湯殿山神社へ初めて参拝したことにはきっかけがありました。
ちょうど6年前くらいなのですが、あるきっかけで「即身仏」のことを知ったのです。
どうしても一度この目で見ておきたいと思ったのがきっかけになりました。
「即身仏」とは、ミイラ化した僧侶の遺体のことです。
真如海上人の即身仏(大日坊・真言宗)
「即身仏」について
高僧が衆生(しゅせい)救済を目的として、永遠の瞑想に入ることにより、肉体をミイラ化させることです。
僧侶が入定した後、その肉体が現身のまま即ち仏になるため、「即身仏」と呼ばれます。
多くの高僧が土中に埋められて入定し、長い年月を経て掘り起こされ日本各地に祀(まつ)られています。
「即身仏」になろうとする僧侶は、死後に肉体が腐敗しないように、ミイラの状態に体を近づけるために木食修行(木の皮や木の実を食べ命を繋ぐ)を行い腐敗の原因となる脂肪を燃焼させ皮下脂肪を落とし水分を少なくします。
また、漆(うるし)の防腐作用に期待し、漆茶を飲みまた、嘔吐させ身体の水分を抜いたとされます。
真言宗の開祖である弘法大師空海は、即身成仏を果たして高野山の奥の院に祀(まつ)られています。
中でも、山形県の出羽三山山麓の庄内地方に6体、置賜(おきたま)地方に2体が安置されているのです。
現在も一般公開されているお寺があるのですが、僕は大日坊の真如海(しんにょかい)上人の「即身仏」を拝むことができました。
これらの「即身仏」を護持しているのは、いずれも江戸時代に湯殿山信仰の拠点となった寺院です。
湯殿山は、古来より出羽三山の奥の院として崇められてきたのです。
大日坊
大日坊の真如海上人
6年前どうして湯殿山に、そして「即身仏」にこのような思い入れがあったのかほとんど思いだせません。
この当時、心身ともにどん底から這いあがろうと躍起になっていたのだと思います。
きっと、生死の境目をこえて弥勒菩薩(みろくぼさつ)出生の時まで人間、その他の生命、すなわち衆生(しゅせい)救済を目的として永遠の瞑想にはいる僧侶に対して、何かを感じとりたかったのだと思います。
思いだそうと考えるだけで涙が溢れてくるのです。
"今を精一杯いきる"
このようなメッセージを最近特に感じます。
みなさまに感謝です。
ありがとうございます。






