そんな噂の秘密組織も、結局はお金に踊らされた哀れなリッチマンであったことは、既に多くの人が知るところで、本当の実力者とは、お金を持っている存在ではなく、お金を動かすことができる人々のことです。

 

彼らの約束とは?

聖書が伝える古代都市「エリコ」とは、カナン人が住んでいた街とされています。カナン人とは、ノアの息子ハムの子孫で、ある出来事をきっかけに神から呪われるとこになります。聖書の物語では、ヨシュア記の中で、エリコの街はヨシュアが率いるイスラエルの民によって征服され、エリコの街に住んでいたカナン人の多くは、死に絶えたとされています。

 

 

 

 

小野綾子の「Jericho」で歌われる以下の歌詞は、この聖書のストーリーに掛けられた言葉なのかも知れません。

 

「今は住むひともなく」

「響く音が悲しい」

 

「白い壁には約束の言葉が」

「こわれない愛のため」

「語られていたけれど」

 

白い壁の「約束の言葉」とは、何のことなのでしょうか。神に呪われしカナン人が、後のエリコの戦いで非業の最期の遂げたのは、それが史実なのか、ある出来事の象徴なのか否か…

 

それは、数千年、数万年の時の流れを以てしても癒えない深い傷であり、それを誰にも明かさず、封印しておくことでエネルギーを増大させておき、来るべき相応しい時の「約束」に備えたものと考えられます。その「約束」とは何か…

 

カナン人は、その後の歴史の中で、フェニキア人として語り継がれており、地中海沿岸地方の経済活動で繁栄しましたが、ローマ帝国と戦い、最後の拠点だった都市国家カルタゴが滅ぼされてしまいました。この滅亡体験は、古代都市エリコから数えて2度目だったのかも知れません。

 

ローマ帝国の支配下で、フェニキア人は再び、経済活動を再開し、ローマ帝国後半期には皇帝に即位する人物を送り込むなど、バックグラウンドで大きな勢力を持ち始めます。ローマ帝国の崩壊後、フェニキア人の末裔たちは北イタリアへ移動し、ベネチア都市国家として繁栄し、やがて、彼らはスイスに拠点を置く国際金融資本としての地位を築き上げます。一説には、「黒い貴族」と呼ばれる人々のことです。

 

これは、もちろん、推測でしかありません。バックグラウンドで暗躍する勢力が、過酷な体験を強いられたカナン人であるならば、彼らの生きるエネルギーは「怒り」であり、それを弔うための行動を「聖戦」に位置付けて、この世を滅ぼすまでは、決して、負った傷を癒すまいと固く決意しているところでしょう。

 

2014年、旧約聖書「ノアの方舟」を描いた映画が、ラッセル・クロウ主演で公開されました。この映画「ノア・約束の舟」では、カナン人の祖とされるハムが登場しますが、聖書が伝えるストーリーとは異なるシチュエーションで描かれています。

 

旧約聖書の中では、方舟に乗船したノアの息子たち3人は、それぞれに妻を娶っていましたが、映画のストーリーでは長男セムだけが妻を娶っていました。そして、次男ハムは愛する相手を見つけるも、迫りくる洪水の途上で生じた戦乱で失ってしまいます。この点の相違点について、各方面からの批判が相次いでいましたが、カナン人が負った傷の根源的理由を象徴するストーリーとして解釈した場合、この映画は別の意味を帯びたものとなります。

 

 

彼らは、決して許さない。この世の中を叩き潰し、崩れ落ちる地球文明の破片に、祖先の時代に破壊されたエリコの壁の重ね合わせ、その時、初めて、彼らは涙を流すことができるのでしょう。

 

これ以上の考察は、やはり、聖書に立ち入り、それを読み解いていく以外、何も分からないところです。今後、私がチームを組んで取り組んでいるYouTubeチャネルの中で、聖書をテーマにした特集を行っていく予定です。どうぞ、よろしければ、以下のYouTubeチャネルもご覧になってください。