BibleTimeの付属文書『聖書研究法』(The Biblestudy HowTo)をわずかに手直しして、翻訳者みずからアメブロでご紹介いたします。

まえがき

  • ハーマン ボブ [FAMILY Given]
  • BibleTime チーム [FAMILY Given]

製作著作 © 1999-2016 The BibleTime Team (bt-devel@crosswire.org)

本書はボブ・ハーマン(Mr. Bob Harman)の原作によるものであって、 "Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植" (CC BY-SA 3.0)ライセンスのもとにあります。

本書での聖句引用は、特に断りのない場合、いのちのことば社発行の『聖書 新改訳2017』によります。© 2017 新日本聖書刊行会

本書の概要

聖書研究法は聖書を研究するためのガイドです。

BibleTime チーム一同は、本書がみなさんにとって、聖書を学び、その語ることを知るための励みとなることを願っています。この特別(particular)の研究ガイドは、いかなる特定(particular)の教派の教義をも主張しないよう、注意深く選ばれました。聖書の語ることを理解するために、聖書を読み、研究なさることをおすすめします。みことばの種を心にまいていただくことを願ってするなら、主は失望をお与えになることはありません。


第1章 神のみことばの重要性

神のみことばを理解することは、神の御名を呼び求める者すべてにとって大いに重要です。聖書研究は、神さまとの交わりの主要な方法のひとつです。

ユニークな書

聖書にはこのように、他の追随を許さぬたくさんのユニークな特色があります。

  • 人気―毎年いつもベストセラーで、北米だけでも5億ドル以上の売上があります。

  • 著者―1,600年以上もの時間をかけて、生まれも育ちも時代背景も別々の40人が別々に書いたにもかかわらず、ただひとりの神の著書として読むことができます。

  • 保全性―フレドリク・ファイヴィ・ブルース著、柳田友信訳『新約聖書は信頼できるか』(Are New Testament Documents Reliable?)では、新約聖書の写本と他の古文書とが比較されています。

表1.1 新約聖書と他の古文書との比較
文献 執筆期間 現存する写本の成立年 経過年数 残存部数
ヘロドトス 紀元前448〜428年 西暦900年 1,300年間 8部
タキトゥス 西暦100年 西暦1100年 1,000年間 20部
ユリウス・カエサルガリア戦記 紀元前50〜58年 西暦900年 950年 10部
ティトゥス・リウィウス ローマ建国史 紀元前59年〜西暦17年 西暦900年 900年間 20部
新約聖書 西暦40〜100年 西暦130年(断片)、西暦350年(全巻) 30〜310年間 5,000部(ギリシア語)、10,000部(ラテン語)

カエサル著 ガリア戦記は、カエサルが原文を著した900年後に写された最も初期のものなど、10の写本が現存しています。新約聖書は、西暦350年のものとされた全文の手書き写本、新約聖書の大部分を含む3世紀のパピルス、西暦130年の『ヨハネの福音書』の断片があります。比較すべき手書き写本はいくつあるのでしょう。ギリシア語5,000部にラテン語10,000部です!

「証拠が真実かつ十分であることにかけては、新約聖書本文の立場は不動であって、他のいかなる古文書の追随をも許さないのである」

  • --本文批評家 F・J・A・ホート(1828-1892)『ギリシア語原語新約聖書』(The New Testament in the Original Greek) 第1巻561ページ、マクミラン刊、引用『いのちにかかわる問題』(Questions of Life)25〜26ページ

神の息づく書

新約聖書『ヘブル人への手紙』4章12節神のことばは生きていて、力があり、(略)新約聖書『マタイの福音書』4章4節イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る(原語の字義的には「出ている」)一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」》聖書を読むとき、神の霊がそこにあってわたしたちの心にみことばを語りかけ、わたしたちの心を新たにしつづけるのです。

『テモテへの手紙第二』3章16節によれば、《聖書はすべて神の霊感(原語の字義的には「息吹」)によるもの》です。あなたは、このことを信じますか。答えを出す前に、聖書に対するイエスさまの姿勢のことをよく考えてみてください。

イエスさまは人間の筆者のことを仰せられましたが、筆者たちすべての背後にただひとりの神である著者が当然おられるものとお考えでした。新約聖書『マルコの福音書』7章10節にある《モーセは(略)言いました》というのを「神は言われた」というのと同じ意味で言っておられました。新約聖書『マタイの福音書』19章4、5節によれば、旧約聖書『創世記』2章24節のナレーターのコメントを創造主ご自身のみことばとして引用することができました。同様に、新約聖書『マルコの福音書』7章6節では、旧約聖書『イザヤ書』29章13節から神である主の直接話法を引用するに際し《イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。》とおっしゃいました。聖書に著者と筆者がいることについて、新約聖書の筆者たちはイエスご自身から確信を得ています。彼らにとっては新約聖書『ヘブル人の手紙』1章1節で《神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、》というのと、新約聖書『ペテロの手紙第二』1章21節で《聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです》というのとは同様に真実でした。神は人間の筆者の人格を殺すようにして語られたのではありませんし、人間のほうも神である著者のみことばを損なうように語ったのではありません。神が語った。人が語った。どちらの真理も他方を損なうものではないのです。

これはそのとき、キリストがごらんになる聖書の見方でした。聖書の証人は神の証人でした。聖書の証しは神の証しでした。クリスチャンが聖書を神によるものと考えるおもな理由は、イエス・キリストご自身がそのようにお教えになったからです。

  • --ジョン・R・W・ストット 『論客キリスト』(Christ the Controversialist)インターバーシティ出版(InterVarsity Press)、1978年、93〜95ページ。

新約聖書『テモテへの手紙 第二』3章16節はこのように続きます。《聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。》これを受け入れるなら、聖書は真にわたしたちへの神の語りかけであって、信仰と行いのすべてにおいてわたしたちの権威となることになります。

働きの書

聖書研究はあなたに何をもたらすでしょうか。新約聖書『テサロニケ人への手紙 第一』2章13節によれば、聖書は《信じているあなたがたのうちに働いています。》それぞれの聖書箇所のかたわらに、神のみことばの働きを書きとめてみましょう。

表1.2 聖書研究がクリスチャンにもたらすもの
聖書箇所 もたらすもの
新約聖書『エペソ人への手紙』5章26節 洗う 《(略)みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、》
新約聖書『使徒の働き』20章32節 成長させる 《(神の恵みの)みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々ともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。》
新約聖書『ローマ人への手紙』15章4節 励ます 《聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。》
新約聖書『ローマ人への手紙』10章17節 信仰を与える 《ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。》
新約聖書『コリント人への手紙 第一』10章4節 教訓となる 《これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。》
新約聖書『マタイの福音書』4章4節 糧となる 《イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」》

解放の書

新約聖書『ヨハネの福音書』8章32節《あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」》これは、いつもここだけが引用されます。条件つきの約束なのでしょうか。それとも無条件の約束でしょうか。知識なら何でも当てはまるのでしょうか。31節にある、文章の前半をよく調べて答えを見つけましょう。《「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。

条件つきの約束であることが分かりました。特に神のみことばの真理について述べたものです。

新約聖書『エペソ人への手紙』4章14節で用いられるギリシア語の「風」は暴風という意味です。《こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、》聖書研究がわたしたちにもたらすものひとつは、真理の基礎をたたきこみ、容易に「吹き回されたり」しないようにすることです。

イエスは彼らに答えられた。あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。新約聖書『マタイの福音書』22章29節

間違いを犯さないために知る必要があるふたつのものとは何でしょう?

  • 神のみことば

  • 神の力

戦の書

新約聖書『エペソ人への手紙』6章10〜18節はわたしたちの霊的武具の描写です。

表1.3 霊の武具
防具はいくつ? 5つ
武器はいくつ? ひとつ
それは何? みことばレーマ

奨励

新約聖書『テモテへの手紙 第二』2章15節《あなたは務めにふさわしいと認められる人として、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神に献げるように最善を尽くしなさい。

新約聖書『コロサイ人への手紙』3章16節には《キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。》とあります。

何かが豊かにあるというとき、その何かはどのくらいありますか?

ちょっとやそっとではありません!

旧約聖書『伝道者の書』12章11、12節《 知恵のある者たちのことばは / 突き棒のようなもの、 / それらが編纂された書は / よく打ち付けられた釘のようなもの。 / これらは一人の牧者によって与えられた。 / わが子よ、さらに次のことにも気をつけよ。 / 多くの書物を書くのはきりがない。 / 学びに没頭すると、からだが疲れる。

付録:「ただ一度」

キリストにある神のイニシアチブの究極性に関する真理は、新約聖書ではひとつの語で表現されます。副詞のhapaxephapaxです。通常それは、欽定訳聖書では once と訳されます。ただ一度(once for all)という意味です。これは永久に正当で繰り返す必要のないものごとにいい、新約聖書では啓示と贖いの両方の用例があります。たとえば、新約聖書『ユダの手紙』3節では《聖徒たちにひとたび伝えられた信仰》に言及していますし、同『ローマ人への手紙』6章10節には《キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれた》とあります。(新約聖書『ペテロの手紙 第一』3章18節、同『ヘブル人への手紙』9章26〜28節も参照)

つまり、神はただ一度言われ、キリストはただ一度十字架にかかられたといえるでしょう。これはクリスチャンの啓示とクリスチャンの贖いがキリストのうちに等しく完成していることを意味しています。キリストには、何もつけ加えるものがありません。つけ加えるとすれば冒瀆になってしまいます。プロテスタントによる宗教改革が拠って立つふたつの岩があります。人間の伝統をつけ加えない神の啓示されたみことばと、人間の善行をつけ加えないキリストの完成されたみわざです。宗教改革者の掲げる大いなるスローガンのふたつに、わたしたちの権威についてのsola scriptura(ソラ・スクリプトゥラ、聖書のみ)とわたしたちの救いについてのsola gratia(ソラ・グラティア、恵みのみ)があります。

  • --ジョン・R・W・ストット『論客キリスト』(Christ the Controversialist)インターバーシティ出版(InterVarsity Press)、1978年、106ページ、107ページ。

おまけ: 聖書通読計画

規則正しく聖書を読んでゆく、かんたんな計画です。よろしければ、ひとつといわずやってみてください。たとえば1番と4番、2番と5番などです。年ごとの計画をいろいろくふうして、新鮮さを保ってゆきましょう!

  1. 新約聖書を一年で: 毎日一章ずつ、一週間に5日読みましょう。

  2. 箴言をひと月で: 箴言のひとつの章をその月の対応する日に読みましょう。

  3. 詩篇をひと月で: 5つの篇を30間隔で毎日読みましょう。たとえば20日目は20篇と50篇、80篇、110篇、140篇です。

  4. 詩篇と箴言を6か月で: 詩篇と箴言を一日あたり一篇または一章読んで読み通しましょう。

  5. 詩篇と箴言以外の旧約聖書を2年で: 詩篇と箴言を抜かして旧約聖書を一日一章読むと、2年と2週間で読めます。


第2章 聖書研究の基礎

聖書に取り組む目的とは

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

  • --新約聖書『ヨハネの福音書』5章39〜40節

この書の最大の目的は、その方のもとへわたしたちを導くことにあります。マルチン・ルターいわく、「揺籃へ行くは赤児のためにのみ」。そう、聖書研究とは、聖書研究そのもののためではなく、神さまとの交わりのためのものなのです。

イエスさまの語りかけたユダヤ人は、(略)聖書を持つことはいのちを持つことに等しいと思っていました。ヒレルは「律法(トーラー)のことばを自分のものにした者は、来たるべき世のいのちを自分のものにしたのだ」と言っていました。そのような聖書研究は、研究のための研究でしかありません。ひどい思い違いをしているのです。(略)

聖書を読むことそのもののために読むようになってしまい、イエス・キリストとの出会いが抜けてしまっては、得もなければ益もありません。いつでも聖書を読むときには、熱烈にキリストとの出会いを求めることが大切です。

  • --ジョン・R・W・ストット『論客キリスト』(Christ the Controversialist)インターバーシティ出版(InterVarsity Press)、1978年、97ページ、104ページ。

神のみことばへの取り組み

みことばを聞き、聖書を読めば、深遠な真理も望遠鏡のように視界に収めることができます。そのため聖書を研究し、記憶するならば、委細も詳細も顕微鏡のように正確に分析することができます。聖書を熟思することは、そのように聞き、読み、研究し、記憶し、みことばを肝に銘ずるということなのです。

聞く

新約聖書『ルカによる福音書』11章28節《「しかし、イエスは言われた。「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」」》

読む

新約聖書『ヨハネの黙示録』1章3節《「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである。時が近づいているからである。」》

新約聖書『テモテへの手紙 第一』4章13節 《「私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。」》

研究

新約聖書『使徒の働き』17章11節《「この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。」》

新約聖書『テモテへの手紙 第二』2章15節《「あなたは務めにふさわしいと認められる人として、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神に献げるように最善を尽くしなさい(ジェームズ王欽定訳では「研究しなさい」と同じ)。」》

記憶

旧約聖書『詩篇』119篇11節《「私はあなたのみことばを心に蓄えます。 あなたの前に罪ある者とならないために。」》

思い巡らす

旧約聖書『詩篇』1篇2〜3節《「【主】のおしえを喜びとし / 昼も夜も そのおしえを口ずさむ(注 あるいは「思い巡らす」)人。 / その人は / 流れのほとりに植えられた木。 / 時が来ると実を結び / その葉は枯れず / そのなすことはすべて栄える。」》

『ナビゲーター』(The Navigators)の示すとおり、親指はすべての指に触れることができますが―訳註 『祈りの手(The Prayer Hand)』参照―みことばを思い巡らすという親指も、聞き、読み、研究し、記憶するというほかの指と同様です。思い巡らすことは啓示を神さまからいただくための鍵です。新たにクリスチャンになった人にとっては、研究や記憶よりも、聖書全体のメッセージに慣れるため、聞いたり読んだりすることが重要です。

いろいろな聖書研究

課題研究

ひとつの課題を選び、それについて引照やコンコルダンスなどを用いて調べる。

人物研究

聖書の人物の生涯について研究する。例、旧約聖書『創世記』37〜50章のヨセフの生涯など。

徹底研究

ひとつの箇所(段落・章・篇・書巻など)を研究する。

正しい解釈のための基礎知識

内容

何と述べているか? 原語では何と述べているか? 定義に注意。書いていないことを読み取らないように。

文脈

節周辺では何と述べているか? 「文脈は王なり」が鉄則である。箇所全体や書巻全体の構造の中での意味が、その箇所にはある。

引照

ほかの節は本件について何と述べているか? それ以外の聖書全体の記述はどうか? 神に自己矛盾はない。ゆえに我々の解釈は聖書のほかの書巻の検証に立つ必要がある。

新約聖書『マタイの福音書』6章1〜18節の徹底研究

新約聖書『マタイの福音書』6章1〜18節をご一緒に研究しましょう。黙読して、まず鍵となる節を見つけます。箇所全体を要約する節がそうです。いかがでしょうか。確認のため、その箇所の別のところを選んで、その節とどのように関係するか考えてみましょう。鍵となる節が見つかったら、ノートのローマ数字 I のところにこう書きましょう。

  1. 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。

《「善行をしない」》とはどのような意味でしょうか。この箇所に例がありますか。生活のどの範囲のことを言っているのでしょうか。わたしたちの動機です!どのような副見出しでこの考えを展開してゆけますか。

  1. 施しをするとき

  2. 断食するとき

  3. 祈るとき

それでは、間違った善行をしないようにするにはどうすればよいか、具体的な指示を書いてノートを埋めてゆきましょう。

  1. 施しをするとき

    1. ラッパを吹いてはいけません。(今日、どのような行動が《「ラッパを吹」》くことにあたるだろうか?)

    2. 隠れてしなさい。

    3. ほか…。

練習 コンコルダンスの引き方

特定の節を探すには
  1. 節のキーワードや特徴的な語句をひとつ選ぶ。

  2. 50音順やアルファベット順の見出しから探す。

  3. その項目に列挙された聖書箇所を順に引く。

この節を見つけましょう。

  • 《「愛する者が傷つけるのは誠実による。」》

  • 《「私たちはキリストに代わる使節なのです。」》

  • 金持ちとラザロの話

課題研究をするには

「贖い」という語を研究するとします。まずコンコルダンスを引き、その箇所の引照を引きます。すると関連語句やそれらの引照を引くことができます。例、「贖う」「贖われた」「贖いの代価」など。「買う」「買った」と同様。

ギリシア語・ヘブル語の意味を確認するには

新約聖書『マタイの福音書』7章1節で《「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。」》という「さばく」と『コリント人への手紙 第一』2章15節で《「御霊を受けている人はすべてのことを判断しますが、その人自身はだれによっても判断されません。」》という「判断する」が、英文『ジェームズ王欽定訳』ではいずれも 'judge' (judgeth) だということに気づいたとします。別のギリシア語なのでしょうか? (ストロング・コンコルダンスを使用)

  1. "judge" を引く。

  2. 新約聖書『マタイの福音書』7章1節にあるストロング番号2919番のギリシア語を写す。

  3. "judgeth" を引く。

  4. 新約聖書『コリント人への手紙 第一』2章15節にあるストロング番号350番のギリシア語を写す。

  5. ギリシア語辞典で2919番と350番のギリシア語を比較すると答えが出る。(旧約聖書の場合はヘブル語)

名前の意味を調べるには

同様の手順によりギリシア語やヘブル語の名前の意味を調べることができます。

つぎの名前の意味を調べて書きましょう。

  • ナバル

  • アビガイル

  • ヨシュア

  • バルナバ


第3章 聖書解釈の鉄則 (解釈学)

わたしたちはすでに、内容(content)、文脈(context)、引照(cross-reference)の「みっつのC」について学びました。聖書解釈学をかんたんに掘り下げながら「みっつのC」を広げてみましょう。原文の筆者の(そして著者の)意図した意味を発見することがゴールです。聖書箇所の適用は数多くあっても、解釈はただひとつです。聖書そのものが、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないと述べて、そのことを言っています。新約聖書『ペテロの手紙 第二』1章20節《「ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。」》正しい意味を発見する助けとなる鉄則があります。ある人々はこれを無視して自分たちとその弟子に多くのトラブルをもたらしました。新約聖書『ペテロの手紙 第二』3章16節《「(略)その中には理解しにくいところがあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます。」》

聖書箇所の意図する意味が分かるためにはどうすればよいのでしょう。意味のよく分からない箇所が気になるとき、どうやって研究すればよいでしょう。この鉄則を心がけてください。

鉄則①…字義どおり解釈する

みことばの正確なもとの意味に忠実であるほど、わたしたちの解釈はよくなります。つぎのステップで、キーワードの正確な意味を調べてみましょう:

  1. 定義. ギリシア語やヘブル語の辞書で定義を調べましょう。動詞は、時制も重要です。

  2. 引照. 聖書と聖書を比較します。同じギリシア語やヘブル語(日本語ではなく)の聖書的用法を調べれば、定義が明らかになったり、新しい光が差し込んだりするかもしれません。同じ筆者はこの語を他の箇所にどのように用いているでしょうか。他の筆者はどうでしょうか。聖書以外の用法が参考書に載っているかもしれません。なぜ原語を調べる必要があるのでしょうか。どうして日本語では不十分なのでしょうか。なぜなら、同じ日本語に訳されていていても、原語では使われている語やその意味合いが異なる場合があるからです。

例①A

新約聖書『ヨハネの福音書』20章17節《わたしにすがりついていてはいけません。》は、文語訳では《われに觸るな》と訳されています。「触るな」とは乱暴な言い方ではないでしょうか。復活したイエスさまが神聖になりすぎたか何かで、触られたくないかのように聞こえます。しかし、そうではないようです。スピロス・ソディアティス(Spiros Zodhiates)の 新約聖書聖言研究大全 (The Complete Word Study New Testament) (AMG Publishers, 1991)を見てみましょう。

定義: 新約聖書『ヨハネの福音書』20章17節を見てみると、Touchという語の上にpim680とあります。この文字は品詞を示すもので、番号はストロング番号です。定義を調べましょう。(879ページ)「680、ハプトマイ。語根、ハプト(681、触れる)。変化させる影響力を発しながら何かを手にする。(略)セラファオー(5584)はこれと異なり、ものの表面に触れるだけである」。pimも引いてみましょう。ソディアティスの文法コードは新約聖書『ヨハネの黙示録』の直後の849ページにあり、pimとは「現在時制(Present)命令法(Imperative)能動態(Active)」のことだと分かります。857ページには「現在時制命令法は、能動態の場合、未来に継続もしくは反復の動作を行う何らかの命令を表し、また否定文の場合、何らかの動作をしているのをやめさせる命令を表す」とあります。これは否定の命令で、すでに生じている何らかの動作をやめさせようとするものです。さて、何が分かったでしょうか。

マリアはもうイエスさまにすがりついていて、イエスさまはしがみつくのをやめるようマリアに言ったのです!

例①B

新約聖書『ヤコブの手紙』5章14節あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。この「オリーブ油を塗る」とは何でしょうか?

ストロング希英辞典によるストロング番号G218 aleipho の定義は "to oil" です。「油を塗る」という意味のギリシア語はもうひとつ、G5548の chrio があります。ストロング希英辞典には「油を塗りつける、あるいはすり込む。すなわち、礼拝をささげる」("to smear or rub with oil, i.e. to consecrate to an office or religious service")とあります。動詞なので時制も考慮しましょう、"apta" のアオリスト分詞能動態です。《アオリスト分詞は、単純な動作を表し、連続の動作とは対照をなす。(略)主動詞と時制を異にするとき、それは通常、主動詞に先行する動作を示す》(ソディアティス  851ページ)

  • aleiphoの引照

    1. 新約聖書『マタイの福音書』6章17節《断食するときは頭に油を塗り、顔を洗いなさい。》

    2. 新約聖書『マルコの福音書』16章1節《(女たち)は、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。》

    3. 新約聖書『マルコの福音書』6章13節《油を塗って多くの病人を癒やした。》

    4. 新約聖書『ルカの福音書』7章38節《その足に口づけして香油を塗った。》

    5. 新約聖書『ヨハネの福音書』12章3節《香油を(略)イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。》

  • chrioの引照

    1. 新約聖書『ルカの福音書』4章18節《「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、」》

    2. 新約聖書『使徒の働き』4章27節《油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエス》

    3. 新約聖書『使徒の働き』10章38節《神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。》

    4. 新約聖書『コリント人への手紙 第二』1章21節《私たちに油を注がれた方は神です。》

では、aleipho と chrio の違いは何でしょうか? 引照と定義から振り返って、違いをまとめてみましょう: aleipho は油の実際的な用法であり、chrio は霊的な用法である。

善きサマリア人が強盗に襲われた人を手当てしたときの油の実際的な用法(その語が使われていないとしても)の実例としては、サマリア人が油とぶどう酒を傷に注いでいます。このように、イエスさまの時代、油には医療的用途がありました。

それでは、今のみことばの研究で学んだことを新約聖書『ヤコブの手紙』5章14節で実際にやってみましょう。あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。「オリーブ油を塗る」は霊的でしょうか、実際的でしょうか。実際的です!

そして、ギリシア語の時制(アオリスト分詞)は「オリーブ油を塗って」とうまく訳され、順序としてはまず油を塗って、そして祈りです(「主の御名によって」は祈りのことであり、油を塗ることではありません)。新約聖書『ヤコブの手紙』5章は、長老が病人に治療を行い、主の御名によって彼のために祈らなければならないと言っています。それはわたしたちの神さまの実際と精神の美しいバランスを表しているのではないでしょうか!

鉄則②…聖書の文脈に従って解釈する

他の箇所と調和して聖書を解釈してください。それぞれの節には何と書かれていますか? 章のテーマは何ですか? 書巻は? あなたの解釈は、これらに合いますか? そうでないなら、不備があります。通常、文脈は、正しくその箇所を解釈するのに必要なものを提供します。文脈は鍵です。その文脈の範囲内でテキストを解釈したあと意味の混乱があれば、さらに調べる必要があります。

例②A

以前の課で新約聖書『ヨハネの福音書』3章5節について考慮しました。水と御霊によって生まれなければ文脈によると、ここで議論している水とは何でしょう?

水のバプテスマの話ではありません。それだとイエスさまとニコデモの論ずる主題から大きく切り替わることになります。話題の急転に注意してください、解釈が狂うことは解決の糸口かもしれません! 水とは、羊水(「水によって生まれる」=自然の出生)です。

例②B

新約聖書『コリント人への手紙 第一』14章34節《「女の人は教会では黙っていなさい。」》というのは11章5節の文脈に従って考えなくてはなりません。《「女はだれでも祈りや預言をするとき、」》

例②C

新約聖書『使徒の働き』2章38節《「そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」》これは、洗礼による新生を教えているのでしょうか。関連聖句がこれしかないなら、それが結論となるでしょう。しかし、新生はキリスト信仰によって起こるという他の箇所の明白な教えの光に照らしてみると、それらの箇所のように理解せざるを得なくなります。ペテロは、福音への応答の方法として洗礼を勧めているのです。洗礼がもし新生のための道すじであるなら、どのようにしてパウロは、《キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした》と新約聖書『コリント人への手紙 第一』1章17節に書くことができたのでしょうか。

鉄則③…歴史的・文化的背景に従って解釈する

まず第一に、「これはわたしにとってどういう意味があるだろう?」ではなく「当初の読者にとってどういう意味があったのだろう?」と考えます。そのあとで「わたしにとってどういう意味があるだろう?」と考えることができます。筆者や受取人の歴史的・文化的背景を考慮する必要があるのです。

例③A

《「三日三晩」》(新約聖書『マタイの福音書』12章40節)という記述からカルト宗教のアームストロング主義のような水曜磔刑説に陥る人もいました。イエスさまは金曜日に死んで日曜日によみがえったのに、どうやって《三日目によみがえ》る(新約聖書『マタイの福音書』16章21節)のでしょうか。「三」や「日」の正確な意味はこの矛盾らしきものの説明の助けにはなりません。

ちょっとした歴史的知識が必要です。ユダヤ人は1日の一部分でも1日と数えました。ちょうどわたしたちがバケツの水を数えるのと同じです。(バケツに6杯半あるとき、1杯の半分は1杯ではないとしても、バケツ7杯というでしょう)そのように、ユダヤ人の考えでは1日の一部分でも1日とされました、そして、1日は午後6時から始まって、午後6時に終わりました。(訳注…厳密にいうと、聖書時代のユダヤの暦の1日は午後6時ではなく日没に始まって日没に終わりましたが、現在は計算しやすいように午後6時を日付の変わり目としており、ここでもそうしています)金曜日の午後3時から午後6時は1日目、金曜日の午後6時から土曜日の午後6時は2日目、土曜日の午後6時から日曜日の午前5時ごろまでは3日目です。文化的文脈を考慮して解釈すれば、トラブルがありません。

例③B

旧約聖書『創世記』15章7〜21節。歴史的文脈は、動物ふたつに切ってその間を歩くことがアブラハムの時代の通常の契約の方法であったということです。両者がその間を歩くと、違反した者はこの獣のように裂かれるという固い契りが結ばれるのです。しかしこの場合、神さまだけが通過し、一方的契約となさるのです。

鉄則④…通常の語法どおり解釈する

文字通りのことばは文字通りに、比喩的なことばは比喩的に。特殊な意味を持つ慣用句に注意。

例④A

《「目が悪ければ」》新約聖書『マタイの福音書』6章23節

鉄則①、「目」と「悪」の字義…手がかりはありません。鉄則②、文脈。よけいに混乱してきます。前後の何かが当てはまるようには見えません。正確に理解していないことは伝わってきます。

ヘブル語の言い回しに「目が悪い」というのがあります。この言い回しの他の用例を引いてみましょう。新約聖書『マタイの福音書』20章15節《自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいい(目がいい)ので、あなたはねたんでいる(目が悪い)のですか。》ヘブル語の「目が悪い」という言い回しに「気前が悪い」ないし「ねたんでいる」という意味があることが分かりました。さあ、6章に戻って、この理解がどれほど完璧に文脈に調和しているかに注目してみましょう。

例④B

旧約聖書『イザヤ書』59章1節《「【主】の手が短くて救えないのではない。」》

旧約聖書『申命記』33章27節《「下には永遠の腕がある。」》

モルモン教では、神さまのからだの器官の話を用いて、神さまがかつて我々のような人間だったという証明をしようとします。そして、そう信じ込ませると、我々も神さまになれるのだという教えに入るのです。『カルトの王国(Kingdom of the Cults)』の著者、ウォルター・マーティン博士の講義にモルモン教の長老グループが来て、そのような聖句を列挙して博士に言いがかりをつけました。博士はもうひとつ聖句を読むようモルモン教徒に頼みました。旧約聖書『詩篇』91篇4節《「主は ご自分の羽であなたをおおい / あなたは その翼の下に身を避ける。」》博士は「あなたがたの理屈でいうと、神さまは鳥だということになりますね」と言いました。モルモン教徒は自分たちの立場のばからしさに笑うしかありませんでした。

鉄則⑤…たとえの趣旨、たとえと寓話の違いを理解する

寓話とは、話を形づくるそれぞれの要素に意味があり、それぞれが比喩的に何かを表わしている話をいいます。

聖書のたとえはすべて寓話である。○か×か?

いくつかのたとえは寓話です。たとえば、種を蒔く人のたとえは寓話です。種は神さまのみことばです。茨はこの世の思い煩いと富の誘惑などです。ほとんどのたとえは寓話ではなく単純にひとつの要点を示す話です。たとえから教義を立てるのは危険です。いろいろなことを言うために、ひとひねり加えられていることがあるからです。教義は明白に記述された聖句から立てなくてはなりません。寓話が明白に記述しているのならよいのですが。

例⑤A

新約聖書『ルカの福音書』18章1〜8節のやもめと不正な裁判官のたとえ。この話の教訓は力強く祈ることです。もし寓話にとらわれてしまったら、どうなってしまうでしょう。

暴力にはすべて理由がある。神は不承ぶしょう、やもめやら、神を「煩わせる」祈りやらの権利を守るのだ。

例⑤B

新約聖書『ルカの福音書』16章1〜9節の不正な管理人のたとえ。このたとえの要点は何でしょうか? これは寓話ですか?

この管理人がほめられたのはただひとつ、管理の仕事がなくなったときに備えて発揮された彼の抜け目なさだけです。主人をだます不正な行いは、ほめられていません。