人間、身のうち、借りもの、魂だけが我のものと言います。これは、人間の身体と心は別物であり、心とは魂であり、それが自分自身の本体であることを示しています。 そして、人の生きる日常は、その人の心通りが現実となって姿を現します。この場合、心通りとは、潜在意識下の心を意味しています。 

人は、生まれる前に、どのような人生を歩むのかという計画を立てた上で、生まれて来ると言います。それは「魂の計画書」とも呼ばれ、過去世で歩んだ経験知に基づく場合と、魂が持つ本心に従ったものとがあるようですが、別の言葉で「因縁」と呼ばれることもあります。潜在意識とは、「因縁」すなわち「魂の計画書」に従った意識として考えても良いでしょう。 

実のところ、世の中の真実とは、こうした人間の心と身体に隠された秘密であり、このテーマについては、今も多くの人々が語ろうとせず、或いは受け入れようとしないのは、これが、これまでの歴史の中で徹底的に秘匿され続けた真実であり、これが、一般に知れると、現代文明の社会基盤が、根底から瓦解しかねない恐れがあるからでした。

 

量子力学の波と粒子について

かって、アインシュタインは、相対性理論の中で、この世界の成り立ちを定義しました。人間の身体も質量ある存在であれば、この相対性理論の定義下にあります。しかし、人間の心や意識については、現代科学は明確な解を提示していません。

素粒子など、物質の最小単位を扱う量子力学では、この物理世界は波と粒子で構成されていると説きます。実は、人間の心や意識は、量子力学でいう「波」ではないかという仮説が提唱されています。

アインシュタインと量子力学の父:マックス・プランク(アインシュタインの左隣)

私たちが見ている物理世界は、私たちの身体の五感が認識したもので、五感が認識する前の状態は、色であれば光の波であり、音であれば空気中の波であります。物質の「固い」「柔らかい」についても、人間の五感が認識した結果であり、人間が認識する以前は「波」の状態である考えられます。

人間の身体は粒子の集合体であり、それを動かす人間の心すなわち意識は波です。その意識である波が、生きるために必要な波を引き起こし、それを、私たち人間の五感が感じ取り、現実の風景として形作られます。 つまり、この物理世界は、人間の認識によって成り立っていることになります。

意識が波であれば、それを波として揺らすエネルギーがあり、それが「魂の計画書」であり、またの名を「因縁」と呼びましょう。むしろ、そのエネルギーそのものが人間の本質であり、9つの性格論を説くエニアグラムは、このエネルギーの種類を定義したものと考えられます。

特別なことがなければ、人間は「因縁」すなわち「魂の計画書」に従い、必要な波を起こして現実世界を創り上げ、意図した日常生活を送ることができます。このように創られた現実世界が相互に作用に仕合い、「仕合せ=幸せ」な人間社会が形成されるのです。

人間が真実を見失った理由

しかし、人間には、目先の都合から生じる欲望や怒りという感情に振り回されることが多く、心や意識を乱してしまい、悪くすると破壊してしまうことさえあります。このようにして、人間は「因縁」すなわち「魂の計画書」のことを忘れてしまいます。 

実は、こうした感情の発現が、自然発生的なものではなく、いわゆる陰謀によって仕組まれたものだとすれば、果たして信じる人々は、どれだけいるでしょうか。

現在、私たちの社会基盤となっている資本主義経済は、人々の意識や感情を一定方向へ向けさせることによって需要が生み出され、日常のリソースが消費に集中し、貨幣の流通が循環しています。

現在の資本主義経済は、大量生産〜大量消費を基本とするサイクルを回しており、あるタイミングで人々の意識が満足に達した場合、その途端、大量生産から大量廃棄へ転落してしまうリスクを孕んでいます。言い換えれば、人々が「満足」を追い求める状態を維持しておかなければならず、そのために、人々の心と意識は、限界を越えると痛みを発する身体と一体化させておく必要があったのです。

これが、伝説に伝わる「パンドラの箱」で、おそらく、人類の歴史で、交易という概念が生じた古代の時代より、人々は心と身体が別物であったことを忘れてしまい、身体の要求の通りの行動し、思いが達成されなければ感情を爆発させ、怒りが恐怖を生み出し、果てしない苦痛から解放されたいという需要が延々と作り出される現実となったのです。 

実のところ、この怒りと恐怖の感情を引き出すために、様々な呪術が使われてきた経緯があります。それは、一般大衆に留まらず、大企業の所有者から国家の権力者に至るまでが、需要と供給を生み出す社会システムを維持するために、踊らされ、利用されて来ました。

呪術使いは、歴史的には陰陽師と呼ばれる人々が活躍したと考えられますが、当然、彼らに命令を下す裏の勢力が存在していた訳で、陰陽師自体には罪は無いと思われますが、今回のテーマと異なるため、詳細については触れません。

 

明治維新前夜に人間の真実を伝えようという試みがあった

明治維新前夜の天保年間、人間の真実を人々に伝えようとした試みがありました。天保9年に発祥した天理教に始まり、明治時代にかけて、金光教や大本教などの様々な教派が出現した時期がありました。天理教の中山みき、大本教の出口ナオを引き合いに挙げても分かる通り、創始者は女性であり、それは、男性統治王に対して、女性祭祀王が存在した古代社会を象徴するもので、女性祭祀王すなわち巫女としての魂が、それぞれの教派にチャネリングされたという解釈もあります。 

ここでは、それぞれの教派の理念や、伝えようとした趣旨については触れません。冒頭に掲げました「人間、身のうち、借りもの、魂だけが我のもの」とは、明治維新前夜の、かなり早い段階で動き出した天理教の中で語られるものです。 

3号・20番:何にても、とかれん事はないけれど、心すまして聞くものはなし
13号・100番:月日より、にちにち心せきこめど、そばの心に分かりないので
13号・104番:何もかも、月日いかほど口説いても、まことに聞いたくれるものなし

上記は、天理教の「おふでさき」と呼ばれるもので、短歌形式で書かれているものの三首を上げました。教派内の解釈についてはここでは記載しませんが、一般解釈でも、伝えたいことが伝わらない状況を示している歌であると受け取れます。「おふでさき」3号は明治7年に筆記され、その後の13号は明治10年に筆記されました。状況に変化がないと察することができます。

3号・57番:高山のしんの柱(はしら)は唐人や、これが大一、神のりっぷく
3号・58番:上たるは、だんだん世界をままにする、神の残念、なんとおもうぞ
6号:64番:今までも、月日のままであるなれど、日が来たらんで、見ゆるしていた

57番の「高山」とは、「高い地位にある存在達」という解釈が分かりやすいところです。「唐人」とは、額面通りの解釈では大陸の勢力となりますが、教派内では「教えを解せぬ存在達」であり、意訳すると「力のある存在達の中心人物は、教えを理解できず、それが大一神の立腹」となります。ここに歴史的解釈を加えると、「当時の明治政府は、裏の勢力に操られており、それが神の怒りである」となります。58番の「上たる」も「高い地位にある存在達」で、「世界をままにする」とは、あくまでも個人的な解釈ですが、「力のある存在達が呪術使いに命令を出し、世界の思うままに操っている」となります。

6番の歌については詳細を割愛しますが、「日が来たらん」という言葉は「おふでさき」全体を通して繰り返し語られるもので、人々が真実を受け入れられる時旬が訪れていなかったという意味です。

 

人々が真実を受け入れる時旬

そして、21世紀を迎えた今日では、ようやく、この真実を自発的に受け入れる人々が増えてきました。一つの側面として、アインシュタインが説いた相対性理論では説明ができない様々な現象が検出され続け、そして、人々の精神面においても、これまでの社会通念では解決できない問題が山積みとなった現実がありましょう。

人々は追い詰められて、それでも、より良き未来を探求する意識を持てる人々は、誰彼に促されることもなく、古くから伝わる伝承を紐解き、また或いは、自らの実践と体験から、人間の真実とは何かの糸口を掴んだところです。

長く信じられてきた相対性理論とは、波が粒子となり、物質として構成されたあとの世界を定義したものです。しかし、波が粒子となるためには、人間によって波が認識される必要がありました。アインシュタインは、「神はサイコロを振らない」として、波と粒子を説いた量子力学を批判したとされますが、おそらく、アインシュタインは「量子力学」について、更には「人間の真実」についても知っていたと思われます。

それでは、なぜ、アインシュタインは真実を語らなかったのか、この点については、今はまだ踏み込む時旬ではないということで、今回の解説を締めくくります。

お読み頂きました方々、今年も一年間、お付き合い頂き、お礼申し上げると共に、先々は更に多くの人々が人間の真実に気が付くところとなり、来年もよろしくお願いいたします。