2023年が明けて「寒の入り」となり、季節は真冬の天王山「立春」へと向かいます。

 

「立春」とは、冬至と春分の中間に当たる時期で、天文学上、今年の立春は、2月4日11時34分となっています。統計的にも、この日を境に気温は上昇傾向に転じるとされ、春の足音を聞こえてきます。そして、この立春の前日が「節分」となり、本来的な意味は、「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の前日を節分と言い、文字通り、季節の変わり目を象徴したものです。

 

中でも、立春の前日にあたる節分は、草木や虫などの生命が立ち上がる時期とも重なります。一般に「節分の豆まき」と呼ばれるものは、人間にとって害をとなる生命に対する「厄払い」という意味から始まったと考えられています。もちろん、「厄」とされた生命達にとっては迷惑な話ですが…

 

 

思考のトリック

コインの一方を「表」とすると、同時に、反対側が「裏」になるという例え話があります。本来ならば、「表」も「裏」も区別はないのですが、その時の都合で、「表」が区別されて、意図せず「裏」が決まってしまうことはよくあります。もちろん、そうしないと選択の基準が定まらず、日常が成り立たなくなってしまいます。

 

この選択の基準で、気を付けたいのは、多々ある中で、「善」を定めると、必然的に「悪」が生じるということです。この思考トリックを、伝統的に続けているのが「節分の豆まき」です。

 

「鬼は外」「福は内」とは、節分の豆まきではお馴染みです。これは、「火事は外」「地震は内」というレベルのもので、「火事は外(に逃げる)」「地震は内(に籠もる)」として行動しても、身の安全が確保できるという保証はありません。言い換えれば、「鬼は外」「福は内」という思考を固定してしまうと、負け戦になりかねないということです。

伝統的風習の取捨選択が必要な時代になっている

2020年のある時期より、伝統的に繰り返された祭りや行事などが、軒並み中止にされた出来事がありました。中止になった理由については、一般メディアの報道を信じている人々が多いと思いますが、ここでは取り上げません。本質的な理由は、「伝統的風習の取捨選択」が求められているということです。

 

話題になったところでは、青森方面で続けられてきた「ねぶた祭り」です。こちらは、古代東北の蝦夷を滅ぼした坂上田村麻呂に因んだお祭りですが、坂上田村麻呂は、土地の青森にとっては征服者であり、「逆賊」という存在であり、その是非が問われて、20世紀の1995年には田村麿賞(祭りの参加団体に与えられる最高賞)が廃止されるという経緯がありました。

 

古くから伝統的とされたものであっても、その由来を辿ると、呪術的な要素を含んでいるものが多々あります。これまでの時代では、国體の堅持や文化の発展のために、呪術的な仕掛けも有効に機能した一面もありましたが、既に、そんな時代は過ぎ去ってしまいました。

 

「お祭り」とは、一定のまとまった集団の意識が一つに盛り上がり、それを楽しむというのが本質ですが、そのまとまった意識を意図した方向へ振り向けるのが呪術です。かって、20世紀の時代は、地球規模で発生したブームというものがあり、世界中が熱狂する事象がありましたが、それも21世紀以降、廃れてしまいました。一つには呪術が機能しなくなったことであり、「お祭り」を含めて、伝統的風習に含められていた霊的作用が効力を失ったことを意味しています。

 

その意味から、「伝統的風習」の棚卸しが必要なのであり、2月に控えている行事で言えば、「鬼は外」「福は内」であり、女性だけに贈り物が要求される「ニッポンのバレンタインデー」なのです。

鬼とは何か?

「鬼は外」「福は内」でモチーフにされる「鬼」ですが、一般的なイメージでは、頭に角が生え、髪の毛は細かくちぢれ、口に牙が生え、指に鋭い爪があり、虎の皮を身にまとい、表面に突起のある金棒を持った大男の姿です。頭の角と牙、指に鋭い爪という部分を除外すれば、中央アジアから西方に勢力を持ったアラブ系や西洋人を彷彿しますが、大男という部分を取り上げれば、古代より伝えられる巨人伝説を思い浮かべます。

 

 

日本でも、聖徳太子が巨人として描かれている肖像がありますが、古代エジプトや古代ギリシアでも、神話に登場する人物は巨人として描かれており、これらの巨人たちは、神々や聖者として崇められていました。

 

 

大きな体躯に「角」や「牙」という攻撃的な修飾を付けると、当然、恐ろしい存在の象徴となります。神々を恐ろしい姿として描くのは、抗いがたい存在という「理」を表していますが、その「恐ろしい存在」に対して豆を投げる「理」は、「戦い」以外に何もありません。それが、「節分の豆まき」に含められた呪術です。

 

「戦い」という「理」は、文明の発展段階、人間の成長段階では必要不可欠なものです。「戦い」という「理」が無ければ、逆境を乗り越えることが出来ません。しかし、それは「向かい風」を叩き潰すのではなく、「向かい風」を「追い風」に切り替えてしまえば済むことです。

 

しかし、「向かい風」を「追い風」に切り替える「術」を身につけるには、「戦い」という場面で生じるコストを受け入れる必要があります。「術」を身に付ければよいのですが、道を誤ると、「向かい風を叩き潰す」ことが目的に置き換わってしまい、「征服者」という業が輪廻してしまうので、注意したいところです。

赤鬼と青鬼の伝説

日本には、古くから「赤鬼と青鬼」の伝説があります。山に棲む赤鬼が、人間と仲良くなりたいと願って人間の村にアプローチしますが、人間は恐れをなして近づきません。そこへ、青鬼が赤鬼を訪ねて来て、青鬼が提案します。青鬼が村で暴れる演技をして、赤鬼が村人を助けるというものです。

 

この時の青鬼は、「何か大きなことをやり遂げるには、それなりの犠牲を払わなければダメなんだよなぁ」と赤鬼に言ったそうです。「心を鬼にする」とは、このことですが、同時に、社会の循環には、一定レベルの悪役が必要とされる所以も理解する必要があります。

 

その「悪役」に対して、いつまでも意識をフォーカスしていると、「煮詰る」が「憎しみ」に変化します。意識とはエネルギーであるため、エネルギーを注ぎ込み続けると、やがて沸騰してしまい、焦げ付きが憎しみを生み出します。

 

「煮詰る」の「に」も、「憎しみ」の「に」も、同じ「理」が働いており、これは、日本古来の言霊が伝える叡智で、「な・に・ぬ・ね・の」の発音が放つ意識エネルギーです。

 

「な・に・ぬ・ね・の」の発音は、アルファベットでは「N」の文字で表され、この発音が持つエネルギーは「成熟」です。「そうだナ」「そうよネ」の語尾につく発音も同じ「理」が働いており、「煮詰る」とは「検討が十分になされて、結論が出る段階に近づく」という意味を含み、調理の上では、次の工程に移る段階に達したことを示しています。

 

「赤鬼と青鬼」の伝説で、人間たちと仲良くなった赤鬼をみて、青鬼は人知れず、姿を消します。既に「煮詰った」状態から、「憎しみ」の種を生じさせないために、青鬼なりのポリシーが働いたことでしょう。

 

現代社会でも、悪役は一定の役割を果たしました。必要以上に「悪役」を求めると、「憎しみ」の種を撒いてしまう結果になりかねません。その意味で、今年の節分から「豆まき」は打ち切りましょう。