薬が睡眠薬代わりになったら、薬飲まないようにしたら眠れないでやんの。薬物中毒一歩手前やん、自分。
本題。
明日は、8月6日。
原爆が広島に投下された日である。
原爆について、考えることが多くなった。それは大人になってから、実際には一人暮らしを危惧された祖母と一緒に暮らし始めてからである。
祖母はこの季節になると落ち着かなくなる。あのときの体験がフラッシュバックされるのだろう。
木やガラスの破片が体中に突き刺さった家族、水を求めて懇願し、飲んだ後「ありがとう」といいながら動かなくなる近所の人、傷を負ってはいなかったが、この手に抱いた甥や周辺の人を運んだことで血まみれになった自分の体。
ここではいいつくせない、いやどこでも言葉で表現できないほどのまさに「地獄」を体験したのだから。
3日の朝日新聞夕刊で「原爆投下「謝罪」米国内で論争」という記事が出ていた。
元米兵17人がオバマ大統領の演説から、「広島・長崎ざんげの旅」を企画し、それがメディアに取り上げられると猛烈な批判をあびたという記事だ。
よく原爆に対してあるアメリカの反応、「原爆投下は戦争を終わらせるためにはしかたなかった」という立場からである。
その中には、「原爆とは関係ない市民が謝罪することに何の意味がある」とした批判もあった。
しかし私はその意見には賛成しているのだ。世代の違う米国民が謝罪したとしても、それは自分自身のした罪を懺悔することとは違うし、今さら何も変わらないだろう、という思いがあるのは事実だ。
しかし、実際に被害を受けた人は、(この言葉はつかいたくないが「たぶん」)なにか、救われるところがあるのだと思う。日本人と韓国人の場合だが、同じような話を聞いたことがある。日本とアメリカの場合と同じことは言える。こちらがどう思おうが、「被害者」はあちらなのだ。
世代が変わっても、歴史の教科書に書かれることがいまだに「正当性」によって揺り動かされている。
当事者の立場から言わせてもらおう。
祖父母があと数センチ違う場所にいたら、この世に私は生まれていなかった、という意味で。
そして、原爆によって祖父母は生涯苦しみ、母の生涯、ひいては私の生涯に影響を与えたという意味で、私は当事者だ。
原子爆弾を使用することは、まぎれもない「悪」である。
バラク・フセイン・オバマが言ったことは「責任」だ。そう、持っているものには使う所までいかせないための責任があるし、廃棄するという「責任」がある。
使ったもの、いやアメリカではなく、人類には責任がある。
もう「正当性」という、国によって、時代によって基準の変わるものによって原子爆弾を語るのは「時代遅れ」にして欲しい。
あれは「地獄」を作るものなのだ。
どんな地獄だか、この時代に生きている者には日本人でさえ、理解できている人はほとんどいないだろう。私も理解しているとは言えない。
だが、「想像」することはできる。そして、震えることも、「使うと恐ろしいことが起きる」と思うことも。
だからこそ、アメリカ人には使ったらどんなことが起きるか、を知って欲しいのだ。相手がどんなに非難されるべき人間でも、「あれ」は人間の悪を凌駕するのだから。
そして、廃絶への道を歩んで欲しい。
批判された彼らには、そのような形で新聞に載ってほしくはなかった。
あれは原爆のことをアメリカ人に一時でも考えさせる、という点においては良かったのかもしれない。
しかし、だからこそ彼らにはアメリカ人一人一人に、「責任」を考えるよう、広めてほしい。
本題。
明日は、8月6日。
原爆が広島に投下された日である。
原爆について、考えることが多くなった。それは大人になってから、実際には一人暮らしを危惧された祖母と一緒に暮らし始めてからである。
祖母はこの季節になると落ち着かなくなる。あのときの体験がフラッシュバックされるのだろう。
木やガラスの破片が体中に突き刺さった家族、水を求めて懇願し、飲んだ後「ありがとう」といいながら動かなくなる近所の人、傷を負ってはいなかったが、この手に抱いた甥や周辺の人を運んだことで血まみれになった自分の体。
ここではいいつくせない、いやどこでも言葉で表現できないほどのまさに「地獄」を体験したのだから。
3日の朝日新聞夕刊で「原爆投下「謝罪」米国内で論争」という記事が出ていた。
元米兵17人がオバマ大統領の演説から、「広島・長崎ざんげの旅」を企画し、それがメディアに取り上げられると猛烈な批判をあびたという記事だ。
よく原爆に対してあるアメリカの反応、「原爆投下は戦争を終わらせるためにはしかたなかった」という立場からである。
その中には、「原爆とは関係ない市民が謝罪することに何の意味がある」とした批判もあった。
しかし私はその意見には賛成しているのだ。世代の違う米国民が謝罪したとしても、それは自分自身のした罪を懺悔することとは違うし、今さら何も変わらないだろう、という思いがあるのは事実だ。
しかし、実際に被害を受けた人は、(この言葉はつかいたくないが「たぶん」)なにか、救われるところがあるのだと思う。日本人と韓国人の場合だが、同じような話を聞いたことがある。日本とアメリカの場合と同じことは言える。こちらがどう思おうが、「被害者」はあちらなのだ。
世代が変わっても、歴史の教科書に書かれることがいまだに「正当性」によって揺り動かされている。
当事者の立場から言わせてもらおう。
祖父母があと数センチ違う場所にいたら、この世に私は生まれていなかった、という意味で。
そして、原爆によって祖父母は生涯苦しみ、母の生涯、ひいては私の生涯に影響を与えたという意味で、私は当事者だ。
原子爆弾を使用することは、まぎれもない「悪」である。
バラク・フセイン・オバマが言ったことは「責任」だ。そう、持っているものには使う所までいかせないための責任があるし、廃棄するという「責任」がある。
使ったもの、いやアメリカではなく、人類には責任がある。
もう「正当性」という、国によって、時代によって基準の変わるものによって原子爆弾を語るのは「時代遅れ」にして欲しい。
あれは「地獄」を作るものなのだ。
どんな地獄だか、この時代に生きている者には日本人でさえ、理解できている人はほとんどいないだろう。私も理解しているとは言えない。
だが、「想像」することはできる。そして、震えることも、「使うと恐ろしいことが起きる」と思うことも。
だからこそ、アメリカ人には使ったらどんなことが起きるか、を知って欲しいのだ。相手がどんなに非難されるべき人間でも、「あれ」は人間の悪を凌駕するのだから。
そして、廃絶への道を歩んで欲しい。
批判された彼らには、そのような形で新聞に載ってほしくはなかった。
あれは原爆のことをアメリカ人に一時でも考えさせる、という点においては良かったのかもしれない。
しかし、だからこそ彼らにはアメリカ人一人一人に、「責任」を考えるよう、広めてほしい。