今の仕事では昔の事柄を参照して、資料の編纂をすることになっている。(こういうとかっこいいが、普通に写真整理だ)
古い市報の中で市に始めて「特殊学級」ができた時の話が載っていた。
「いくら勉強を教えても、字が読めない、そのため、教室ではいつもつまらない思いをし、挙げ句の果てに勉強がいやでたまらない。無口で友人がいない。いつもひとりで遊んでいる。こういうお子さんは、ちえおくれのために(脳の部分に障害をもつために)、ほかのお子さんといっしょに勉強することが、かえって、本人のためになりません。ちえおくれのお子さんほど本人にあった、適切な教育をうける必要があります。適切な教育をうければ、持って生まれた能力を、じゅうぶんに発揮することができるのです。そのような教育をするために設けられたのが、現在の特殊学級です。~こうした子供たちのために、具体的な生活をとおして、生活に必要なちえや態度(原文傍点強調)を身につけさせる勉強が必要なのです。」
私の母にこのことを話したところ、母は日本政府が子供の人権を守っていないという趣旨の話をした。
日本は基本的人権を保証する国だが、実際の障害者に対する教育では反対のベクトルに進んでいたというのが正しい。
それは特殊学級というものが作られたことからわかる。
以下は、日本国憲法の条文。
第二六条
すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
こちらは、教育基本法。
第三条
すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであつて、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によつて、教育上差別されない。
法律に則れば、障害児のみは普通学級には通わせてはならないなどということは書いていない。
しかし現実には障害児は特殊学級に通うことが「通例」となっている。
最初の市報もそうだが、論拠は「その能力に応じて」という部分なのだろう。
果たして自分たちの「能力に応じて」みんなと同じ学校に通わないというのは正しいことなのだろうか?
それは「憲法違反」ではないか?というのが母のスタンスだ。
私の母は特殊学級制度に反対し、障害児の小学校、中学校通学をボランティアでサポートしている。
その子の親に半額程度を出してもらい、実質は赤字のままで続けているそうだ。
たとえばその内の一人は、中学一年生に上がったが実際には三歳児程度の頭だ。
中学ならば普通は本も読み、数学や英語もこなさなくてはならないが、その子はようやく「文字」というものが存在するということがわかってきた程度だ。
つまり全く授業にはついて行けるはずもない。
からかわれたり、いじめに近い言葉を受けても、それを理解する能力も持っていない。
そんな子が普通に学校に行ってもいいのか?という声もあるだろう。
特にいじめの問題は大きい。そういう子はいじめの対象になる。
介護者がついていればそれほど表だった問題にはならない。
現に親が望まなかったために介護者がいない子はいじめにあっているという。
「いじめはいけない」という正論など何の役にも立ちはしない。
それでも、「そういう子はいじめに合うから隔離するべきだ」という意見には反対だ。
違う言い方をすれば、そういう経験をする「選択肢」を最初から外すことに反対。
「いじめにあう子」は障害者だけではない。
特殊学級に全てのいじめにあう子を通わせたら、普通の学校に通う子は半分に減るんじゃないか。
というのは極端だが、いじめというのは「その子を学級から除外したら」なくなるものではないからだ。
ただターゲットが他の子に移るだけ、というのが私の勝手な予測。
といっても、私はいじめにあったこともなければ他人のことを目撃したこともない。
ただ、私自身は中学は不登校だった。高校も行かなかった(正確には一年生の夏にやめた)。
私のように、普通に学校に行けない健常児もたくさんいるはずだ。
「障害児」だけを隔離する特別な理由など本当はないはずなのだ。
学校に行きたくない子がいることは自然なことだ。
問題はそういう子へのサポートをどうするかで、障害児を特別に「目に触れない」ようにすることではない。
また、「行かない」という選択を自分でさせることのほうが私には大切に思える。
本当に大事なのは、「勉強」よりも「経験」なのだ。
健常児の社会に身を置くことで、コミュニケーションの必要性を学んだり、我を押し通すことのできない状況もあるということを知る。
それは「特別視」される学校では会得できないものであり、いずれ大人になったときの社会への対応が問われる時がくるのだ。
そして一番大事だと思えるのが、障害児が普通にクラスにいることの周りの子への教育的な環境である。
実際、「障害者」というものが「怖い」という感情と繋がっている人のいかに多いことか。
なぜか皆最近街で見かけることが多くなった「障害者」を畏怖的感情で見ている。
それは障害者と話したことも、生活を見たことも無い人が「わからない」ために、事件報道などから怖いという印象だけで話しているのだろう。
その「わからない」=「恐怖」から、偏見が生まれている。それは変わらなくてはならないと思う。
その解決法は、子供の時から障害者が周りにいる環境にあると思う。
障害者には、犯罪を犯す者も、神経がひねくり曲がっていてぶっとばしたい者も大勢いる。
だがそれは「障害者だから」ではない。「その人だから」だ。(成長する環境がひどいため、「ひどい」人が障害者の中に多いことは認める)
それをわかりさえすれば、障害者とつきあうのに何も特別な心構えが必要なわけではないことは理解できる。
古い市報の中で市に始めて「特殊学級」ができた時の話が載っていた。
「いくら勉強を教えても、字が読めない、そのため、教室ではいつもつまらない思いをし、挙げ句の果てに勉強がいやでたまらない。無口で友人がいない。いつもひとりで遊んでいる。こういうお子さんは、ちえおくれのために(脳の部分に障害をもつために)、ほかのお子さんといっしょに勉強することが、かえって、本人のためになりません。ちえおくれのお子さんほど本人にあった、適切な教育をうける必要があります。適切な教育をうければ、持って生まれた能力を、じゅうぶんに発揮することができるのです。そのような教育をするために設けられたのが、現在の特殊学級です。~こうした子供たちのために、具体的な生活をとおして、生活に必要なちえや態度(原文傍点強調)を身につけさせる勉強が必要なのです。」
私の母にこのことを話したところ、母は日本政府が子供の人権を守っていないという趣旨の話をした。
日本は基本的人権を保証する国だが、実際の障害者に対する教育では反対のベクトルに進んでいたというのが正しい。
それは特殊学級というものが作られたことからわかる。
以下は、日本国憲法の条文。
第二六条
すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
こちらは、教育基本法。
第三条
すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであつて、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によつて、教育上差別されない。
法律に則れば、障害児のみは普通学級には通わせてはならないなどということは書いていない。
しかし現実には障害児は特殊学級に通うことが「通例」となっている。
最初の市報もそうだが、論拠は「その能力に応じて」という部分なのだろう。
果たして自分たちの「能力に応じて」みんなと同じ学校に通わないというのは正しいことなのだろうか?
それは「憲法違反」ではないか?というのが母のスタンスだ。
私の母は特殊学級制度に反対し、障害児の小学校、中学校通学をボランティアでサポートしている。
その子の親に半額程度を出してもらい、実質は赤字のままで続けているそうだ。
たとえばその内の一人は、中学一年生に上がったが実際には三歳児程度の頭だ。
中学ならば普通は本も読み、数学や英語もこなさなくてはならないが、その子はようやく「文字」というものが存在するということがわかってきた程度だ。
つまり全く授業にはついて行けるはずもない。
からかわれたり、いじめに近い言葉を受けても、それを理解する能力も持っていない。
そんな子が普通に学校に行ってもいいのか?という声もあるだろう。
特にいじめの問題は大きい。そういう子はいじめの対象になる。
介護者がついていればそれほど表だった問題にはならない。
現に親が望まなかったために介護者がいない子はいじめにあっているという。
「いじめはいけない」という正論など何の役にも立ちはしない。
それでも、「そういう子はいじめに合うから隔離するべきだ」という意見には反対だ。
違う言い方をすれば、そういう経験をする「選択肢」を最初から外すことに反対。
「いじめにあう子」は障害者だけではない。
特殊学級に全てのいじめにあう子を通わせたら、普通の学校に通う子は半分に減るんじゃないか。
というのは極端だが、いじめというのは「その子を学級から除外したら」なくなるものではないからだ。
ただターゲットが他の子に移るだけ、というのが私の勝手な予測。
といっても、私はいじめにあったこともなければ他人のことを目撃したこともない。
ただ、私自身は中学は不登校だった。高校も行かなかった(正確には一年生の夏にやめた)。
私のように、普通に学校に行けない健常児もたくさんいるはずだ。
「障害児」だけを隔離する特別な理由など本当はないはずなのだ。
学校に行きたくない子がいることは自然なことだ。
問題はそういう子へのサポートをどうするかで、障害児を特別に「目に触れない」ようにすることではない。
また、「行かない」という選択を自分でさせることのほうが私には大切に思える。
本当に大事なのは、「勉強」よりも「経験」なのだ。
健常児の社会に身を置くことで、コミュニケーションの必要性を学んだり、我を押し通すことのできない状況もあるということを知る。
それは「特別視」される学校では会得できないものであり、いずれ大人になったときの社会への対応が問われる時がくるのだ。
そして一番大事だと思えるのが、障害児が普通にクラスにいることの周りの子への教育的な環境である。
実際、「障害者」というものが「怖い」という感情と繋がっている人のいかに多いことか。
なぜか皆最近街で見かけることが多くなった「障害者」を畏怖的感情で見ている。
それは障害者と話したことも、生活を見たことも無い人が「わからない」ために、事件報道などから怖いという印象だけで話しているのだろう。
その「わからない」=「恐怖」から、偏見が生まれている。それは変わらなくてはならないと思う。
その解決法は、子供の時から障害者が周りにいる環境にあると思う。
障害者には、犯罪を犯す者も、神経がひねくり曲がっていてぶっとばしたい者も大勢いる。
だがそれは「障害者だから」ではない。「その人だから」だ。(成長する環境がひどいため、「ひどい」人が障害者の中に多いことは認める)
それをわかりさえすれば、障害者とつきあうのに何も特別な心構えが必要なわけではないことは理解できる。